GODZILLA 星を喰う者のレビュー・感想・評価
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過去のゴジラとは少し違うものの
一作目は人間対ゴジラのバチバチの対戦物ですが二作目からは人間の思想や哲学などが、入ってき始めて、最終章は人間の内面的な部分の話が色濃く出て、どちらかと言えばゴジラはそれの補佐するぐらいの役割となり、本来の怪獣が暴れ回る感じが殆ど無い事からかなりの批評が出る作品だとは思いました。
特に今回の最終章はギドラ自体が人の思想や犠牲から生まれた産物で、干渉を受けずにゴジラに攻撃をする場面はギドラそのものが昨今の神の様な象徴であり、動きの起伏があるゴジラは人間の立場で言う人の心の憎悪と言うか負の部分の象徴のような立場みたいな描写が、とても印象的でした。神にすがる人もいれば、自らの足で立ち向かう人もいて、最先端の技術を網羅して打ち勝とうとする人もいると言うのが今回の人種の違いで描かれていたのだと思います。最後に自我が強いとされる主人公が新人類に別れを告げてゴジラに単騎で自爆さながらの特攻も、やはり自分は人間なんだと言わんばかりの終わり方でとても人間臭い感じが出ていて良かったと思います。ゴジラが結果どうなったのかの曖昧さがさらに、人間は自分の負の部分に打ち勝てたのか、新人類にとっても又、カルマの如く心の負の象徴となるのかを自ら考えさせる構成となっていてる部分が後を引く作品となっていると思います。
残念なデキのゴジラアニメ最終章。
ゴジラアニメの最終章。アニメでしかできない表現をするって所は一定の評価ができるものの、総じて微妙でした。小難しかろうが、宗教について語ろうが面白ければ作品の評価は上がるもんです。極一部の人にしかウケてないのは、やっぱ単純に面白くない作品だったんだろうなっと思います。
発想はまだ面白いと思うんですよね。キングギドラが別次元の宇宙からやって来てるとか。母船が壊されるシーンはとても良かったと思います。ただそこがMAXでした。まぁ、登場シーンだけがカッコいいってのは、特撮でのいつものキングギドラのパターンを踏襲しているっちゃあしてるんですけどね。
しかし人間側のキャラクターに致命的に魅力がない。魅力がないのに長い。ここが作品を面白くなくしてるポイントではないでしょうか?最後のハルオ君の特攻も女孕ませておいてそりゃないわっと思って半ばドン引きしながら見えました。初代ゴジラの芹沢博士は少なくとも劇中描写では独り身でしたしね。ハルオ君責任感無さすぎです。色々理屈付けてるのが余計駄目男感を増していましたね。この最後の特攻で決定的にハルオが嫌いになったので、基本的にゴジラ擁護派な自分でも作品自体の評価は下がるってもんです。
この脚本家の人、有名みたいなのですが、自己犠牲カッケーという所で発想が止まってるんではなかろうかと思われます。せっかく新しい事やろうとしてるのに、作り手に新しさがないとつまらない作品にしかなれないよ。
三部作の中で一番つまらない
1つの可能性
私の生まれる前の作品も多々あるゴジラ作品群。
世代的な物もあるがやはり私はVSシリーズが好きなのだが、初代以降、ミレニアム以降、エメゴジ、ギャレゴジ、シン・ゴジラ含む全作鑑賞している。
ゴジラとは人類の傲慢さ、愚かさ、果ては自然の脅威等様々な要因を具現化した存在と認識しているが、やはり個人的には怪獣同士のプロレスが観たかったりする。
よってギャレゴジは嗚咽するほど感動しながら観たのだが、シン・ゴジラは欠伸しながら観ていた。
そして、アニゴジには全くと言って良いほど期待していなかった。
が、あれ、なんか、ここまで突き抜けると一周回って面白いな。
エメゴジが批判される大きな理由としては、ゴジラそのものに妙な生物性を与えた事だろう。
神秘的な物を無くし、生き物としての概念を与えた事で一気にゴジラからカリスマ性が消えたわけだ。
その真逆を突いた作品こそアニゴジだろう。
“ゴジラ=地球”という大胆な設定で、初代、84年版、シン・ゴジラ等で描かれた“人類の脅威”としての設定にこれでもかってくらい肉付けして生まれたものだと感じた。
