教誨師のレビュー・感想・評価
全56件中、1~20件目を表示
役者の肉体の饒舌さを思い知る
大杉漣をはじめ、役者の芝居が素晴らしい。これだけの芝居をよくぞ引き出した。ほとんどが対話だけで構成される舞台劇のような作品だが、ぐいぐい引き込まれてしまった。特に印象に残ったのは、めをつぶりながら、まぶたの奥で眼球だけ動かす古舘寛治。最初のシーンだが、あれだけでしゃべる必要なく、あの人物の異様さが表現されていた。久しぶりに役者の肉体の饒舌さを思い知った。
様々な死刑囚との対話によって、死刑とは、人間の生とは何かを考えさせる作品だが、作中で結論は何も出ない。命を奪った人間たちが、権力によって命を奪われるシステムに正当性はあるのか、それ以外にも社会には矛盾が溢れていて、人の人生は平等ではない。答えのない問いをされつづける大杉漣は、返答に窮しながらも「逃げない」ということだけは一貫している。その超然とした佇まいに畏怖すら感じた。人間にできるのはいつまでも考え続けることだけだ。
シチュエーション・ヒューマンドラマとでも呼ぶべき意欲作
シチュエーション・スリラーというサブジャンルはあるが、刑務所内にある教誨室の中だけでほぼ全編が進行する本作はさしずめ「シチュエーション・ヒューマンドラマ」といったところ。死刑囚の話し相手となり心の救済を図る篤志の宗教家=教誨師(本作の佐伯は牧師だが、仏教など他の宗教の教誨師もいるそうだ)と、バラエティーに富む囚人たちとの会話劇。死刑囚が独房で過ごす姿も、佐伯が刑務所以外で生活する様子も描かれない。しかし、囚人が他愛のないおしゃべりに興じたり過去の罪を振り返ったりするとき、またそれに佐伯が応えるときの、それぞれの言葉と表情によって、彼らの人となりがじわじわと立ち上がっていく。
これが最後の主演作となった大杉漣にとって、舞台劇のように簡素な一室において演技一本で勝負する映画と晩年に出会えた点は、(本人の意図ではないにせよ)役者人生の締めくくりにふさわしく幸福なことだったのではないか。
前半眠くなるが
全体的に静かな作りの映画のため、特に前半は眠くなるが1時間を超えたあたりから盛り上がりだしてくる。
人生いろいろ、死刑囚いろいろ。そんなに面白い映画ではないが…
玉置玲央が出てきた
玉置玲央の存在感たるや!!!
もう、その一言に尽きる。
大杉漣との会話劇の中に、
彼の遺伝子が受け継がれていくような、
まるで通過儀礼にも思えた。
これまで、数々の死刑囚を演じた役者さんを観てきたけれど、
緒形拳さん以来の引き込まれ方をした。
言ってることのいちいちに、「確かに」と思ってしまう。
勿論、それは決して正解ではない。
屈折した人生を生きてきた人間ならではの見解、そして虚しさ
と孤独。
まるで本人ではないかと錯覚するような持論にも聞こえた台詞。
こんな役者は、もっと表に出なきゃダメだ!!!
