わたしたちの家
劇場公開日:2018年1月13日
解説
2017年PFFアワードグランプリ受賞作品で、東京藝術大学大学院で黒沢清、諏訪敦彦に師事した清原惟監督の劇場デビュー作。父親が失踪して以来、母の桐子と2人暮らしをするセリはもうすぐ14歳になるが、母に新しい恋人ができたことで複雑な気持ちになっていた。一方、目が覚めるとフェリーに乗っていたさなは、自分に関する記憶をなくなっていた。自分がどこからこのフェリーに乗ったかも思い出せない。あてのないさなは船の中で出会った透子という女性の家に住まわせてもらうことになる。父親を失ったセリ、記憶を失ったさな、まったく別々の2つの物語が一軒の同じ家の中で進行していく。
2017年製作/80分/日本
配給:HEADZ
スタッフ・キャスト
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2018年1月28日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
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わたしたちは「家」という舞台装置について、よく知っているようで、実はあまり知らない。なるほど、古い家であればあるほど、時代ごとに住人は異なり、そこで展開するストーリーも全く異なる。本作はその鋭い視点を用いて、一つの家を舞台にした、全く異なる二つの物語を同時並行的に描いていくのである。片や、母と娘が織りなすホームドラマ。片や、記憶喪失の女と彼女を助ける女性をめぐるミステリー。これらが果たしてど結びつくのかが大きな鍵となるが、そこにナチュラルに時空を超えたマジックリアリズム的な趣向が入り込んでくるところこそ本作の大きな魅力。それが炸裂する瞬間、アイディアの冴え渡った、極めて映画的な心地よさを感じずにいられなかった。カメラがとらえる角度に複数の鏡を置いて一度に多面的な表情を捉えたり、影のうごめき、奇妙な雑音が忍び込むサウンドデザインなど、細部にもこだわりが光る。非常に楽しみな才能が現れたものだ。
少女達のダンスのあと、古風な家屋内を、まんま小津な腰位置のカメラがとらえる。
そのあと海岸で少女が少女らしき屈託を語る。
15分ほどで青臭さに嫌気した。
と同時に、筋が追えなくなる。
二家庭がパラレルに存在する話。ゆえに編集を交錯させている。
おもしろくない+わからない。
にもかからわず、映画は叙情を露わにしてくる。
岩井俊二風の多感な気配を見せる少女。
いきなり、丘を越え行こうよ口笛吹きつつと歌い出し、きゃははとたわむれる、ふたりの女性。
こっちが何にも理解していないのに、リリックな情景をやらかす──その圧倒的な恥ずかしさ。
パラレルはあるていど補完される。それにしても、その途上、楽しくはなかった。
多重世界に独自性が有るか無いか、小津安二郎へのオマージュ、それらは、ひとまず置いて、監督は根本的なドラマ演出のメソッドを学習すべきではないだろうか。
しかし、この映画はなんかのアワードを獲っている。
世のなか、芸能にプライズは数あれど、未熟でも与えられるのは映画製作者だけだ。その理由は、文や絵などの個作品に比べ圧倒的に応募が寡ないこと、加えて、賞が産業振興を目的としていることにある。アワードの知名度が低ければ低いほど、振興が主眼になってくる。すなわちクリエイターの背中を押してやることを目的としている。
ただし、こういうセンスの人が映画をこころざし、授賞に気をよくし、果然、映画製作に打ち込むなら、日本映画の未来は暗い。
この国の映画の新人は、振興コンペティションに勝った「鬼才」であることが多い、と個人的にはみている。やりたくて熱いひと、かれが厨二であろうと、門戸を開けている。
映画監督という職業は、この人のように芸術──ぬるいコンペティションから出発する人と、現場で叩き上げる人の二種類に大別される。
もし芸術から出るなら、社会/人間のことをじゅうぶんに知らなきゃいけない。
基礎技術を経たなら、人生経験がものを言う──そうでない芸能は、この世に存在しない。大衆に伝わらない映画を撮るんだったら、インスタレーションでもやってりゃいい。
2018年8月12日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:映画館
自主とか卒制って、どうしてああいう人間ばかり出てくるんだろう。何で同じ家なのかもわからん。