婚約者の友人のレビュー・感想・評価
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ルビッチの名画を大胆にアレンジしたアナザーストーリーにみる、オゾン監督の現実透視
鑑賞作品が極端に少なくてもエルンスト・ルビッチ(1892年~1947年)は、私が敬愛する監督の一人です。偉大なフォード、チャップリン、ルノワールは別格として、好きな監督は誰ですかと聴かれたら、迷わずルビッチとフランク・キャプラとルネ・クレールの3人を挙げたい。18歳の時フィルムセンターで観た「結婚哲学」(1924年)の面白さに衝撃を受け、その後「極楽特急」(32年)「青髭八人目の妻」(38年)「ニノチカ」(39年)「生きるべきか死ぬべきか」(42年)、そしてこのフランソワ・オゾン作品の原作となる「私の殺した男」(32年)と、これまで観てきました。機知に富んだ会話劇の面白さと、シニカル(冷笑)で時にアイロニカル(皮肉)なユーモア溢れる演出のルビッチタッチは、ソフィスティケート・コメディの模範的な大人の映画として、サイレント時代から1940年代の映画界に唯一無二の存在価値を刻んだと思います。その中で「私の殺した男」には一切のユーモアが無く、戦争悲劇から罪悪感に苦悩する贖罪と、それを受け入れる寛容の深刻を極めたヒューマンドラマになっており、アメリカ映画としても異質にしてひときわ異彩を放つ映画になっています。上映時間は76分の小品で、サイレントからトーキーになったばかりの時代を反映してルビッチ演出もサイレント映画に近い表現でした。
84年の時を経たオゾン作品の特徴は、映画前半にフランスの作家モーリス・ロスタン(1891年~1968年)の原作を忠実に再現しながら、映画後半に独自の後日談を創作したことです。それはルビッチ作品が描こうとしたヒューマニズムに対するアイロニカルな回答であり、今日的で現実的な作家の視点を持っています。故にルビッチ作品とは違うアナザーストーリーとして鑑賞することが求められることになりました。ルビッチ作品への特別な思い入れをひとまず置いて、婚約者アンナの特に後半の心理描写の厳しさと残酷さについて思いを馳せる事になります。
婚約者フランツの友人を装いアンナに近づいたフランス人アドリアンの贖罪の直向きさとキリスト教的懺悔に対して、彼女は苦しみながらも理解を示し、フランツの両親に真実を明かさなかったのは賢明でした。一人息子フランツの友人と思っていたフランス人の好青年が、実は戦争で息子を殺めたその張本人であることは、余りに残酷であり怒りの置き所に苦しむのは想像がつきます。この嘘を付き通して、手紙の返信の内容も老夫婦が疑わないように誤魔化すアンナの精神状態はもう壊れかけていました。アドリアンがフランスに帰った後、亡きフランツを想い出す度に彼を心配する感情は、婚約者として裏切りになるのではないか。アドリアンの精神状態が安定していくのが手紙で分かれば、時と共に忘れられたかも知れません。しかし手紙が宛先不明で戻されて、フランツの両親の勧めもあってアンナがパリを訪れるところから意外な展開を見せます。
数少ない手がかりをたどり、役所で同姓同名と思しき人の死亡をお墓まで調べて確認するアンナ。それがアドリアンの伯父であったとするこのストーリーの悪戯は、その後田舎に帰ったアドリアンに会えることで更にアンナの感情を混乱させることになります。贖罪に対する理解から同情、そして微かな好意から自然と沸き立つ感情を確かめるためにアンナは行動したと思います。手紙が所在不明で戻って来たのはアドリアンが精神的病に陥ったからと心配していたのが、田舎の邸宅で母親と裕福で穏やかな日常生活を送っていたのを知るアンナ。しかも彼には婚約者ファニーという若くてしっかり者の女性が付き添っていた。遥々ドイツから敵国だったフランスを訪れ、アドリアンを探す旅が杞憂に終わるアンナの感情を思えば、これほど居た堪れないものはありません。しかし、ここまでアンナという一人の(戦争未亡人)の立場の女性を苦しめさせるものが戦争であるとするオゾン監督の真意も理解できます。そして救いは、ラストシーンにありました。
ルーブル美術館を再び訪れ、アドリアンが邸宅にも飾っていたエデュアール・モネの油絵『自殺』を観るアンナ。偶然同席した青年は、アドリアンの分身でしょう。“君もこの絵が好き?”に返事して、“ええ、生きる希望が湧くの”と答えます。戦争で人を殺めた贖罪の懺悔に苦しんだのは、そこから再び生き返るために自分を追い詰めた行為であり、精神的なリセットだった。アドリアンがそうしたように、アンナも無きフランツを悼む行為として、アドリアンを許すという境地を経験し、その感情を整理することが出来たのではないか。映画はここでモノクロからカラーの映像に変わり、現実の世界から想像や嘘、幻影や希望を意図した色彩の世界でエンディングを向かえます。