そして一度は逃げようとしたものの、
対峙する覚悟を決めて戻った牧師の強さたるや。
融解していく氷のごとく、
自分をさらけ出し、真っ正面から何も飾らずにぶつかっていく牧師に、
高宮(玉置)の表情が変わっていく。
知らないから怖い。
ただじっと、傍で穴を見つめる。
素晴らしい台詞。
泣いてしまうやんか。
選ばれてしまったあの日、
死の直前になっての表情が、とてつもなく美しい。
教誨師である佐伯(大杉漣)に抱きつき、
何かを伝えたようにも思えたけれど、
次の台詞でそれはかき消される。
他にも癖だらけの役者を使い、
多種多様な死と隣り合わせの罪人たちが表現された。
大杉漣さんが表現したかったこと、
これが最期になってしまった意味を、
また見返して考えてみようと思う。
こんなに予算もかけず、
音楽もなく、
膨大な台詞量を、自分の言葉として表現する、
役者本来のチカラ。
存分に魅せて頂きました。
惜しい俳優が亡くなったもんだ
内容も素晴らしいし言うことないよ。
2019/05/29追記
相模原連続殺傷事件の犯人らしき若者が表現されていてそこでの討論が印象的でした。
眠れなくなりました
人の生死を人が決める死刑制度。私は死刑肯定派です。だって「日本では」被害者は武器を持てないまま弱い立場で殺されてしまうのだから。
そんな有利な状況で2人以上を殺す人は、やっぱり死刑という罪を受け入れるべきと思う。
ただ、この映画で宗教的な意味で神に罪を許された死刑囚について、人は許さないことはいいのだろうかと考えてしまうとよくわからなくなりました。
色々難しい。
現存する世界宗教の限界を感じた
死刑囚の改心の一助となることもなく、
ただ話を聞くことしかできない主人公。
キリスト教の牧師さんという設定なのだが、
キリストの言葉も聖書の引用も、賛美歌も
何一つ死刑囚たちの心に響いていない。
「魂のぶつかり合い」などのキーワードが広告に踊るが
まったくそうとは思えない。
単なる自己顕示欲と自我我欲。死にたくないと言う執着。
キリスト教に改宗した人には、ふさわしい言葉を伝えられたのか。
「キリスト教でよかった」と思わせる、魂に刻まれる言葉を。
そういうシーンはひとつも出てこない。
人間の悲哀を伝えるという意味だけに置いて存在価値があるかもしれない。
でもただそれだけ。
キリスト教も、仏教も、イスラム教も、
既存の宗教の形骸化が悲しく実証された映画。
全ての宗教を包括するような、新しい教えこそが必要と
強く強く感じさせてくれたことだけがよかった。
拘置所の中の群像劇
星🌟🌟🌟🌟大杉漣さん最後の主演作品だと言うので観たのですが… 前半はまったりしていてちょっとつまらなかったのですが後半大杉漣さん演じる主役の過去が明かされた所からストーリーも急展開で進んでいきラストまで釘付けでみてしまいました❗みんな登場人物が心に闇を持っている人たちで皆さん演技が上手くて全体的にみれば面白かったです❗前半つまらなかったのは教誨師と言うことでキリスト教の型にはまったことしか言わなかったからでたぶん後半への伏線になってたと思います❗あと死刑囚の高宮役で玉置玲央さんが出てましたがラスト間近凄くいい演技されてました❗舞台では黒木華さんと共演されてたりして有名だそうですが大杉漣さん見る目がいいですね❗これから映画やTVでも活躍しそうな俳優さんでした❗
ポイントは死刑囚じゃないよ
大杉漣が企画しただけはあります。
死刑囚を鏡として教誨師の姿を描く映画です。
だから死刑囚はステレオタイプでデフォルメされた類型です。
だから死刑制度とかには無頓着です。
あしからず、ポイントに沿って観てください。
死刑囚を鏡にして、教誨師の心を写し、普遍的な問いかけ
死刑囚達の姿は類型的で皮相的に描かれて共感は出来ないし、批判的にもなれない。
それは、この映画の価値を貶めるものではない。
そもそも、死刑囚の生き様を描くのは目的では無いから。
また、死刑制度やキリスト教について掘り下げている訳でもない。
そんなもんは他の誰かが論じれば良い。
最初は死刑囚の興味がある話だが、途中から色合いが激変する。
教誨師は子供の頃、実の父と諍いがあり、教誨師の兄が実の父を殺し、少年院出獄の間際に自殺。
教誨師である大杉漣は、殺すことと殺さない事の瀬戸際、生きる意味について考える。
そして死刑囚と対話する事で、真実に触れようとする。
殺していたかもしれない、しかし、今、殺していない自分がいる。
殺しと、しないとでは大きな溝がある、しかし、絶えず、考えるべきだ。
生きる意味は、無い、しかし生きようする事は大事だ、逃げない事が大事だ。
対話だと、禅問答のようにメタファーとイデアの枠組みだけの味気ないものに感じるかもしれない。
