ここは退屈迎えに来てのレビュー・感想・評価
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地方出身者には覚えがあり過ぎる"あの焦燥感"を見事に表現したタイトル
地方出身者には覚えがあり過ぎる"あの焦燥感"を見事に表現したタイトルに射抜かれた。
山内マリコの連作小説集を橋本愛、門脇麦、成田凌の共演で映画化。渡辺大知、岸井ゆきの、瀧内公美ら、近年の日本映画には欠かせない存在となった顔ぶれも嬉しい。高校時代の皆の憧れの存在・椎名を軸に、東京で10年過ごしたのち、地方に戻ってきた「私」と、元彼である「椎名」を忘れられず冴えない日々を送る「あたし」の日常が交錯する。
誰もが、ここではないどこかを求めてしまうもの。地方に残った者は東京を思い、「あたし」は失ってしまった椎名を思い……登場人物たちの諦念や思慕がヒリヒリと焦げつく。しかし、憧れを胸に旅立った東京では何も見つけられず、ノスタルジーにのせ椎名と会うも名前を忘れられていた「私」はすべてを潜り抜け、爽やかな表情を浮かべている。人間は、手の中にあるだけのカードで日々をやり過ごすしかない。何もかもが可能に思えたあの頃の記憶と、人生のほろ苦さを捨て去るのではなく、ひっそりと握りしめながら。
名前何だっけ。
都会で暮らし地元に帰ってきて高校の同級生、新保くんに会ってそれから椎名くんに会いに行く。所々で高校時代の頃が再現されるが長くて青春物語なのかと思った。
青春時代の楽しかったことを思い出し高校時代を懐かしむ。 新保はやるせない感情抱えている。
最後に会いたかった椎名に会い当時の話に盛り上がった時、あ~ところで名前だれだっけ。と…
忘れられていたか或いは当時、興味持たれていなかったか。なんかね~。話が盛り下がります。でも。意外と名前は覚えていないのかも。 成田凌のいつもの自由な感じではっきりしないとこが上手いですね。
題名のここは退屈迎えに来て。は誰が言っている言葉なんだろう。
無責任でいいらららら
20代に戻れるならばお金払います。
上京あるある映画ですね。
上京して田舎に帰ったらあるあるです。
都会の人にはわからないし、上京していない人にもわからないかもしれないです。
茜色の夕陽は、わたしにはど真ん中でしたが知らない人にはどうかと思います。話的には意味わからない。
タイトルなし
三人の俳優がいい。東京に憧れる女性と、東京から帰ってきた橋本と村上(役の少しだるい感じ、あきらめ感がいい)のあいだの落差。ずっと空っぽな(空っぽさの質は少し違うけど)成田凌がいい。それぞれの青春がほんのひとときで、でも永遠で(プールのシーン)、交わってるけど、互いに満たされることはなく。
地方と都会の差なんだろうか? むしろ『あのこは貴族』のような、階層や社会構造の問題でもある。
2023/2/15 2回目だけど、1回目よりいいと思った。麦ちゃんとゆきのちゃんが脇で出てるとかなんて豪華なんや。地方のリアリティ。原作がいいんだろうと思う。高校時代の特別な日常を作り出せる、椎野の凄さを愛ちゃんは語る。みんなにあんなに今でも憧れられている椎野の相手のゆきのちゃんは、椎野の高校時代の栄光を知らない。普通という。この落差が物語の柱か。椎野はいつまでも椎野っぽい。でも、高校時代でしか輝けない。遠景の長回しシーンの多用が良かった。
なんとなく良い映画
映画は非日常、非現実的なものを描くものが多数派を占めているかと思いますが、その意味ではこの映画は事件も事故も何も起こりません。ああ、こんなこともあるのだなあと見終えました。
時系列が前後するので、ちょっと油断すると話の流れが分からなくなってしまい、2回見ました。なんとなく良い映画です。数年経ったらまた見てみたくなるでしょう。
ただひとつ、映像にはケチを付けます。カメラを手持ちで撮影しているカットがあるのですが、カメラマンが下手なのか、機材が悪いのか分かりませんが、素人の撮影したビデオ画像みたいに映像が揺れて、船酔いしたような気分になります。
2時間では短かったのかな
2時間でこの世界観を表現するには、もう少し捻った撮り方が必要だったのかもしれません。ダイレクトに詰め込みすぎてしまった印象もしばしばありました。
でもそのまるで未完成のような、各シーンの余韻が、大人ぶっても大人じゃない彼女・彼らたちを表しているようでもあります。
現実ってけっこうこんな感じかもしれません。
早々過ぎてつまらない。
地元に戻りタウン誌の記事を書いている女性を軸に過去を振り返る話。
30歳弱の若さにて焦燥により、人生早々と過去に浸る回想ノスタルジーさは分かりますが、それは早々と挫折し地元を心の拠り所にしてしまった人間にしか分からず、なんとも共感範囲の幅を狭めた映画だなぁと思ってしまった。
タウン誌のフリーライターならば、少しは独特の地方らしさ(良い所、安心感)も出して良かったのでは?