アンナ役のパウラ・ベーアは、難しい感情表現を巧みに演じて、特に後半では微妙な心理変化を好演しています。反対にアドリアンのピエール・ニネは、前半のもがき苦しむ演技に説得力があり、後半はアンナの女性心理に鈍感な設定が影響してか無頓着な青年に収まっています。その他フランス・ドイツの地味なキャスティングは、内容にあった的確なもので特に不足は有りません。カラー映像を何度か挟むオゾン監督の演出は、モノクロの現実の厳しさを際立たせる効果を担っていて、オゾン監督独自のこだわりを感じました。フィリップ・ロンビの静かに流れる音楽も、ショパンのノクターン第20番『遺作』のアレンジなどが印象的でした。この映画の設定の衝撃的なストーリーテリングは映画史的に貴重で、それを復活してくれたオゾン監督には感謝したいと思います。
追記
第一次世界大戦(1914年~1918年)を題材にした、例えば美男スター、ルドルフ・ヴァレンティノ主演でレックス・イングラム監督の「黙示録の四騎士」(21年)の壮大なドラマで戦争批判したサイレント映画や、レマルク原作ルイス・マイルストン監督の「西部戦線異状なし」(30年)のトーキー初期の名作を観て個人的に感じたものが、ルビッチの「私の殺した男」に接したとき、更に感慨深い心境に至りました。それは大袈裟かも知れませんが、映画は何故生まれたのか、何故創られ続けるのかの1つの答えに、戦争を無くすためにあるのだという事です。20世紀初頭の人類の争いは、それまでにない殺傷と破壊を可能とする兵器の発達により、多くの犠牲者と悲劇を世界中に拡散しました。時を同じくして総合芸術と大衆娯楽の特徴を持つ映画が先進国牽引の産業として発展した歴史が、偶然とはいえ重複し深く関わってきました。国威発揚に利用するプロパガンダの記録映画や国策映画、そして第二次世界大戦後は反戦と娯楽映画など多様なジャンルで今も継続しています。
恐るべき傑作
【第一次世界大戦時、ドイツ兵を殺したフランス兵だった男の贖罪の気持ちと、殺された男の婚約者が男を赦し、彼の人間性に惹かれていく様を、気品高く且つ哀しみを漂わせて描いた逸品。】
■婚約者のフランツが戦死し、悲しみに暮れるアンナ(パウラ・ベーア)。
ある日、フランツの墓に花を手向けて泣いている男と出会う。
男の名はアドリアン(ピエール・ニネ)。彼は、フランツの”友人”だと名乗る。
やがてアンナがアドリアンに“婚約者の友人”以上の感情を抱いた時、彼は自らの秘密を明かす。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・今作は、気品のある映画であるし、もしかしたらフランソワ・オゾン流の反戦映画であるのかもしれない。
・第一次世界大戦後の衣装、意匠も美しいが、矢張りアドリアンを演じたピエール・ニネの深い憂愁を湛えた表情に魅入られる。
ー あの表情を見れば、婚約者フランツを殺された事が分かっていても、アンナが心惹かれるのも無理は無いであろう。-
・アンナは、戦後フランスから反フランスの空気が残るドイツに来て、フランツの墓に涙を流しながら花を手向けるアドリアンの贖罪の心を受け入れ、フランツの両親には彼がアンナに告白した”真実”を告げない。
ー アンナは当初はフランス人という理由で、アドリアンに冷たかったフランツの両親が彼が亡き息子の友人だったという嘘を信じて、アドリアンを赦す心になった事を壊したくはなかったのであろう。
更に言えば、アンナはアドリアンの真摯な姿に心惹かれて行くのである。-
・そして、今度はアンナがアドリアンに会いにフランスに赴く。だが、彼は巴里の楽団を辞めていた。不安になるアンナだが、無事再会するが、アドリアンには婚約者のファニーが居た・・。
ー アンナは、傷つきアドリアンの家を辞そうとするが、アドリアンに引き留められ、一夜を過ごしてドイツに戻るのである。
ここで、安易なハッピーエンドにしない所が、フランソワ・オゾン監督らしさが出ていて、巧いのである。-
<今作は、第一次世界大戦中に戦ったフランス兵とドイツ兵の両親や婚約者の姿を気品高く描くことで、人間性を保つ大切さと戦争の愚かさをミステリー風味を纏わせながら描いた作品である。
モノトーンとカラーの使い訳も上手く、フランソワ・オゾン監督の才能の高さを感じる作品でもある。
