教誨師 : 映画評論・批評
2018年9月25日更新
2018年10月6日より有楽町スバル座ほかにてロードショー
俳優たちの全身全霊をかけた言葉は反転して、俳優自身の肉声として立ち上がる
たとえば代役を立てずに行う過酷なアクションシーンとか、役作りのための体重の増減とか、俳優たちの身体を張った演技に驚かされることは多々ある。だが、ただ単にひとつの部屋の中での会話シーンだけで俳優たちの命がけの演技を実感する、そんな映画に出会うことはめったにない。牧師と死刑囚との会話。ただそれだけがひたすら続く。映画全体の8割以上を占めるのではないか。死刑囚たちとの対話を通して彼らを教え導く「教誨師」として赴任した牧師の前に、何人もの死刑囚が入れ替わり現れては彼らの過去や現在や未来を話す。教誨師はひたすらそれを聞きつつ反応し、あるいは彼らから言葉を引き出そうと語り掛ける。
この対話の中で、なんだか変な世界に引きずり込まれる。何が起こるわけではないし、彼らが突飛な行動をするわけではない。それぞれがそれぞれの思いを語り教誨師がそれに反応していくだけだ。しかしなんだろう。まるで、映されるキャラクターではなく、俳優たち自身が話し始めているのではないかと思えてくるのである。気が付くと「大杉漣」「玉置玲央」「烏丸せつこ」など、それぞれ固有名を持った俳優たちの心の声を聴いている。
教誨師に扮した大杉漣さんがこの映画の後急死してしまったことがそんなことを思わせるのだろうか? そうかもしれない。あくまでもフィクションとして作られているこの映画は、どこかで確実に現実に向けて開かれている。俳優たちの全身全霊をかけた言葉は反転して、俳優自身の肉声として立ち上がる。教え導くはずの教誨師は、いつか自身も死刑囚たちとともに道に迷う人になる。ああ、誰もが死刑囚なのだと実感する。俳優たちはまさに真の死刑囚として、登場する死刑囚たちに限りなく近く寄り添いつつその言葉を発する。こんな演技をしてしまったら、身体がもたないだろうと、心の底から思う。もちろんそれを観る側も、安心してはいられないことは言うまでもない。
(樋口泰人)