見当たらへん。これなら小洒落た職業にしなくても良い。無職家事手伝いでもいいわ。周りの友人と同じ様に。
言える事は、上手くいかず30歳で退屈しているのなら、40歳でも退屈、50歳でも退屈した人間になる。
どこへ行っても住んでも同じ。
自分を変えなきゃ✨
「こういう映画はある程度人生を歩んだ人間主人公の方が映画に面白さの幅が出る」とつくづく感じてしまいました。
原作を先に読んでいたからかもしれないが若干期待外れだった。門脇麦は...
原作を先に読んでいたからかもしれないが若干期待外れだった。門脇麦はすごく良かった。
青春の燃え滓を集めてみようとしても燃え滓だから触れたしりから灰になっていくような話…
①題名と門脇麦が出ているから20代の女性のアンニュイな恋愛ものだろうと勝手に思っていたら、全く違う話でしたね。②私も地方の生まれ・育ちで、若い頃は地元が嫌だったので彼女らの気持ちは遠い昔の話だが何となくわかる。ただ、私の場合は、東京なんかではなく海外に行きたかったね(一応行けたけど)。だから東京に行きたいという気持ちはもひとつピンとこないけど、何かに成らなくちゃという焦りみたいなのはあったようにボンヤリ記憶している。でも、そんな曖昧な願望を持っていても結局何にも成れないんだよな。ましてや、何かに成りたいという夢すらなければ本当に何にも成れないんだよね(でもまあ元々夢なんてないのだから、本人は結構それで満足しているのかも)。③何にもなれていない現代の自分に幻滅してふと高校時代を振り返っちゃうという映画なんだろうけど、30も半ばになるとそんな郷愁も感じられなくなるくらい現実が迫ってきますぞ。④門脇麦は少ない出番ながらさすがの存在感。橋本愛は不細工になった?⑤橋本愛もチンポ君も高校時代輝いていた成田凌を密かに慕っていたんだね。でも現実は残酷。成田凌は高校時代が人生のピークだったような男を好演。⑥彼女ら彼らの回りに兄とは違い自分の夢を叶えた妹や、地方で若さを失う前に何とか結婚する娘たちのエピソードを置いて話に幅を持たせている。⑦時間も登場人物もころころ変わっていく流れに最初は戸惑ったけど、どこかで話が繋がるんだろうなと思っていたらやはり繋がりました。映画の最初と最後にオードリーの「ティファニーで朝食を」が出てくるけど、映画の作り方というの同じオードリーでも「Two for the Road」のほうが近いというか殆んどおなじだね。脚色家インスピレーションをうけたのかしら。流れも雰囲気も悪くないけど飛び抜けて佳作というわけでもない。
まずしい
日本人が知っている風景がある。国道もしくは主要線の両側に、すき家吉野屋サイゼリアくるまやかつや丸亀スシロー王将などが居並ぶ風景だ。三浦展の「ファスト風土」を、そのまま体現している。
10年ほど前、会社に出入りするコンサルタントの指南で何人かのアナリストを読んだなかに「下流同盟―格差社会とファスト風土」という本があった。三浦展の2006年の著作である。わたしはぜんぜん社会派ではないので内容は置くが、そこに何度か行ったことのある太田市が取り上げられ、00年代の初頭から数年で駅周辺が風俗店に侵食されたことが書かれていた。
山内マリコの小説「ここは退屈迎えに来て」の巻末にも参考文献として、三浦展の別の本が記載されている。
地方人なら誰もが知っていることだが、きょうび商店街は、ことごとくシャッター街に変容している。
縁が土地勘を形成するので、居住地と仕事によって個人的に知り得るエリアは北陸信越東北だが、新潟仙台に都市形成を見るものの、他はどこも死んだような街である。中核都市といえども、観光資源を除けば空き地や空きビル、居抜きや売り家、頓挫したバイパス、使われてないのに更地にも壊せもしない賃貸物件や商用施設が、永遠にない入店や開発を待っている。そしてファスト風土。車窓から見えるのはそんな寂れた風景だけで、人に会うのはイオンの中だけだ。
この国の地方はすべて人知れぬ土地だと思う。
外国人と話すとわかる。かれらは東京や京都や大阪や北海道を知っている。人によっては日本人は全員東京に住んでいると信じている。だからPrefectureを言うのをためらいアバウトザミドルオブジャパンとでも言っておく。大陸の距離感にあわせるなら、本州のどこであろうと「東京の近く」でも不親切にはならない。
