「圧倒的な映画」音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!! むらさきさんの映画レビュー(感想・評価)
圧倒的な映画
はじめに、「現世でも、あの世でもないどこか」というのは三木監督が度々描いてきたテーマであるが、今作もその世界の存在を意識せずにはいられない。この映画全体が我々の生きているリアルの延長線上にない事は確かであって、重要なのはその奇怪な世界が肯定の形で存在していること。演出、役者の演技、カットの割り方、音楽など諸々の全てがその世界を形作ることに全作用している。一見不条理に見える理屈を真理として通用させるパラドックスな世界だ。
ふうかは常に何かに抑圧された存在で、それが「声が出せない」という形で表現されている。下手だと思われたら嫌だ、昔いじめられていた、そういった理由で声を出さずにいるふうかは正に現代社会を生きる日本人の悩みそのものではないか。個性的な意見を誇示する人間は煙たがられ、周りとの同調を求められる。そんな中、近年はSNSなどを通した自己表現が流行してはいるが、そこで求められるのは体裁が繕われた所謂「映え」な世界なのであって、シンが表にだすような自分自身の表現、つまりここでは「ロック」とはかけ離れたものなのだ。
「テンションをあげろ!!」と作中でシンは叫ぶが、その感情はもはや現代人の大衆からの同調を得辛いものなのかもしれない。
そんな現代社会の抑圧の身代わりであるふうかが、三木監督の構築した「ここではないどこか」で大暴れすることにこの作品の醍醐味がある。はじめはシンに振り回されっぱなしのふうかが、最後には流星号の運転席に自分が乗り、傍にシンを乗せるという形で主導権を握る。「声」が叫びとなって抑圧からの解放を歌うかのように。
しかし完全には解放されきらないというのがこの作品の肝ではないか。爆発的ロックスターだったシンは最後には囚人服の集団の一部と化す。そしてふうかはロックをするのではない。「大衆ウケするシンガーソングライター」に成るのだ。これは一種の敗北ではないかと思う。不思議な世界からふと現世にかえってみると、結局は大衆とそれへの同調で成り立つ世界の仕組みに順ぜざるを得なくなってしまった。
(そこに私は個人的にすごく遣る瀬無さを感じると同時に、この作品そのものにも同様の事がいえるのでは?と思いハッとなる。)
この作品において特筆すべきことはまだまだあるがとてもまとめられない。例えば麻薬の存在。しかしその力を超越するものとの出会い。またキリスト教的な主題の示す意味とは?ここで描かれる韓国とはどういう場所か。さらにギターの存在がどうにも母体に見えて仕方がないことなど。
最後に、この作品は作家性の強い芸術作品としての側面が強いのかもしれない。商業的なエンターテイメントとして消費され辛いのかもしれない。だからといってこれは「映画」ではないのか?いや、圧倒的に「映画」だ。