しかし、この映画は、真剣勝負で、共に寄り添い、考えようとする。
私は、この誠実な大杉漣の試みを評価して、共に考えたいと思います。
穴をのぞいたその先は…。
・生きるとは?死刑制度とは?裁判員制度って?等々…。非常に難しいテーマで、いくら考えても明確な答えは見つからないと思う。
・高宮とのやり取りが一番印象的だった。終盤 佐伯が本音を熱く語ったことによって、高宮も想いに答え出したシーンは感動した。
・佐伯と会話を繰り返していくうちに、囚人達それぞれに何かしら生まれているように感じた。
・世界的には死刑制度は反対という流れが主流だが、被害者遺族の方々の気持ちや様々な状況もあるので、やはり完全に死刑制度を無くすことは出来ないのではと思う。
・大杉さんの意欲作であり遺作となったこの作品は、非常にインパクトが残る作品だった。
死刑囚と教誨師ってこういう感じなのかと
家がお世話になっているお坊さんのイメージがありましたが、それとは違って人間臭さで死刑囚と向き合っている教誨師でした。
とても良かったです。
役者さんの演技がどれもリアリティがありました。比較してはいけないと思いますが、患者や施設の利用者などに相対しているような気になりました。終盤のあるシーンは、自分も彼の気持ちを味わった気にすらなりました。
罪は何によって償うことができるのか
重かった。それは予想通りでしたが、「安直に死刑制度に対する疑問を投げかける映画」じゃ無かった。もう、ホントに真面目に考え始めると気が滅入ってしまう内容。登場人物が自分の口で語ってくれるのでリアルに訴えかけるものがあり、映像化する意義はあると思う。
宗教の役割と意味。現実の契約社会における罰と赦し。その狭間に自ら望んで身を置く教誨師。重い話だろうなとは思っていたけど、ここまでフェアに問題提起している映画だとは思っていませんでした。
殺人の法定刑は死刑ですが、実際には、おそらく二人以上の人命を奪わない限り裁判により死刑を宣告されることはありません。よって、ここに登場する人物は、複数人の命を奪うか、複数回に亘り奪おうとした事実があり、極刑を言い渡された、社会的に観れば極悪人である訳です。
犯した罪がうかがい知れるのは、6人中4人。
*家族三人を撲殺した小川
*17人を殺害した高宮
*リンチ殺人を首謀した野口
*ストーカー殺人で女性とその家族を殺害した鈴木
「罪と向きあい自分が奪ってしまった命に対する贖罪」と言う点において、教誨師の佐伯の目には、この6人はどう映っていたのか。
小川は死刑を、おそらく受け容れていますが、それは単に「家族の前から姿を消してしまいたい。いっそ死んでしまいたい」と言う気持ちからだと思われ。他の4人は極刑を宣告されるカギとなる「矯正不能と判断される」のも致し方無しな人格です。鈴木に至っては、身の毛がよだつ。
文盲の進藤は、「刑法上の赦し」と「宗教上の魂の赦し」を混同している様にも見えますが、これが主題につながります。
佐伯は、少なくとも死刑を否定していません。疑問も持っていないでしょう。神父ではなく、牧師という立場の設定は、それをうかがわせるものなのでしょう。ただ、死刑の執行の前に「神の赦し」を得て「魂を救いたい」と言う一心。ここに、「自分の代わりに殺人を犯した優しかった兄」の姿が被り、物語をより一層複雑に、かつ深く重いものにしています。
立場と状況次第では、誰もが罪を犯す可能性がある。だが犯した罪は償わなければならない。洗礼を受けることになった進藤のメモに、佐伯は絶望します。「あなたがたの罪のために、わたしはいのちを捨てます。だからあなたがたも救いという主のゆずりの地を受け継ぎなさい。」と言うキリストの言葉は、現代の契約社会における「殺人」と言う罪の贖罪になりうるのか?と言う問いかけ。
宗教から一旦身を引いて高宮と向き合った佐伯は、高宮が心の底から後悔をし始めたことを察しますが、彼は死刑台に上ることになります。「矯正不可能の判断」が誤りだったことをうかがわせる件なのですが、ここで観る者が何を思うのか。
死刑制度への疑問・否定、と言う立場に立たず、宗教と非宗教の両側面から「何によって罪を償わなければならないのか」を問う、すっごく深い、正解など無いテーマを投げかける、ある意味、どえらく迷惑な秀作でした。問題提起のカギになっているのは、高宮と進藤の二人です。
2019年の2本目。もたれてます、かなり。ちょっと、明日、口直しに行って来る。。。。。
重苦しさのなかに一筋の光も
教誨師の牧師と受刑者の対話が続く、徐々にいろんな背景や、動機が、垣間見えてくるが、目に見えて、今 極刑という裁きを受けている罪と、そうではない人の心の奥底に抱えている罪、その差は一体どれほどなのか?
