花筐 HANAGATAMI : 映画評論・批評
2017年12月12日更新
2017年12月16日より有楽町スバル座ほかにてロードショー
反戦映画という枠をはるかに超えた、初々しい奇想に満ちた畢生の大作
作家は処女作に向かって成熟するというが、癌に侵され、余命宣告を受けた大林宣彦監督が撮り上げた畢生の大作「花筐 HANAGATAMI」は、まるで彼の商業映画デビュー作「HOUSE ハウス」を思わせるオモチャ箱をひっくり返したような初々しい奇想に満ちた映像実験で全篇が染め上げられている。
原作は檀一雄が日中戦争が勃発した昭和12年に発表した同名の短篇で、架空の海辺の町の大学予備校に通う四人の少年たちの青春群像を描いている。大林監督の分身とおぼしき軍人の子供俊彦(窪塚俊介)を語り手にすえ、ニヒリスト吉良(長塚圭史)、アポロのように精悍な鵜飼(満島真之介)、剽軽な阿蘇(柄本時生)、そして美しき叔母(常盤貴子)、肺病を患う従妹美那(矢作穂香)、女友だちのあきね(山崎紘菜)、千歳(門脇麦)がそこにからむ。
映画は佐賀県・唐津で撮影されたが、祝祭的な「唐津くんち」の場面をのぞけば、自然の風光美はほとんど封印され、人工的な書割めいた舞台装置のなかで、戦争の足音が刻々と迫る中、儚くあやうい一夜の戯れのような恋と憧憬の輪舞が繰り広げられる。
冒頭近く、喀血した美那に口づけする叔母の鮮血にまみれたクローズアップには意表を突かれる。大林の個人映画時代の傑作「伝説の午後 いつか見たドラキュラ」、さらにそのオマージュの源泉であるロジェ・ヴァディムの「血とバラ」の耽美的世界がいきなり現出するからだ。素っ裸の俊介と鵜飼が馬に相乗りして夜の海岸を疾走するシーンに至ってはジャン・コクトーを彷彿させるホモセクシュアルの匂いが濃密にたちこめる。
かつて、そのコクトーは「映画とは〈現在進行形の死〉をとらえる芸術だ」と喝破した。劇中、俊彦が、大林の渾身のメッセージを代弁するかのように「青春が戦争の消耗品だなんてまっぴらだ」という台詞を呟くが、この巨大なプライベート・フィルムは、ありきたりな反戦映画という枠をはるかに超えて、生者と死者が絶えざる往還を繰り返す、映画そのものが孕む童話的な残酷さに到達しているように思う。
(高崎俊夫)