嵐電のレビュー・感想・評価
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☆☆☆★★ 変わらないモノ 変わり行くモノ スクリーンを眺めながら...
☆☆☆★★
変わらないモノ 変わり行くモノ
スクリーンを眺めながら。嗚呼!これはきっと、俳優の彼と嘉子(過去に掛けている名前なのだろうか?)は、若き日の井浦新と奥さん(どうやら腰の悪い地元出身)の出会いの日々をシンクロさせているのだろう?…と思いながら見つめていた。
だが…。
* 1 映画の終盤で、助監らしき女の子の「映画に出て下さい」の一言で、ちょっとまてよ!…となった。
「あれ?ちょっと思っていたのと違って来てる」
大体、最後の方の上映会で。若い頃の嘉子が映っているのだけど。元々それはマスター曰く、嘉子のお父さんが撮った映像の筈。
でも映画の中で、それを8ミリで撮っているのは地元の嵐電マニアの男の子なのだ!
その男の子の役名が 《子午線》
ちょっとまて!《子午線》って…。
どうしても舞台の「子午線の祀り」を思い出す。
舞台自体は観た事は無いので、此処で少しググってみる。
子午線とは天文学用語だが、子午線の祀りは源氏と平家の源平合戦の果ての悲劇。何故だかキーワードとして【宇宙的】と出て来る。
そう言えば、青森弁の女の子の役名は《北門南天》
う〜ん(´-`)ありえね〜名前だ〜。
あ?井浦新は鎌倉から来たって設定だし、役名も《平岡衛星》って。平家の一文字が入っているし…偶然とは思えないぞ(・・?)
そんなこんなと映画全体で、過去や現在であったり。亡霊や妖怪。宇宙的な思いに人間の記憶と妄想等。実態の朧げなモノに対し、監督が持っているであろう拘りの様な感覚をほんの少しだけ感じる。
…と書いたところで、どうにもこうにも今一つ伝わらないだろうし。現に書いている自分自身ですら、何を書いているのすら怪しい。
どうにも、映画全編で内包されているモノの確かな事実が、完全に理解出来ないもどかしさは強い。
とは言っても。観た事で、時間やお金を損した…等とは全く思わない。寧ろ、1度観ただけでは理解しきれなかった映画などは、過去にも沢山有ったし。寧ろ名作と言われる作品程、公開直後はボロクソに言われる作品は多い。
(別にこの作品が名作とも思いきれないのだが)
この作品を読み解く鍵として、やはり鈴木監督の過去に撮った作品を参考としない訳にはいかないのだと思う。
この作品の序盤にこんな場面が有った。
井浦新が電話をしているのだが。カメラはその彼の左側にゆっくりとパンをすると、そこには電話相手の妻が寝ている。
鈴木監督作品としては。以前に、『私は猫ストーカー』と『ゲゲゲの女房』の2本した観ていないので、確かな事は言えないのですが。確か『私は…』の中で、やはり電話を使い。似た様な場面が有った記憶があるし。『ゲゲゲ…』の設定は古い時代の筈なのに。出演者が、現代の東京を舞台に演じていたり。この『嵐電』では、どうやら修学旅行生は。過去から現代の京都に来ている様だし…と。そんな辺りにも拘りみたいのを感じない訳には行かず。分からない割には見逃せない場面は多かった。
そんな中の一つが、狐と狸の場面で。今一つ分からないところではあるものの。『ゲゲゲ…』の時の2階に住み憑いた疫病神の記憶から、この監督らしさを感じるし。若い2人が台詞合わせをしながら、古い京都の街並みを歩く場面は。『私は…』で、猫を探して歩く姿が。人気の散歩スポット谷根千を探索するのとリンクし、面白く観ていた。
そんな中で、この監督の前前作『ジョッキング渡り鳥』を観逃しているのがちょっと痛い。
伝わって来ているイメージ等からみて、1番関連が近いのでは?と思えるのだけれど…。
いずれにせよ。一見すると、ノスタルジーを感じさせ、取っ付きやすそうに見せつつも。観客に対し、絶えず挑発を誘う。挑戦的な作品の様に見受けられる。
2019年5月29日 テアトル新宿
⁂ 1 公式を見ると、この映画の製作の発端となったのが。プロデューサーが過去に「映画に出てみませんか!」と言われ、何本かの映画に出演した経験があるのだとか。
電光パンタグラフ
映画は観たとなるのが普通だけれど嵐電は体感に近い 三組三様の話と狐&狸に嵐電が混線して これは何?どういうこと?が幾度となくグルグル頭を過る
不思議な浮遊感と路面電車に揺られ 諸所 人々の心情が蠢く