批判はあるだろうし、その批判の声にも深く頷く。
しかし、私はアニゴジ3部作は大好きだ。
一作目から応援してきたのに
一作目から応援してきましたがこんな終わり方とは…語りたくもないですが正直に言うと最悪です。詳しくは書きませんけどこの作品は観ることで不快になる可能性もあるので観ようという方は一応覚悟した方が良いかもしれませんね。
二作目を観終わった時、作品自体はまあまあでしたが三作目という希望がありました。いざ観た結果シリーズ自体を見限る結果になりましたね。そんなこんなで評価点の低さには私怨もあります。めっちゃあります。嫌いだし控えめに言っても悍ましいと思うレベルです。それを無くしても良くて2.5点くらいですけどね(笑)
価値観の交錯
GODZILLA三部作をすべて拝見しました。一番面白かったのが、私にとってはこの三作目になります。難しい内容もあったので、レビューを書いて頭を整理し、映画の後味を楽しんでみたいと思います。
三作のなかでは、地球人類、ビルサルド、フツア、エクシフという4つの立場が出てきましたが、それぞれがゴジラへの向き合い方に関して、異なる価値観(あるいは常識)を抱いていたように思います。『決戦機動増殖都市』でもそうでしたが、『星を喰う者』ではハルオの視点を中心に、これら4つの価値観が交錯していました。
[地球人類(ハルオ)の価値観]
ハルオは「諦めたらそこで終わりだろ!」と、『怪獣惑星』の冒頭、移住船に乗り込んだお爺さんに訴えかけていました。ゴジラに故郷を追われ、孤独にゴジラ打倒の研究し続けてきたハルオにとって、ゴジラ打倒とは、22年に及ぶ漂流生活という状況のなかで失われた「人間性の誇り」、「人としての尊厳」を回復するための手段でした。だからこそ、生きることやゴジラ打倒への諦めは、「尊厳」の放棄であり屈辱を意味しました。ゴジラ打倒に対して地球人類は一枚岩だったわけではありませんが(リーランドは当初「名誉」のためにゴジラに挑んでいました)、ゴジラ打倒に対するハルオの価値観(「人間性の誇り」や「尊厳」を回復しなければならないということ)は、地球人類のそれを代表するものでしょう。
[ビルサルド(ガルグ)の価値観]
ゴジラ打倒に関して地球人類とともに積極的だったのはビルサルドでした。三作目における中央委員会の会議で、ドルドが「我々は共通の敵と戦っていたのではなかったのか!?」と叫んでいたように、地球上での人類種の生存圏域の回復という点で、両者は目的を共有していました。
しかし、ビルサルド(の代表者ガルグ)にとって、ゴジラとは「地球文明の偉業」であり、それを制御できなかったことが地球人類の失敗でした。「怪獣とは人の手で倒せないから怪獣」なのであって、ゴジラを倒すためには「非効率的なもの」(怒りや悲しみという感情、身体)を捨て、人ならざるものにならねばならない。人としての尊厳を回復したいという地球人類(ハルオ)と、人を超えねばならないというビルサルド(ガルグ)の間で、価値観の決定的な食い違いが土壇場で起こり、結果、『星を喰う者』まで尾を引くことになりました。
(それにしても、22年もの間、共同生活をしていながら、このような基本的な文化的交流すらなかったのはどうしてなのか、少し疑問です)。
[フツア(マイナ、ミアナ)の価値観]
ヴァルチャーによる体当たりでゴジラを倒せていたかもしれないのに、「人間性」への固執のためにその手段(機械との融合、ビルサルドの価値観を受け容れること)を選べず、そして、自分の決断(の遅さ?)のせいで自分自身ではなくタニ曹長を失い、「脱走扱い」となって「身の置き場もない」、そんなハルオに触れたのが、フツア(マイナ)の価値観でした。「私達は勝ってここに居る。勝ちとは生き残ること、命をつなぐこと。負けとは死ぬこと、消え去ること、ゴジラに挑むこと」。
「ゴジラは怖い」とミアナは言いましたが、ゴジラへの怖れとは、ちょうど竜巻や稲妻のように、適切な方法で以ってやり過ごすことのできる自然現象への怖れと同じでした。故にフツアにとってのゴジラとは、地球上で共存することが可能な存在であり、それ以外の何ものでもありませんでした。