フランツの父が、パブでフランス人であるアドリアンと一緒に居た事で、飲み仲間に冷たくされた時に言い放った”息子達を殺したのは、戦地に送った私達父親だ!”と言う言葉は沁みたなあ。>
観たかった度○鑑賞後の満足度◎ 映像で書かれた小説を読んでいるよう。様々な顔を持ちながら奥底には一筋の清流が流れている様な。この時点でのフランソワ・オゾン監督の集大成かも知れない。
①先ずは仏語と独語のバイリンガルがいて初めて成立する物語。
実際に仏語と独語のバイリンガルはどれくらいいるのだろう。
1919年の話だから現代と比べても意味ないけど。
フランスとドイツとの関係。
どちらも元フランク王国であったが、西フランク王国と東フランク王国とに分かれてからそれぞれの歴史があり今はEUの中核となっている両国。
身勝手なアドリアン
フランツの親族を訪ねてアドリアンがやってくる前半。
フランツの友人のふりをするが、嘘に耐えきれなくなりアンナに真相を打ち明けてフランスに帰国。
そして、手紙が戻ってきて行方がわからなくなったアドリアンを探しにアンナがフランスに行く後半。
アドリアンは身勝手に見えた。
手紙を書き続けるといいながら、故郷に戻ったことも知らせず、手紙の返事が来なかったことをショックだったとアンナに話す。許されることを求めすぎではないだろうか。
はるばるフランスまでやってきたら家は立派で、支えとなってドイツ行きを勧めてくれる女性までいる。アンナの気持ちを考えるといたたまれない。
フランツの両親のアンナへの接し方がとても心優しく、一人息子のフランツの描写は少ないものの、平和主義者だったという息子の人柄が想像できる。
ハンスのように息子たちを戦場に送り、勝利には喜んで酒を飲む、双方の父親たちに責任があるのだと思えるだろうか。
そしてそんな両親にフランツを殺したのがアドリアンだと真実を伝えられるだろうか。更にはフランス行きを後押ししてくれたのにその結果をそのままに伝えられるだろうか。
最後、モネの自殺という絵画を前に生きる希望が湧いてくるというアンナの言葉が希望だった。
心がざわざわ☆
白黒が嫌じゃなく、見やすかったです。ところどころカラーなのも素敵でした。ストーリーが進むにつれ、こんなに苦悩してるアンドリアンは、なんかあるやろなと思ったらやっぱり…しかも結構キツい嘘でした。アンナが少し好意を抱くのもじわじわ伝わってて、切なかった。
アンドリアンが帰国したあとは、もしかしたら自殺しちゃうかも!!と私も思った。モネのあの絵はみんな最悪のこと考えちゃう。まぁ生きてて良かった…。
しかし婚約者?恋人?がいるとは(。-∀-)。
ラストは、結ばれなかったけど、Happyではあったように思う。生きる力が湧いてるから。
時々カラー。昔うちにあった壊れたカラーテレビみたい・・・
フランソワ・オゾン監督が初めてモノクロに挑戦し、1919年のドイツを舞台に、アンナ(パウラ・ベーア)の戦死した婚約者の友人アドリアン(ピエール・ニネ)との交流をミステリアスに描いた人間ドラマ。時々カラー映像に変わるという手法で、カラーになった時はアンナの精神状態を投影しているかのように感じるが、ハッキリとはわからない。
ヒロインであるアンナが婚約者フランツの墓前で、泣いている男を目撃する。アドリアンは墓参以外に、直接フランツの父親であるハンス・ホフマイスター(エルンスト・シュトッツナー)のもとを訪れていた。ドイツは戦争でフランスに敗れていたため、当然ドイツ人はフランス人嫌い。ハンスも例外なく嫌っていたため、アドリアンがフランス人であるとわかると追い返してしまうのだ。ホフマイスター家に身を寄せていたアンナはアドリアンがフランツの友人だと思い、彼を招待し、やがて彼の思い出話でハンスも妻マグダも気を許していくのだった。
そんな単純な構図の作品をオゾンが手掛けるわけがない!予想通り、フランツの戦死はアドリアンが関わっていて、彼は赦しを乞うためにわざわざパリからドイツまでやってきたのだ。戦争による人殺しだから罰することもできない。しかもフランツもアドリアンも戦争には反対する平和主義者だったのだ。アンナはその事実を告白されても、ホフマイスター夫妻には打ち明けることが出来ず、アドリアンが罪を抱え込むのと同様に、彼らに嘘をつき通すことで悩みや罪を抱え込み苦しむことになっていく。
反戦映画と一言で片付けるのも簡単だが、アンナが教会で告解するシーンに集約されているように、「赦し」と「隣人を愛せよ」というキリスト教的なメッセージが見て取れる。息子を失った父親たちがバーで飲んでいるときにも、罪がどこにあるのか問うていたように、憎しみの連鎖をどこかで断ち切らねばならない。アンナは入水自殺を試みるほど落ち込んでいたのだが、事実を隠し通すことで連鎖を断ち切ろうと決心したのだ。