そこに京都の風情が独特の色を添える
きっと人の頭にも見えないパンタグラフが乗っていてそれぞれのレールを走ってる そんな幻想が見えた
鈴木監督によると主人公の目線で撮らずドキュメンタリー調にもしてあるそう
喫茶店 皆が嵐電の古い映像を鑑賞中
音楽でその時代が蘇るように映像もまたその頃を呼び起こす 音も映像も電車も人の心も流れ廻る 変わってしまって時に同じ心だけが取り戻せなくなったとしても
昼寝から目覚めた衛星さんに斗麻子さんは「おかえり」って言う それに答えて衛星さんは「ただいま」と
なんて幸せな昼下がりだろう 斗麻子さんみたいな女性にならんといけへんな
譜雨と嘉子すれ違った線路が交わる二人の足下
でもこの時までもかなりストーリーに釈然とせず納得していなかった
監督が苦情がくると言われてたのも解る(苦笑)
が、エンディングの音楽が流れてきたその瞬間に私のパンタグラフが感知した
線香花火のよに静かに焼け付く切なさを
ちょっぴり泣けた
-------------- もうそれで充分
頭ばかりで考えていたら大切なことを忘れてしまう 悲しいから泣くのではなく泣くから悲しいんだ このこと忘れないようにしたい
結局三組ともハッピーエンドだと思えた 妖怪の魔力に打ち勝てるのは人を想う気持ち
夜の闇には見えない人の心が縦横無尽に飛び交っている 狐と狸にその心狙われないよう御用心
なるほど この作品は
これでいいのだ
深い余韻に浸っています
鑑賞後、一週間近く経ちましたが、まだ映画のパンフレットを眺めてぼんやりしてしまいます。
何と言えばいいのか、出演者の方々、スタッフの方々の混じり合い具合が本当に絶妙で、印象的で、ずっと観ていたい気がする映画でした。
そして、「演技っていろんなとらえ方があるんだなぁ」と新しい発見もあって、出会えて良かったと思う作品です。
死ぬほど面白くなかった。世に出せる最低レベルを満たしていない。
学生製作のものも含め沢山の映画をみてきましたが、ここまでひどい映画はみたことがないです。大根役者にもほどがある。セリフも聞き取れないし棒読みで違和感もすごい。いきなり泣き出したりでかい声出したり感情表現も違和感ありまくりで狂ってるのかと怖くなる。
最後のほうの女監督みたいな人と主役の女の子のシーンなんて片方急に泣き出してびっくりしてもう片方笑っちゃってるやん。あんなんでオッケー出すなんて客をナメるのもいい加減にしたほうがいい。
真面目に観ないとしても笑いどころもつっこみどころもない。面白くも深くもアーティスティックでもない。
これにプロが関わってるなんて信じられない。よく世に出そうと思ったものだ。お金払って観るものじゃないです。
狐と狸に化かされた?
一言で言えば不思議テイストの作品
ふと時空が歪み、現実と虚構が混じり合い、知らぬ間に違う世界に連れて行かれるような感覚
作品を見終わって、しばらく経ち、やっと腑に落ちた
私たち観客は映画を見始めた時には既に、あのおかしな狐と狸の電車に乗ってるんだ!
作品の中に連れて行かれて、現実とも幻ともつかぬ世界を眺め、映画館を出る頃には大多数の人は元の世界へ戻ってきてる
戻れず、ずーっとあれこれ嵐電の事を考え続ける人もいるかも…
なーんてねw
よく分からない
京都造形芸術大学と出ておりましたが、流石に「芸術大学」見る人を無視した難解な映画です。何を描きたかったのか分かりません。いろいろな映画を見ている人、もしくは京都の人ならば分かるのかも知れませんが。
じっくり見ちゃいました
短い電車区間を題材に三つのストーリーをオムニバス形式で展開するところは「阪急電車」(有川浩原作)を彷彿とさせる。ホラー映画制作の舞台裏を展開軸にしている部分は〜素人っぽい画面構成の多用と合わせて〜「カメラを止めるな」を思わせる。
とはいえ、3組の男女それぞれの行き違い、3組のすれ違いを上手く表現していて、つい画面に引き込まれてしまう。
残念ながら台詞が聞き取れません。映像と前後の関係でなんとか四割ほど...
残念ながら台詞が聞き取れません。映像と前後の関係でなんとか四割ほどが理解出来た感じです。
年間邦画を60本ほど見ているのですが、こうしたことは初めてで、私自身の聴覚の悪さもあるのかなとも思います(劇場の音響の悪さではないと思います)が、皆さんはどうでしたでしょうか?
同録のためでしょうか?