映画では直接描かれていなかったので、ここからはあくまで私見ですが、この価値観がハルオに与えた衝撃はどれほどのものだったでしょうか。地球は2万年の間に、植物も動物もゴジラとの間に類縁関係をもち、すべての生物は「ゴジラに奉仕する(ゴジラの生存に都合のよい環境を整える?)」という生態系が出来上がっていました。宇宙に逃げのび、22年の間故郷を追われた惨めさに堪え続けた地球人類からみれば、2万年もの間、地球において生き延びた地球人類(≒フツア)は、なんと不幸な人々でしょうか。同じように文明を失った被害者であり、ゴジラの生きる厳しい環境で生きざるを得ない奴隷的状況を生きていたはずでした。
ところが実際には、フツアは奴隷としての惨めさとゴジラへの憎しみに燃えるルサンチマンではありませんでした。むしろ逆に、畏怖(畏敬の念)を以ってゴジラとの適切な緊張関係を保ち、ただ単に「生き残り、命を繋」ぐことを善しとしてきました。高度な文明の残り香を漂わせた人型種族から見れば、「そのような原始的生活は知性をもった人類としては下等であり、動物的ですらある」とか、「フツアのような生き方はゴジラからの逃避であって、人間の尊厳の放棄に他ならない」と見えたかもしれません(ビルサルドは言わずもがな、一作目のハルオもこのように考えたかもしれません)。確かにフツアは原始的であり、ゴジラから逃避しているのですが、だからと言って不自由なのではない。ゴジラの干渉を受けない程度の文明を保ち、奴隷的でもなく、まして地上の君主たろうとゴジラに対抗しようとしているのでもありませんでした。
ゴジラが近場に出現した場合、フツアは穴倉に息を殺してこもらざるを得ないのかもしれません。そのとき、フツアの民はいわば外出する自由や生存への自由を制限されていると言えるでしょう。しかし、私達が台風や洪水に見舞われて家に籠る、ないし避難するとき、自然災害によって私たちの自由は制限を受けるのですが、決して侵害されているわけではありません。もし侵害されているというのなら、台風や洪水を罰する法律を文明の中で生きる人間は整備しなければならなくなるでしょう。したがって、台風や洪水を法律の許に従属せしめねばならない。しかし、自然現象には人間のような人格(理性、個としての意識)はおそらくありませんから、人間の法律で罰することなどできませんし、まして、自然現象を支配し尽くす方法を人間は持ち得ません(おそらくそのはずです)。フツアにとってゴジラはいわば自然災害と同じであって、支配と従属、自由と侵害という文明的な言葉で説明するのは適当ではありません。単純な感想になりますが、フツアは、文明の楔から解放されて、あるがままを生きているように私には見えます(もちろん、その代償もあるでしょうが)。22年の間、ゴジラへの怨恨にただ燃え続けていたハルオが、この2万年の価値観に触れられた時の衝撃はどれほどだったか、推し量るに余りあるでしょう。
[エクシフ(メトフィエス)の価値観]
メトフィエスは、これまでと打って変わって表立って行動していました。彼にとってゴジラとは、端的に「飽くなき繁栄を求める傲慢への罰」でした。ところでメトフィエスによれば、人類の歴史的展開は「自らの滅び(ゴジラ)と向き合うための巡礼(準備期間?)だった」と言われます。このような歴史観が生まれる背景には、エクシフの宗教的(数学的?)洞察があります。つまり、「永遠は存在しない、宇宙は有限、全ては滅び消えていく。命とは恐怖の連続、恐怖からの解放と永久の安息は理性の宿願」というものです。
メトフィエスはさらにスープの比喩を用いて、「理性の宿願」を叶える方法とは「献身」(偉大なものとの一体化)と言います。人間は思考し、自ら献身の相手を選べる。個としての執着を捨て去り、自ら選んだ(実際には教導者によって選ばされている)相手と一体化することが唯一の「祝福」(救済)である、というのがエクシフの教義でした。
