ジャコメッティ 最後の肖像 : 映画評論・批評
2017年12月12日更新
2018年1月5日よりTOHOシネマズシャンテほかにてロードショー
不毛にすら思える非効率的な創作過程の活写が、現代の風潮への豊かな批評をはらむ
これが巨匠ジャコメッティの創作の実態なのか――。アメリカ人作家のジェイムズ・ロードは1964年、パリから帰国する直前、アルベルト・ジャコメッティから肖像画のモデルを依頼される。ジャコメッティは半日もあれば描き上げると告げるが、いざ始まると筆は遅々として進まない。ミューズ的存在の娼婦が現れてセッションが中断する。完成に近づいたと思えば、罵声を上げて灰色の絵の具で塗りつぶしてしまう。ロードは帰国の延期を余儀なくされ、困惑と徒労感を募らせる。
延びに延びて18日間に及んだこの無間地獄のようなセッションを、ロードは1965年刊行の回顧録「ジャコメッティの肖像」に書き記す。ジャコメッティは翌66年に死去し、結果的にロードを描いた肖像画が〈最後の肖像〉になった。
さて、その回顧録を映画化したのが、本作「ジャコメッティ 最後の肖像」である。脚本・監督を務めたのは、名脇役として知られるスタンリー・トゥッチ。トゥッチ本人は出演せず、ジャコメッティ役に「シャイン」のオスカー俳優ジェフリー・ラッシュを、ロード役に「コードネーム U.N.C.L.E.」の美男子アーミー・ハマーを配した。原作はロードの視点から、芸術を主題とするジャコメッティとの禅問答のような会話を中心に進むが、映画ではジャコメッティの視点も加えて、対象の本質を描こうと試行錯誤する芸術家の生きざまに迫る。さらには右腕的存在の弟ディエゴ(トゥッチの監督第1作「シェフとギャルソン、リストランテの夜」で腕利きのシェフを演じたトニー・シャルーブ)、陽気で気まぐれな娼婦カロリーヌ、夫の公然の浮気を悲しげに眺める妻アネットらをからめ、天才芸術家に翻弄されながらも支える人々の悲喜こもごもを添えて、肖像画のモノクロ調を補うかのようにエモーショナルな色彩を塗り重ねていく。
思えば、「シェフとギャルソン、リストランテの夜」のアメリカの田舎町でイタリアの味にこだわるシェフと、その弟で経営難に苦しむギャルソン(トゥッチが自ら演じた)の関係は、ジャコメッティとロードの関係と相似形だ。職人肌の天才は妥協を許さず世間に迎合しない。描いては消しを繰り返す画家、客の好みに合わせて味を変えることを拒むシェフは、生産性、効率、大衆受けが優先される資本主義社会に馴染んだ“常識人”からすると、非生産的で要領が悪く、身勝手な振る舞いで周囲を困らせるように映る。しかし、真に価値のあるものを創造するには、そんな世間のルールにしばられないことも時には必要だと、ハリウッド大作の常連俳優でもあるトゥッチは自らのメガホンでこうした良作を地道に作り続けながら訴えている。
(高森郁哉)