と考えさせられる。
黒い穴を見る役目
大杉連さん主演の遺作映画ということもあり、スバル座が意外に混雑していました。
持論ですが映画はざっくりいうと2種類のタイプに分かれると思っています。「わかりやすい娯楽映画」と、「鑑賞後に感情が引きずられる映画」と。これは勿論後者でした。
草彅剛さんが鑑賞後に寝付けなかったと言われているようですが、よく分かります。
鑑賞後は本当に色々と考え、登場人物の感情が交錯してしまって、まだ未消化です。多分数日引きずると思います。
その中で今思っている事は、登場人物の人間臭さが強すぎて、体温や匂いを感じてしまう映画だったなぁ・・・と。キャラクターの体臭を感じた映画は初めてだと思います。(苦笑)
題名につけた言葉は映画の中に出てくる言葉です。何故かこの言葉のシーンと「ライ麦畑で捕まえて」の最後のシーンとがオーバーラップしてしまっているので、それがどうしてかも、しばらく考えてみようと思います。
考えさせられる映画
2時間、死刑囚と教誨師とのやり取りが続き
自分がその立場に立ったような気がして
すごく疲れましたが
いろいろ考えるところのある映画でした。
親に愛されない不幸な生い立ちの人、
勉強する機会を持たなかったために
他人に騙され転落してしまった人、
不幸が重なり何とか耐え忍んで生きてきたが
ある日爆発してしまった気持ちが優しく弱い人、
いろんな死刑囚がいましたが
その人を裁くことなんか誰にできるのだろう。
死刑制度って本当は殺してはいけない人を
殺してしまう恐れがあるのではないだろうかなどと
考えさせられました。
その人なりの事情を持った他人を悔い改めさせるなんて
簡単にはできることではなく
その人を知って、側にいるということが
教誨師にできる救いなのかなと感じました。
対話で紡ぐ物語、対話で導く真理
全編を通してほぼ、密室で繰り広げられる会話場面。
観た人の中には退屈だと思われた方もいらっしゃると思います。
ですがわたしはむしろ、「もの凄いものを観た」と思うほど、
演者たちの一挙手一投足に集中して観ることができました。
『ソクラテス式問答法』という対話法があります。
〈 対話によって相手の矛盾・無知を自覚させつつ、より高次の
認識、真理へと導いていく手法 〉の事を指すんだそうです。
対話によって、死刑囚たちの心の闇に、わずかでも一筋のひかりを灯せる事ができたなら、執行され魂となった彼らは等しく安らぎを得る事ができるだろうか?
そのことに尽力した牧師・佐伯(大杉漣さん)がそんな彼らの闇を見つめながら実は、佐伯自身が一番心に闇を抱えている事を認識し受け止めていったのではないのでしょうか?