メトフィエスはハルオに入れ込んでいましたが、結局ゴジラをゴジラたらしめるものとはハルオ(地球人類の歴史全体を背負い総括する英雄)の憎しみであって、その憎しみの虜となっているハルオをギドラへ帰依させる(祈らせる)ことが出来れば、地球人類全体を救済することが出来るという狙いだったのでしょう。(このあたりになると、少々話についていくのが難しくなってきました。なぜハルオの憎しみがゴジラの本質なのか、なぜハルオが人類全体を代表する「英雄」と見立てられているのか、よく分かりませんでした。)
エクシフの教義は、一見理に適って見えます。理性をもつものは絶え間ない恐怖に苛まれる以上、恐怖を克服するのは、自分以上の存在と一体化することである。これは魅力的な教義に見えますが、しかし、その教義を生み出す前提の宗教的洞察には、矛盾が隠れています。永遠は存在せず、宇宙は有限で、全ては滅びゆくというのならば、どうして「滅びのさらにその果てに安息と栄光を見出すしかない」と言えるのでしょうか。滅んでしまえばそれで終わりなのですから、「さらにその果て」などというものは存在し得ず、「安息を求める」主体(魂、意識、理性)などというものも存在し得ません。メトフィエスの言う「祝福」「安息」とは、結局、生命を破壊し理性の苦しみを強制的に止めればいいだけであって、わざわざ形而上的な神(ギドラ)が必要とされる必然など、全くありません。さらに、ゴジラもギドラも、実際にやっていることは同じく、爛熟した文明の破壊であり、「祝福」や「滅亡」とは人間が勝手に拵えた事情であって、怪獣たちには何ら関係ありません。劇中に出てきたゲマトリア演算とはどういうものかは分かりませんが、メトフィエスは、魂の不死と永遠について、数学的帰結に頼らず、もっと哲学的に思索するべきでした。教義全体の徹底さが欠けていたために、なぜギドラを頑なに「祝福」と言うのか私には理解できず、鑑賞中に混乱してしまいました。
結局、ハルオは自分の名前(存在?)の由来(春:命のよみがえる季節)の記憶にたどり着き、メトフィエスが齎そうとしている「祝福」と詐称しただけの単なる滅亡(冬)を脱し、「俺たちの過ちに慰めなんかない!」として、メトフィエスを退けます。メトフィエスは「悲しみも苦しみも、生きとし生けるものすべてに課せられる呪いだ。故に、その命ある限り、ギドラはお前を見ているぞ」という言葉を最期に残して、息絶えます。
[価値観の逆転、もしくは変容]
さて、ハルオ(地球人類)の命ある限りハルオを見ているギドラという存在とは、一体何なのでしょうか。マーティン博士は、タニ曹長の身体からナノメタルのサンプルを回収し、それを材料にヴァルチャーを修理してしまいます。ビルサルドのようにナノメタルを制御できれば、人類はまた地上に繁栄できる。高度な技術文明の可能性が開けたとき、「そうとも、繁栄を求める飽くなき向上は人の性。そしてまた、収穫(破滅)の時は必ず来る」というメトフィエスの声が、ハルオの存在へと語りかけます。ここでギドラは、別の宇宙に住む単なる怪獣ではなく、虚ろで不確かな、しかし影のように確かに人間の傍に居る存在、人間のあり方の(宿命的な?)可能性へとシフトしています。劇中の言葉では、象徴的に「虚空の王」と呼ばれていましたが、何らかの点でニヒリズムと関連するのでしょう。私にはこれ以上のことは分かりません。
タニ曹長と共にヴァルチャーへ乗りこんだハルオは、おそらく過去の人類と同じ轍をフツアの民に踏ませないために、ヴァルチャーごとゴジラへと突っ込み、文明の痕跡(ヴァルチャ―とタニ曹長の身体)をゴジラに破壊し尽くさせます。ハルオはゴジラへの憎しみに燃えたまま突撃するのですが、フツワにとって自殺は「負け」を意味しますので、ミアナはハルオを止めようとします。すると、「ただ勝ち続けるだけの命なら、獣と一緒だ。でも俺たちは、いざとなったら負け戦だって選ぶこともできる」と言います。これまでハルオにとって「勝ち」こそ、人類の尊厳の回復でした。ですが最後には、ハルオの価値観は逆転しています。ここでは「負け」こそが人類の尊厳の回復なのです。なぜこうした価値観の逆転は起こったのでしょうか。仮に逆転でないとしても、ゴジラを憎みつつも、ゴジラに文明が滅ぼされても構わない、否、滅ぼされねばならないという変容をハルオに齎したものは、一体何だったのでしょうか。この点についても、これ以上のことは分かりません。
