「アーティストなら本音で勝負しろ!」響 HIBIKI とえさんの映画レビュー(感想・評価)
アーティストなら本音で勝負しろ!
面白かったなぁ〜
突如、文壇に登場した天才女子高生小説家 鮎喰 響(あくいひびき)の物語
女子高生 鮎喰響が書いた小説「お伽の庭」が、出版社の新人賞を受賞すると、たちまち「女子高生の天才小説家誕生!」と反響を呼ぶことになり…
私がこの映画を観てとても共感したのは
「みんな、世間の目を気にしすぎじゃね??」という響の生き方
小説家たちは、書き上がった作品について「世間にどう評価されるか」ばかりを気にして、周りから褒められる作品を書こうとする
それは、小説家に限らず、全ての人に言えること
何かを発言したり、表現したりする時に、周りの人たちに認められたいという承認欲求が出てしまい、いつの間にか、自分の思っていたことと違うことを表現してしまっている
そうして本音ではないところから生まれた作品は本当に面白いものなのか?と、問いかける
響が「天才」と言われたのは、そうした「周りから認められたい欲求」がなく、ストレートに、ありのままに、書きたいように自分の思いを表現したからだ
そして、そんな響がもてはやされるようになると「出る杭は叩きつぶす」とばかりに、マスコミは響の欠点を一斉に叩き始める
それでも、響のように「誰に突っ込まれても揺るがない自分」があって「友達がいじめられたら仕返しをする」ような熱い情熱があれば、周りの人たちは、自然とその人を評価するようになるのだ
そんな真っ直ぐな響を観ていると、私自身の中にも「周りの視線を気にして、いい子ちゃんになろうとする私」とか「認められたい承認欲求」があるような気がして、考えさせられてしまった
みんなが響のように生きられたらいいけど、彼女のような生き方はとても難しいのだ
しかし、世間の目ばかりを意識した表現には、つまらないものしか生まれないのも事実だ
表現したいことがあるなら、世間の目を気にせず表現するべきなのだ
だからといって、何をしても良いというわけではなく、やるなら、響のように最後まで責任を持つべきだ
どんな批判も受けて立つ覚悟を持って表現したとき、その人の最高傑作が生まれるのだ
その他にも「自分は才能がない」と決めつける小栗旬には「勝手に決めつけて落ち込んでんじゃねーよ」と思ったし、
人の作品も読まずに決めつける柳楽優弥には「こういう人いる〜!!」と思った
響は、最近の「作品自体よりも、その周りの現象」を評価したがる世の中に「モノ申す」ために生まれたキャラクターなのだと思った
アーティストなら作品で勝負しろ
ということなのだ
そんな作品を、そんな世界のど真ん中にいらっしゃる「秋元康センセイ」がスーパーバイザーとして参加しているんだから面白い
世間の欲求を形にして、一大王国を築いてきたように見える秋元センセイだけど、そう見えて、そうではないということなのか
それとも、秋元康も響のように生きたいということなのか
響だったら、秋元康をどう評価するのか、聞いてみたいところだ