どことも知れない地方にいると、人は帰属を見失う。
日本人が「東京の私」でないなら、もはやどこの誰やらわからない。
山内マリコの「ここは退屈迎えに来て」はそんな地方人の溜め息である。その溜め息に、モラトリアムが絡んでくる。やるせない地方で、そこはかとない夢のようなものを追っている──追っているというより夢見ている人たちの点景である。
わたしにとっては珍しく原作を読んだことのある小説の映画化だった。が、門脇麦が茫漠とした地方的風景のなかで「だれかー!だれでもいいんだけどー!」と絶叫している予告編を見ただけで、もうお腹がいっぱいになった。ことは覚えていた。
小説はエピソードの羅列の趣きで、あまり一貫せず、性的でもあった。東京への未練、地方人の身を焼くような髀肉の嘆が描かれていた。
若い女子向けに書かれている──と思うのだが、なんらかの理由でUターンした20代が抱えているであろう煩悶が矢となって飛んでくる。それに刺さる共感はあってもラブストーリーに共感するような甘露はない。
かれらは過去や、なにかが違う自分の世界に、敗北ではない解釈を付与しようとして、ことごとく失敗し続ける。
そんな地方人の卑下の咆哮がそのままタイトルここは退屈迎えに来てになっているのだが、小説はこんなにクサくはない。この映画はクサすぎて見られたものではないが、小説は現象を放っていただけだったように思う。
小説を読み、見慣れたファスト風土を延々眺める運転シーンだらけの拷問のような映画を見て、日本人は地元に諦めか憎しみしか持っていないことを痛感する。
レディバードのサクラメントが夢のような土地に見えるのも当たり前なのである。日本にいい映画がないと、わたしもよく言うが、そもそもいい映画ができる土壌がない。──牽強付会でもあるが、なんかもう、つくづくそれを感じさせる映画だった。
邦画らしいテーマなのに残念だ
個人評価:2.6
役者も配役もよい。おそらく原作もよいだろう。ただ演出が良くなく、ただカメラを回して撮った感じで、本作への愛やこだわりは監督から感じられない。言葉選びも良くなく、登場人物が活き活きしない。
邦画が得意とするテーマなのに残念だ。
気持ちがよくわかる
このレビュー欄で退屈なのは本人しだいとか地方都市と東京は今やそんなに変わりないとか等の意見が多々ありますが自分はそう思いません。自分は高校、大学時代は都民でしたがその後横浜に引っ越しました。横浜もいい所ですし、別に東京が最高とは思いませんがやはり退屈でした。学校帰りにライブハウスに行ける、お気に入りのライブがなかったり時間が合わなかったら電車移動ですぐに別のライブに行ける。音楽ライブにあきたら、お笑いでも演劇でも映画でも選択肢はいくらでもある。金をかけずにただ散歩するだけでも面白い所、遊べる場所が無限にあるそれが東京だと思います。この映画は主人公を一人に絞らず、時系列にせずいろんな男女のいろんな時代?を切り取っていて見ごたえがありました。(その分わかりにくい面もありましたが)どうやら富山が舞台らしいが方言をあえて使ってないのか、今はそんな感じなのか富山に住んだことがないのでわかりませんが高校生にあまり地方感がないのが気になりました。高校のスターだった人間とイジメられっ子だった人間が結局、地元にとどまってさえない人生を送ってる、東京に出てった人間もパッとしないという所もわざとらしくならずよかったと思います。見ごたえのあるよい映画でした。
色褪せない青春の輝きは夕日の如く消える大人のロードムービー
誰だって青春を語れば、どこかに出てくるのかもしれない。あの頃あった、邪魔されることのない輝き、その中心にいるあいつと。その誰かになれた人、なれなかった人…。
若手のトップランナーたちが綴っていく青春の足跡。登場人物のスポットライトの当たりかたに差がなさすぎて、誰が誰だかついて行けなくなる。それでも、青春を生きる彼らの輝きは美しかった。
それでも、富山を走るカメラマンのブロンコ、いつかの輝きを失っていた椎名の教習車、走っても追い付くことのない新保のトゥデイ…。登場人物を色づけるクルマとバイクに注目。大人のロードムービー、どこへ向かうかはあなたの目で。
漂う
えらく評価が低かったので観るのをためらっていた作品。