分からないところは若干残りますが、大変、面白い映画でした。
賛否両論
従来のゴジラの様に破壊描写やヒューマンドラマという点においてこのGODZILLA 星を喰らう者は少し難解過ぎて賛否が分かれると思う。いや、難解というのは少し正しくなくどちらかと言うと要素を詰め込み過ぎている気がする。監督の感想など一切知らないが初見では人類の盛者必衰や在り方などを表したかったのだと思う。しかしそれ故の急展開(一応伏線はあった)、前作のビルザルドやエクシフ然り力を手に入れた時からの豹変ぶりは失笑ものだっだ。この豹変を人の愚かさとして表しているのならまだ許容できそうではある。そして一番の問題は戦闘シーンである。私的にはここが古株のファンが受け入れないところなのでは無いかと感じた。一作目のゴジラを倒したところでもう一体が出てくる時の絶望感はなかなか良かったが3作目は少しゴジラへのリスペクトが足りなかったのでは無いかと思う。それに相手のギドラはギドラと言うにはあまりにも……。肝心の戦闘シーンはギドラがゴジラに巻きつくだけで残念ではあったが、ギドラ降臨の不可解さは嫌いでは無かった。ここばかりはゴジラ キングオブモンスターに期待するばかりである。それ故に3部作全部で見れば評価は2〜3.5といったところが妥当だと感じた。終着点は人を選ぶ形なのでもう少し心が救われる終わり方ならば評価は上がったのかも知れない。しかし、監督の表現したかったものが一貫して存在しているであろうという点では面白い作品だったと思う。
二大怪獣 地球最大の“イミフ”決戦
鳴り物入りで始まった“アニゴジ”。
3部作の最終章。
何だか作られる度に厳しい声が増えていき、今作は殊更。
見てみて、納得。だって…
もはや怪獣映画ではない。
前作前々作はまだゴジラと闘うハードSFアニメの類いであったものの、それでもない。
こりゃただの宗教映画。
ゴジラ・アースに敗れ、生き残った人々は神にすがり、メトフィエスは“神”を降臨させようとする。
ゴジラを倒せるのは、神だけ。おお、神よ!神よ!
これ、何かの勧誘…?
主人公ハルオもすっかり目的を見失っている。
絶望の淵に立たされた人々のドラマとしてはアリかもしれないが、最後の最後に描きたかったのは、これ…?
登場人物の名や関係図も話もほとんど忘れ、それ所か興味すら薄れ…。
う~ん…。不満や文句しか出ない。
まあそれでも、劇中の神にすがるって訳ではないが、その神が遂に姿を現してから、少~しだけ見れるようになった。
絶対的な破滅、畏怖の名、王なる者、黄金の終焉、
ギドラ!
今作のギドラは、これまで登場したどのギドラでもない。
姿形は見えているのに、機器などでその存在を捉える事は出来ない。
ゴジラに喰らい付いているのに、不思議な事に実態が無いかのようにゴジラは掴む事すら出来ない。
別次元から来た、幻か悪夢か。
ゴジラにとっても、人類や地球にとっても、最大の危機。最大の脅威。
…それはいいのだが、またもや期待すると、肩透かし。
ただギドラはゴジラに喰らい付くだけ。
ファンが見たいがっぷり四つに組んだ大迫力の“ゴジラvsギドラ”は描かれず。
まあ確かに、実態ある者と虚空の存在とじゃそうなるわな…。
一応今作のギドラもある人物に操られ、そして懐かしのあの“声”と“音”!
そこら辺はニヤリとさせられたが、それ以外は…。
ちゅーか、今作のギドラ、すでに多くの方が指摘してる通り、『ウ○○ラセ○ン』のナ○スやん!
それから、あの守護神巨大蛾も登場するも…
精神(?)の中に、シルエットだけ…。
ラストも何だか…。
ハルオのよく分からん精神面が延々描かれる。
メトフィエスの哲学台詞も延々と。
何とかギドラを倒す。ゴジラこそ破滅と救いの“神”のようではあるが…、
ゴジラと人類、人類にとってゴジラとは?…などももっとはっきりと描いて欲しかった。
♪春が来た~ 春が来た~…と、ハルオが自分を取り戻す。
絶望の中にも希望が…みたいな流れになってそう終わるのかと思いきや、突然ハルオは自滅的に再びゴジラに挑む。
言動、心情もイミフ。
作品そのものが迷走、イミフ。
本作は単品の映画としてもビミョーだった。
自分でレビュー書いててもやっぱりよく分からん!
