劇場公開日 2019年7月20日

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存在のない子供たち : 映画評論・批評

2019年7月16日更新

2019年7月20日よりシネスイッチ銀座、ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館ほかにてロードショー

「存在のない」少年の告発のまなざしは、すべての大人に向けられている

この映画には、二種類の「存在のない子供たち」が登場する。12歳の少年ゼインの場合は、両親が出生届を出さなかったから。赤ん坊のヨナスは、母親のラヒルが不法移民だから。どちらも法的に存在していない。そんな二人が肩を寄せ合って生きる。家出してラヒルに拾われたゼインがヨナスの子守りをしていたとき、ラヒルが警察に拘束され、帰れなくなったからだ。氷と砂糖をミルク代わりに与え、懸命にヨナスの面倒を見るゼイン。12歳の弱者が、より幼く弱い者をかばいながらサバイバルする姿に、胸が痛まない人はいないだろう。

しかし、この映画の根底に流れるのは、そうした状況から醸し出される感傷ではなく、そうした状況を生み出す大人たちに向けられた怒りだ。その怒りの矛先は、まず子供を労働力としかみなさず、愛も教育も与えないゼインの両親に向けられる。そして、親たち(彼らもかつては存在のない子供たちだったのだろう)を、そんな大人にさせた社会に対しても。ゼインが両親に向けて放つ「世話できないなら産むな」という告発は、世話されない子供たちを放置している社会に向けられた言葉でもある。弱者の視点から社会問題をえぐる。そこに、この映画の芯の強さがあり、共感の源泉がある。

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実際、劇中で扱われている社会問題は、少女の強制結婚、子供の人身売買、不法移民など、日本にはなじみの薄いものが多い。それにも関わらず「他人事」に思えないのは、育児放棄や虐待のニュースが後を絶たない日本の現実と呼応するドラマでもあるからだ。ゼインは、「生まれてこなければよかった」という理不尽な思いにかられながら生きている世界中の子供たちの代弁者だ。彼の告発のまなざしは、「生まれてきてよかった」と言える社会を実現する責任があるすべての大人に向けられている。

ゼイン役のゼイン・アル=ハッジは、レバノンに逃れて来たシリア難民。過酷な日常をたくましく生き抜きながらも、自身の非力さと限界に突き当たり、涙する場面が切なさをかきたてる。彼を筆頭に、ほとんどの出演者は役柄と似た背景を負っているという。これほどのリアルな存在感に圧倒されたのは、実在のストリート・チルドレンを起用した「サラーム・ボンベイ!」以来かもしれない。

矢崎由紀子

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