ご存じの方、教えて貰えないでしょうか?
何が表現したかったのか?私には難しかった
千年の都、京都の民家の軒先に触れそうな場所を走る嵐電。
千年の都には異世界の「あやかし」的な何かが
今でも闊歩してても決して不思議でない気がするよね〜
でも、この映画、ちょっとそこのところが中途半端な気がする。
で、月に8回程映画館に通う中途半端な映画好きとしては
映画の後半、地元の人たちが撮った嵐電の昔の姿を
みんなで鑑賞するシーンがある。
あそこに出てきた人達は、リアルにあの映像を撮影した人や
自分の親族が撮影した映像を提供した人達だろうと思う。
そこだけは何となく本物っぽく思えた。
嵐電が街の人々の生活に溶け込んでる感じを描きたいのか?
嵐電と京都の風景が醸し出す異世界感を描きたいのか?
その融合なのか?
それとも、人の縁の不思議を描きたかったのか?
どうもイマイチ、私には掴みきれなかった〜
@もう一度観るなら?
「地上波テレビで良いかも〜」
悠久の歴史を刻む京都のファンタジー
京都市西郊に、開業109年の歴史を持ち、支線を合わせても僅か11kmを走るローカル鉄道線があります。京都でも屈指の景勝地・嵐山に通じているため通称・嵐電(らんでん)と呼ばれる、その鉄道名をタイトルとした映画が本作です。
三つのストーリーが輻輳するオムニバス風の構成ですが、各々芯になる筋立ては茫洋としているために、何だか微熱による浮揚感に包まれたような仄々とした作品です。ただ常にその核にあり、物語の進行を司るのが「嵐電」です。
描かれるのは、悠久の時の滔々とした流れの中で粛々と日常を過ごす市井の人々。1200年の歴史が刻まれた京都の暮らし、掌の上で静かに優しく、そして妖しく見詰めて覆いくるみ尽くし、時に人の心を弄び波立たせる嵐電。
更に男と女の心の機微、仄かに目覚める恋心、大切な人をずっと守ってあげたいと思う慈悲と情愛。人の心が何気なく移ろう日常的風景を、何も語らないが、それゆえに其処に寄り添い、恰も菩薩の如く導いていく嵐電を、一種の“語り部”として描かれた映像抒情詩といえます。
エリック・サティの曲が耳元で寛りと奏でられる、居心地の良い揺り籠で心地良い午睡に微睡む、まるで羊水の中に浮遊するような、実に愉にして快な時間でした。
理論的に作品の内容・構成を紐解くのは、もはや無粋であり、この作品には、流れる時間に唯々身を委ね揺蕩っていれば良いのでしょう。
沿線で主な舞台となる太秦は、嘗て日本のハリウッドと称された映画の都です。日本初の劇映画『本能寺合戦』が京都で制作されたのが1908年。その2年後から一世紀以上に亘り、古今数多の映画人たちの夢と情熱、そして失望と落魄をも乗せて走り続けた嵐電。
太秦では、映画人たちのどす黒い怨念や瑠璃色の栄華が蟠踞し、その妖気が人を誑かし、人を迷わせ、人を悩ませる一方、その熱気が人を慰撫し、人を鼓舞し、人を勇気づけてくれる。これらが交錯して綾なし、嵐電が時空を超えて訥々と人々に送り届けてくれます。
「この電車に乗れば、どこまでだって行けますよ。」
怪奇譚を思わせる、妖しくも、亜麻色の靄がかった魅惑の響きを放ちながら、今日も嵐電は、可憐に且つ威風堂々と京都の街を走り続けています。
御室仁和寺駅のキスシーンが最高!
「嵐電」
京都シネマ、連日満席。最後の1席で観ることができた。
京都の路面電車、嵐電沿線で起こる3組の男女のラブストーリー。 劇中に時間と空間がわからなくなるシーンが何度もあり、現実の世界から突然、空想の世界に連れていかれる体験がとても新鮮で楽しい。絶えず電車がすれ違ったり、走り去っていったりするけど、乗る人、乗らない人、ホームに残る人、人それぞれ好きなようにしたら良いんだと考える。
かこは京女の自尊心を上手に表現していて、普段は控えめな感情表現だけど、読み合わせのシーンでは声も表情も弾んで個性が滲み出る、大西礼芳さんという女優さんの演技がすごい。そして御室仁和寺駅の口論の後のキスシーンは最高に素晴らしい!心を動かされる。
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観る側の解釈と撮影所の歴史のリスペクト…か?