虚淵脚本で期待した“アニゴジ”だったが、3部作全て見て思うと、
結局まあまあ良かったのは最初だけ。どんどんコレジャナイ…いや、コンナハズジャナイ感が。
せっかくアニメでゴジラを作るという斬新で野心的なプロジェクトの筈だったのに、つまりは何をやりたかったの…?
本当に“ゴジラ”である必要あったの…??
この失望感…。
是非ともこれを、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』で払拭してくれ!
脚本家の自己満足満開バッドエンド
最初にはっきり言うが、見る価値なし。
全体のストーリーを端的に言うならばただのよくあるディストピアものに過ぎず、これをゴジラの名前を使って修飾しただけのしょうもない映画。ゴジラって何ですか?怪獣映画って何ですか?そしてそれをアニメでやるってどういう意味があるんですか?ということを、真剣に考えるのが馬鹿馬鹿しくなるようなお粗末な内容。脚本家の自慰行為にゴジラというコンテンツが浪費されただけじゃないかという、強い憤りさえ感じる。
一作目はまだマシ、二作目以降は本当にひどい。人物描写もブレ過ぎてて、登場人物に感情移入がまったくできない(むしろ自分はビルサルドに感情移入した)。
圧倒的な力に抗うことのできない人類の悲壮感や虚無感を強調したいがゆえの無駄なシーンが多すぎて、途中で飽きてしまう。
よくありがちな「人類の驕りが自然の怒りを買った。文明は滅びるべき。人類は原始の生活に戻るべき」みたいな、一体何年前の価値観なんだよそれは、という余りにレベルの低い脚本が延々と続く。
そして挙句の果てに不必要な大虐殺と主人公の死。しかも、きっちり子種を残してるあたりが浅ましくて気持ち悪い。
全てに納得できるストーリーがない。
全てのシーンが不連続で無駄ばかり。
脚本家は反省して欲しい。
3部作の完結編。人間パート重視、ゴジラはただの舞台装置に。
第1作、『怪獣惑星』で今までと違うゴジラに大いに胸を躍らせ、
第2作、『決戦機動増殖都市』で「ん?」となり、
そして本作、星を喰う者を見て「(アニゴジは)作るべきじゃなかった」、となりました。
内容はよくある奢った人類には痛い目を見てもらいましょう、といったもの。
3作も費やして着地点そこかぁ~となるものの、
テーマ自体は核から生まれたゴジラの精神と言っていいかもしれません。(=初代ゴジラの精神)
問題は今作のゴジラがただの舞台装置にすぎなかったこと。
存在感が希薄で、”怪獣”としての魅力にあまりにも欠けました。
改めて舞台装置としても怪獣としても際立った存在感を放っていた初代ゴジラは偉大だったな、と再確認。
そしてゴジラを脇に追いやった割に人間パートがつまらなかったですね。
(主人公含め)人間キャラに全く魅力がありませんでした。ひとかけらも。
ゴジラ作品で人間ドラマを重視すると碌な事にならないことを思い出しました。
シンゴジラの成功で忘れていたけど。
褒める点を挙げるとすれば怪獣の造形でしょうか。
ギドラのデザイン・設定は結構好きです。
3部作全体で言うなら、ゴジラ・アースも格好いいと思うし、
メカゴジラの決戦機動増殖都市というアイディアも面白かった。
総じて怪獣の造形や設定は良かったと思います。
それだけに怪獣にもっとスポットを当てて欲しかった。
・・・・・
劇場公開するほどの作品ではなかったな、というのが3作通しての評価です。
ゲームの初回購入特典などでよくある、映像特典とするのがちょうど良いぐらいの作品。
外伝とはいえ本作がシリーズに列挙されるのが嫌になる。
レビュー
バッドエンド!
私の持論からすると、主人公死亡はバッドエンドだと思うんだが。
しかも、死に様も酷い。
どんなに壮大な事を言って、どんなご託を並べて、どんな信念を持っていたとしても!