わたしが今年観た映画のなかで一番、あとからじわっときました。
大杉漣さんが最期に私たちに出した『人生の宿題』みたいな
作品だと思いました。
映像である意味はない
新米教誨師が、死刑囚6人との対話を通して、自身も見つめ直すといった話。
BGMがない映画は初めてで、ほぼ完全に、同じ一つの面会室での対話シーンオンリーなので、映像がストイックすぎるというか、あまりに地味すぎる。
別に感情をのせたりするものでもなく、動きや表情で魅せるシーンも皆無の淡々とした会話劇なので、映像から得られる情報はほぼゼロで、ラジオドラマだったとしても十分わかる内容。よって、わざわざ劇場に足を運ぶ必要がない作品だとは思う。
とにかく地味なので、マンネリもすごくて、死刑囚6人ってのも多い。4人くらいで十分だったんじゃないかと。
まあ高尚な部類に入りそうな映画ですけど、ある意味荒削りですし、少なくとも休日の晴れた昼下がりに好き好んで観る作品ではなく、鑑賞後はとにかく沈みます。
いろいろな見方ができる
気になっていた作品。
1つのシチュエーションで会話だけで成り立っている。舞台のような作り方。
面接室での時系列はカレンダーとスーツやネクタイでのみ分かる。同じものであれば同日の話である。
6人のうち4人はある程度罪状が話の中で分かってくる。
教戒をホントに望んでいるのだろうか。話し相手が欲しいだけなのか。そういう人もいれば、教戒によって洗礼受けるまでに(宗教的)回心する人もいれば、食って掛かる挑戦的な人もいる。
教戒にはこれという正解はないのがよく分かる。
自分より弱い立場の17人を殺していた青年は教戒という立場を諦めた時点から変化していく。執行日には立ち上がれないほどの恐怖におののいているのを見ると、強がっているのをまとった弱い人間であるのが露わになる。プロセスはいろいろあるにせよ、露わになってそれを自覚していくのが教戒であろう。
文盲の人は冤罪の可能性も秘めて終わった。文字を学習ことで何かを訴えかけたかったのだろう。
父親が教誨師しているが、普段は守秘義務がある内容だけに詳細は聞かないが、こういうことをやっているのか、と垣間見たような気分である。
教誨室の外側へ
この映画のキーワードを挙げるならば「霊性」だろう。
6人の死刑囚たちと、大杉漣演じる教誨師の佐伯との密室の会話劇。
ほぼ全編で本作の舞台となる教誨室には霊の気配が漂う。
大杉漣(エグゼクティブ・プロデューサーとしても名を連ねる)が急逝した、ということも相まって、なのは事実だけど。それを差し引いても、本作には、いまはもうこの世にいない死者の存在が強く感じられるのだ。
死刑囚ということは、全員が人を殺している(はず。厳密には死刑となる犯罪は内乱罪などもある)。
誰かを殺したから、彼らはそこにいる。
そして佐伯にも事情があった。彼もまた、その事情により牧師を職業に選び、ここに来ている。
死者たちに招かれ、出逢った死刑囚と教誨師。
そこに死者の気配が漂うのは必然であろう。
そして、この映画に登場する教誨室は不自然な形をしている。なぜか長い三角形をしているのだ。そのため、佐伯を捉えるカメラの背後には、いつも暗がりが映る。奥行きのある暗い空間が、何かの存在を思わせる演出が効いている。
そして本作は、「国家による殺人」とも言える死刑制度についても、大いに考えさせられる。
物語のスタートでは密室劇だった本作だが、やがて少しずつ「部屋の外」が映画に登場してくる。
始めは外の天気。やがて、佐伯の過去。そして死者たちが、スクリーンを侵食してくる。
それとともに、教誨師を務める佐伯の言動も、徐々に制度や枠組みの中だけでは抑えきれなくなる。
ラストに、ようやくカメラは教誨室、そして拘置所さえも出て、外の景色を捉える。
命という人間の根源と、法という国家の基盤が交差するのは、拘置所の中だけではない。私たちの日常とも繋がっていると感じさせるラストである。
全56件中、1~20件目を表示