我は神なり : 映画評論・批評
2017年10月3日更新
2017年10月21日よりユーロスペースほかにてロードショー
ウソと真実の価値を問う、ポスト真実に必見の一本
韓国で大ヒットを記録し、日本でも絶賛されている「新感染 ファイナル・エクスプレス」。同作で彗星のごとく登場したヨン・サンホ監督は、元々アニメーション監督である。アニメーションと実写、2つの異なる手法でともに成功を収めることは並大抵のことではないが、確かな実力を実写でもアニメでも示している。「我は神なり」は、そんな同監督が世界で注目されるきっかけとなった作品だ。
アニメ作品だが、世界を席巻した「殺人の追憶」や「チェイサー」などの諸作品と同様、どす黒く、力強い情念を持った作品で観客の目を釘付けにする。むしろアニメーションで描かれるからこそ、そうした負のパワーも純化されているとすら感じさせる。往年の大友克洋や今敏のような、アジア人の顔を精緻に再現するような画風で、現実と地続きであるような印象の映像によって、ヨン監督は現代を生きる我々にとって非常に重要な問いを投げかける。
ダム建設のため間もなく無くなる村の住民は、将来の不安に怯えている。そこにやってくる宗教団体を装った詐欺集団が村人に偽りの救いを与える。彼らは何のご利益もない水を売りつけるが、不安にかられる村人にはそれでも一時の救済として機能してしまっている。
これに異を唱えるのは、いつも娘や妻に暴力を振るう、つまはじき者のミンチョルだけ。彼だけが真実を解明しようとするが、トラブルメーカーの彼を信じる者はいない。何より村人も彼の妻も娘も、心の救済を詐欺師たちによって得ている。人は信じたいものしか信じないものなのだ。
本作で描かれるのは、偽りの救済と人を絶望させる真実の対立だ。村がなくなれば行き場を失う村人は、詐欺によって心の安寧を確かに得ている。あけすけにその欺瞞を暴こうとするミンチョルは、その追求行為ゆえに絶望を見る。人を救うペテンと絶望させる真実、果たしてどちらに価値があるのか。ポスト真実の時代を生きる現代人にとって避けがたい問いかけである。
韓国映画らしいパワフルさで、現代の闇を抉り出した優れた作品だ。
(杉本穂高)