手を出した少女(?)を懐妊させ、もうすぐ生まれる命があるのも関わらず、一人身勝手に幼馴染みとともに散りに行くことに格好良さをみるのは大間違いじゃないかな。
最後の憎しみを消す為にというが、最後まで自分の思いをコントロールもできない子供だっただけで、他のことを考えきれてない残念感しかのこりませんでした。
自分の意思に殉ずることで死にに行くのは、ハルオのメタさんに反して人類が生きることを選びとった行動からも、矛盾してるように感じました。
結局、メタさんの手のひらだったのかな・・・。
虚淵氏はハッピーエンドを書きたくないのな。
俺は挿入歌が流れた時、ゴジラと共生エンドでも良かったと思うのさ。
ところで、皆さんはパンフ読みましたか?
作り手の思いもあるでしょうが、演じた方のコメントに「ただ、生きてほしい」という一文にとても共感を覚えました。
ほか、音楽と音、映像とともにとても素晴らしいものだった。
一ヶ所、観客殺しにきた音がありましたが、ギドラの半端なさを表すイイ音でした。
ゴジラを全く新たな解釈で作り直した作品。 怪獣よりも人間ドラマに重...
ゴジラを全く新たな解釈で作り直した作品。
怪獣よりも人間ドラマに重きが置かれている。
怪獣の設定が大きすぎて動きがモッサリしていて戦闘がつまらない。(主人公たちはよく動く)
世界観などの設定はかなり詳細にあるらしい。(詳しくは見ていません)
難しい用語で引っかかるのが嫌なので、わざと字幕表示して鑑賞した。(Netflix)
ゴジラが好きな人には受け入れられないんじゃないかな?
アニメになったから、特撮にできない表現を期待していたけど、ゴジラはでかすぎてモッサリだしギドラも首しか出てこない。
爆発や他のエフェクトでなんだかごまかされてる気がする。
怪獣のリアルを追求すればあの動きになるのは分かるけど。
怪獣の動きにエンタメ性がないゴジラはうまくいくと思えないなと・・。
なので評価は少し低めにさせていただきました。
オーラスの展開は昭和のアレ
ゴジラ打倒の執念を滾らせながらもビルサルドの意向を認められずゴジラを倒すチャンスを放棄したハルオの進退を巡ってビルサルドと人類は対立。一方エクシフの大司教メトフィエスはナノメタルの浸食を免れた者がいるのは奇跡によるものだと人類に信者を増やしていった。ハルオはマーティンから浸食を免れたのはフツアによる治療を施された者だけであり奇跡ではないと知らされメトフィエスに詰め寄るが・・・からのGODZILLA3部作の最終章。
前作『~決戦機動増殖都市』で広げた大風呂敷を一体どうやって畳むのかと期待していましたが、エクシフが布教する信仰と絡めて人類の存在意義を問う展開はもはや単なる怪獣映画から大幅にはみ出していて、ど真ん中に据えられた深く考えさせられる人間ドラマに何だこりゃ?と怒る人は怒る話だと思います。個人的にはアニメ版、しかも虚淵玄起用の時点で普通のゴジラはそもそも求められていなかったはずで、観たことないものを観たいというこちらの勝手な欲求は満たしてもらったので何の文句もありません。オーラスの展開は昭和に宇宙戦艦ヤマトを観ていた世代にはグッとくるやつなので東宝映画という大きな枠からもはみ出していて爽快でした。
うーん・・・
考えさせられる映画でした
ドラマCDの様な映画!!
前作(2作目)は熱い展開で高揚感があって好きでした。前半から最後まで屁理屈ばかりでキツく、ラストなのに怪獣バトルもごまかした感じです。全部台詞で済まそうとするので、台詞に絵が付いただけの映画になっています。メトフィエスはネタキャラなので仕方ないですが、ハルオは一応指揮官なのに、J-RPGの主人公のような子供みたいで邪魔です。ギドラのデザインは黄金のウロボロスと言う感じで格好良かったです(が、それはポスターを見れば分かります)。ギドラ強すぎる!!ゴジラ頑張れ!!と応援する事もなく、疲れたのか時間が来たら都合良く退場してしまい、サブタイトル負けで残念です。ギドラ登場で、「あんなものを!!ふざけるな!!」とか何かしらビルサルドのリアクションが欲しかったです。日常生活に支障をきたすレベルで何でも概念で捉えようとするので共感できませんし、東宝本社は諦めたのか、別にゴジラじゃなくても良くなってしまっていると思います。前作を観てモスラを含め三つ巴の超バトルを期待しましたが、期待を大きく下回る内容で、1作目よりバトルが無く3部作なのに完結していない産廃でした。
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