「カウボーイを●すのが俺たちのヒーロー」ウインド・リバー いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
カウボーイを●すのが俺たちのヒーロー
カンヌ映画祭〈ある視点部門〉監督賞受賞作のクライム・サスペンス(バディもの)。
今作品は、ラジオ番組の町山智浩の映画評で知ったのだが、その際の前段階の予習が非常に重要だということを再確認させられた内容である。広大なアメリカの土地ならではの、西部開拓時代から進歩が止まってしまっている場所での非人道的な振る舞いとそれを根付かせてしまっている経済的、歴史的背景を、逆に自然の雄大さとの比較で際立たせている。
それにしても今作はアメリカの国の成り立ちや法律、歴史をある程度勉強していないと、ストーリーの深みが読み取れないのではないだろうか。その辺りをスルーしてしまうと、サスペンスドラマとして大事な“理由付け”が薄まってしまい、正に“アメリカン”コーヒーな訳だ。そうなると日本のテレビでの『2時間ドラマ』の域を出ず、単純に故人の怨恨が起因という形で終わってしまう。
アメリカは州そのものが国であり、国達が集まった“合衆国”という成り立ちである。そしてその州を跨がる事象だけの法律を連邦法に定め、その他の法律は州毎に制定している。今作品の舞台はワイオミング州にあるウィンドリバーインディアン保留地であり、そこは連邦の管轄であるのだが、連邦法では強○罪は制定されていない。そして正に征服され虐げられた先住民達の強制移住区であり、そこでは広大だが、痩せた土地に、たった6人の警察官しかいない。辺境の土地には夢はなく、『生き延びるか、諦めるか』の二者択一しか道はない。失業率、貧困率でトップランクのこの場所では、全てが死んでいるのだ。そんな中での暴行殺人事件なのである。当の先住民達ももはや先祖の儀式や矜持もズタズタに切り裂かれ、伝承が施されず、誇りも棄てられたまま、しかし気持は留まってしまっている。顔にペイントをすることさえ、もはや正統な方法が受け継がれていないからデタラメである。
そしてそれはまた、白人とて、同じだ。“ホワイトトラッシュ”も又、その境遇に苦しみ喘ぎ、その孤独を酒やドラッグで誤魔化し、現実を直視できずにいる。『酔って、孤独で、そして暴行』という悪循環だ。
プロット展開として、ミスリードを設ける意味合いで、土地の鼻つまみを登場させ、しかし実はこの土地から資源を奪っているエネルギー省管轄の警備員という連中に視点を変えていくのだが、そこの展開はもっと二転三転が欲しかったし、今の映画ではそれをやっている作品は枚挙に暇がない。勿論、『事実に基づく』作品だから、100%フィクションにはできないのだけど、しかしもう少しドラマティックさをストーリーに盛り込んでも良かったのではと、一寸残念だ。例えば、もっと鬼畜でサイコパスな登場人物が出て、このアメリカの法律網の盲点を予め理解しているとか、死んだ女の子は暴行死ではなく、直接死因は冷気を肺に吸い込んだことによる、窒息死であることも、もう少しそこをトリックに使うとかは、織込んでも良かったのではと思うのだが、そうなると意味合いが変わってしまうのだろうな。推理モノではなく、あくまでもヒューマン、そして現在社会問題を投影したテーマなのだろうから。
FBI捜査官のTバック、そして、女の子のTバック、その辺りに、もう一つのテーマである男女間の意識の違い、世代間の意識の違い、そして女性の社会的参画のあり方みたいなものを対比させるギミックとして、細かい小ネタも散りばめられている点も興味深い作品に仕上がっていた。きちんとカタルシスで帰着したところは制作者の良心として、受容れやすいのではないだろうか。現実はこんな“必殺仕事人”はいないけどね・・・