終盤には赦しを経て、愛へと変化するアンナの心情が手に取るようにわかるのですが、マネの絵画「自殺」を何度も見るうちに、アドリアンの本意や、これからの自分の生き方を与えてもらったような気がします。
タイトルなし(ネタバレ)
最後の意味がわからなかったので、他のかたのレビューを読んだら、アンナの自立とかいてあり、そこでやはりあれはしをえらぶという暗示と思ったり、なかなか面白い展開。
タイトルなし
悲しみを乗り越え・・・
1919年のドイツ、婚約者フランツを戦争で失ったアンナは毎日、お墓参りをしていた、ある日、見知らぬ男が墓の前で泣いているのを目撃する。
話を聞くと、パリでの友人でアドリアンといい、墓参りに来たという。
フランツの両親とアンナは生前の様子が聞けて喜ぶ。
アンナは次第にアドリアンにひかれていくが、アドリアンには隠していることがあった。
善人が戦争でたどる道のようで、とても切ない。
美談
戦時中の話は「死人に口無し」なので、美談で語られやすいのでしょうか。でも実際のところは美談などではないのです。フランツの両親の様に、人間はどこかで美談を求めているだけなのかもしれませんね。酷い真実なんて知りたくありませんから。人を殺したアドリアンが善人で純粋に見えてしまう。その部分の描写が上手いですね。
相手にいくら期待をしても真実は厳しいもんなんだなとアンナを見ていて思いました。女性の自立は、こういう事がきっかけになるのでしょう。今回はメロドラマ仕立てでオゾンらしくないと思いきや、やはりラストはオゾンでした。ウディ・アレンばりの意地悪さです。
タイトルなし(ネタバレ)
許しを乞うのは自分の罪の意識を軽くして相手に重荷を背負わせてしまう事のような気がした。美しく正当化しているがアンナが可哀想に思えて仕方がない。婚約者の友人てまはなく婚約者の殺人者だったのだから。
果てしなく孤独
オゾン作品特有のエグさみたいな物がなくて、落ち着いて観ることができました。
(ないのも寂しいのですが)
戦争によるすれ違いという使い古された題材を、普遍的に描きつつも、しっかりとオゾン作品になっている。
なんというか、力量が上がったなぁと感じさせます。
前半はふたりが同じように孤独だと思って観ていたのですが、予想外の展開で、アンナの孤独が際立ちます。
錯綜してゆく中でのキスシーンや、死にさえ拒まれた中でのラストカットはとても良かったです。
とにかく孤独、果てしなく孤独。
だからオゾン作品が大好きです。
悲しみや喪失の物語
悲しみや喪失の物語。巧みなストーリーテリングで、一度失われたものはなかなか他のもので埋めることはできないということを描いている。
1919年、第一次大戦終結直後のドイツとフランスが舞台。婚約者が戦死して悲しみの日々を送るドイツ女性のもとに、生前パリで知り合ったというフランス人の青年が訪れる。
ストーリーを離れたところで、戦争が終結したばかりの隣国同士の憎しみ合いという舞台背景は、とてもアクチュアルで、そしてそう感じさせるほどに普遍的な問題なのだろうと感じた。
私たちも日々感じているように、隣国同士というものは、利害が対立したり、しばしばその結果として勝/敗、支配/非支配といった立場の違いが両者の隔たりをさらに広くしたり、また憎しみを強めたりする。
それらは、集団としては仕方のないことなのだけれど、個人の間はまた違う関係があるはずだと思っている。だからこそ、利害対立の部分以外の、文化や生活習慣の面を取り上げて見下したり、面白がるような態度は最もよくない。
息子の命を奪ったフランスを毛嫌いする父 ハンスが次第にフランス人の青年に心を開いていく姿はとても印象的だ。彼は、個人の悲しみが集団の犠牲であって、ドイツの父親たちが息子たちを失ったのと同様に、フランスの父親たちも息子を失ったことに気づいたのである。
そして、懸隔を縮める理解を促すのは文化の尊重であり、言語だ。ひさびさに中国語や韓国語を復習したいと思った。
このオチはツライ
アドリアンには
嘘をついたままでいて
欲しかったですね。
アンナは
本当に
許せたのか?
ドイツもフランスも
戦争で家族を亡くしているのは
一緒なのだ...
フランツのお父さんが
酒場?でのシーン
「子供を戦争に行かせて
敵国の兵士を殺させて
父親は祝杯をあげる」みたいなぁ〜
何とも言えないセリフでした。
今回の作品は
オゾンっぽくないなぁと
感じました。
サスペンスより、戦争によって巻き起こされる人の感情について、その結果
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