京都出身なので、やはり生まれ故郷をテーマにしているのは気になる所もあって、鑑賞しました。
で感想はと言うと…悪くないけど、ちょっとほわっとしていながら粗い…かな。
京都の西側に位置し、四条大宮から嵐山まで通る京福電鉄嵐山本線、通称嵐電を舞台にそれぞれの年齢の3つの恋の物語を描いていて、そこにファンタジーが加わってます。
ふんわりとしている作風からか、一応主役は井浦新さん演じる平岡衛星の様ですが、嘉子と譜雨が主に話が進んでいきます。
が、3つの恋物語が進んで行く中でも主とする事が明確でなく最終的に何を描きたいのかが分かり難い。ファンタジーを意図的に絡ませてるのがなんとなくあざとく見える感じがします。
また、ラストのそれぞれの解釈が結構難解でその部分を観る側の解釈に任せると言うのはちょっとズルいかなとw
それをやられると作品の評価の大半を観る側の委ねると同時に責任の放棄にも感じるのであんまり好きではないんですよね。
それでも一言でダメと言ってしまうのはちょっと個人的な好みに偏ってしまうのと、極端過ぎる所があるので出来るだけ一方的な評価はしない様にしたいとは思うのですが、その部分を昇華出来たのは、上映後のトークショー。
全くトークショーを意識してなかったのですが、あるなら観ていくかぐらいの気持ちだったぐらいの偶然w
監督の鈴木卓爾さんとゲストの片桐はいりさん(出演はしていないそうですw)のトークショーでいろんな話を聞けてある程度は消化出来たりしたんですが、それでも演劇的な部分もあり、曖昧な部分も多々あります。
嵐電に纏わる不思議な逸話(都市伝説)の狐と狸の車掌や高校生の南天が修学旅行で京都に訪れた際の一目惚れやその後の家出なんかはふんわりし過ぎてるんですよね。
それでも他府県の方が感じる京都と言う街は何処かオリエンタルミステリーなイメージもあるらしく、そう言う風に描きたくなる何かがあるみたいです。
いろんな解釈を観ている際に張り巡らしていたけど、トークショーの時に監督の話を聞いて、なんとなく腑に落ちた様に感じたのは電車好きの高校生、子午線がスマホ時代の今に何故アナログな8ミリカメラで嵐電を撮影していたのかは、嵐電の歴史は撮影所の歴史でもあり、太秦撮影所と嵐電は切っても切り離せない関係からのリスペクトなのではないかなと。
そう考えると狐と狸が車掌の嵐電の都市伝説は映画が1つの段階を上がる時に空想をスクリーンで現実として写し出す事が出来る映画の醍醐味を表しているのではないかなと。
些かこじつけ的ではありますが、鈴木監督が観る側の解釈に任せると公言したのもそういった伏線の設定を絡ませているからなのかと思いました。
京都出身ではない鈴木卓爾監督が何故嵐電を舞台にしたのかも鈴木監督なりの映画へのリスペクトなのかな~と思ったら、ちょっと納得出来たかな。
それでもざっくりしているし、何処か曖昧な粗さもあります。
観る人を選ぶ作品でもありますし、お世辞にも大作ではないです。
電車をテーマにしている作品で今から8年前に公開された「阪急電車 片道15分の奇跡」ほど分かりやすくもないです。
それでも柔らかな作風と嵐電からの数少ない路面電車の風景は心地好い物があります。
観光地の京都の風景も少ない分、地元に密着した風景が多いのも好感が持てます。
京都の人間には何処か牽かれる物があったも、多分不満もあると思いますw
それでも何処か未完成の様な粗さを楽しめるのも監督の意図なのかと解釈w
明確な答えを求めるのではなく、たまにはこういったいろんな解釈が想定されている作品を鑑賞するのも良いかと思えば、これはこれで有りかなw
嵐電と嵐電沿線に思いを馳せる事が出来る人には興味の引く作品かと思いますので、敢えて監督の手のひらに乗っかってみるのも良いかと思いますw
インディーズ作品ならではの温かみ
舞台挨拶で鈴木監督も仰っていましたが、特にラストの解釈などは、観る側に委ね“複数存在してよい”との通り、ユニークな要素も散りばめた展開で、土着化系ムービー特有の朗らかな要素と、個々の感情の起伏や悔やむ物悲しさとを織り交ぜた、切なさも味わい懐古する作品だ。
摩訶不思議な世界
虚実入り混じり、時間感覚をも奪う演出。歴史情緒ある京都の地も相俟って、摩訶不思議でファンタジックな映画となっている。
起承転結の明確な所謂ドラマを求める人には物足りない?でも、たまにはこういう、掴み所がなくふわっとしているけれど幻想的で心地良い、そういう映画も良いではないですか。
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