でも観始めてすぐ、作品に漂う停滞したような、煮え切らないような、なんとなく暮らしている空気感・温度が辛くなるほど伝わってきて観入ってしまいました。
キラキラしていないが大事なことを伝えようとしている映画。
人は「幻想=イリュージョン」の中に生きていると思いますが、この映画で、椎名くんはみんなのイリュージョンです。イリュージョンは自分だけでなく、相手も皆一人一人が持っている。他人のイリュージョンを「想像=イマジネーション」すること。それが、人同士が繋がっていく始めの一歩になる。
想像が実際と合っているのか、それはやはり本人や本物と実際話したり、一歩踏み込んでみないとわかりません。
関わってみると、色々気付く。自分のイマジネーションがいかにズレていたか。実は自分の願望で、考えていたんだと知る。つまり、イリュージョンだったと。人は無意識のうちに、自分が見たいようにバイアスをかけてしまう。
実際とイリュージョンの間の、溝。
リアルと願望の大きな溝と言ってもいい。
溝を知り、打ちのめされ、傷つく。
そしてそこを渡るのは、容易でないのもわかる。
でも、辛くてもはっきり見た方がいい。
その溝が見えていなくて、というか溝と向き合うのを避けて、でも避けてるのがバレないよう生きている人は、多いですよ。
年取るとそれが顕在化してくる。
劇中のマキタスポーツさんを観て、何かを感じて欲しい。仕方がない。批判する気はない。
でも映画の登場人物はみんな若い、まだ間に合う。
映画では「退屈なここ」と「憧れのどこか」。「地方」と「東京」。「自分」と「椎名くん」。こっちとあっちをわかりやすく描きつつ、登場人物は皆それぞれ見えない溝にどんよりしている。
溝をどうしたらいいかわからず自信喪失する人。
溝の手前まで行ったが、引き返してきた人。
溝は渡らずこっちで楽しく過ごそうと決めた人。
他人を利用して溝を渡ろうとする人。
自分で渡ろうとあれこれ試みる人。
背負って渡ってくれる迎えを待つ人。
溝との向き合い方が、その人を表す。
素敵な登場人物が少ないけれど、それでいい。またリアルだと思いました。
なぜか、野球のイチローを思い出しました。
もちろん「迎えに来て」のスタンスではない。
でも先日日本で小学生向けにしていた挨拶で、こんなことを話してました。
「僕が生徒だった頃は先生や指導者の方など、確かに、導いてくれる人達がそばにいてくれた。
でももういまはそういう時代じゃなくなったと感じます。
今は自分で、自分を、教育していかなければならなくなった。君達はそれを覚えていて欲しい。」
昔は居たんだと思います。
溝を渡る時に、手を貸してくれる人が。
渡り方を教えてくれる人が。
「ここは退屈迎えに来て」でOKだった。
私をスキーに連れてって、という映画に当時多くの男性がメロメロになりました。
就職も結婚も、親や教授や上司が決めてくれていた人が普通にたくさんいました。
新保くんが椎名くんを手助けしようとしますね。
「私」さんに惚れてんじゃ?
こういう愛の形もあるからね。新保くん、いいヤツ。
え、椎名くんに惚れてる?どっちだろ。
いずれにせよ、先導してくれる人がいないなら、自分が誰かの先導者になってやる、くらいの気概で、泣きながら原チャリぶっ飛ばす新保くん。
ぶざまですか?
いいえ、こういうのをカッコいいというんだよ。
この映画の救われどころ。
傷つくのを前提で、好きになった誰かと関わる。
自分のイリュージョンがぶち壊され、
自分のイマジネーションの限界を知り、
そこで初めて自分の無意識の願望に向き合える。
が、そういう態度で生きている人は、実社会でも今は少ないのかなあ。
でもそれが自分探しであり、その繰り返しで自分を理解していく。相手や世界を深く知っていく。
楽しいじゃないか。
果てしない旅。
死ぬまで続くよ、どこまでも。
こんな自分もいた、と知る時、
嬉しい時もあれば、
反吐が出るほど汚く、受け入れられない時もあるだろう。他人に否定されて、生きる価値無しと感じることも、今の時代は多い。
でも、自分を育てるのは、自分しかいない。
自分の好きになれる自分を作っていこうと思いました。あんまり肩肘張らずに。
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