セールスマン : 映画評論・批評
2017年6月6日更新
2017年6月10日よりBunkamuraル・シネマほかにてロードショー
“正しさ”にまつわるいくつもの問へと観客を巻き込んでいく
トランプ政権による母国イランを含む特定7カ国からの入国制限令に抗議して、本年度米アカデミー賞授賞式をボイコットしたアスガー・ファルハディ監督。だが、その新たな快作「セールスマン」は「別離」に続きみごと二つめの外国語映画賞に輝き、困った大国アメリカにも正義の居場所は残っていたかと浮き浮きさせてくれた。もっとも監督ファルハディの映画はいつも世の中、そう単純に正義だ悪だと線引きできるものではないのだと、一筋縄ではいかない人と社会の成り立ちを吟味する。その複雑な味わいこそが彼の映画の要だろう。
自由を求め出国を望む妻。要介護の父を置いて同行するわけにはいかない夫。どちらを取るかと理不尽な選択を迫られる11歳の娘。そんな一組の夫婦の離婚をめぐる葛藤が、もう一組の夫婦の葛藤とからまり正解のない問をつきつけた「別離」。同様に「彼女が消えた浜辺」もパリが舞台の「ある過去の行方」にしても、現代イラン固有の問題をえぐりつつ、人として誰もが身につまされる普遍の命題をさりげない日々の中にくっきりと浮上させた。
「セールスマン」もまた、乱暴な建築工事のせいで引っ越しを余儀なくされた夫婦を襲う事件を発端に“正しさ”にまつわるいくつもの問へと観客を巻き込んでいく。
世間を気にして警察に通報しない妻は正しいのか? 自力で犯人探しに乗り出し、復讐への思いにとり憑かれ、同時にどこかで被害に遭った妻を責めている夫は正しいのか? あるいは急速な都市化を断行する社会は、はたまた娼婦が住んでいた部屋を斡旋した友人は正しいのか? そうして終盤にかけ現れるもうひとり――いったい誰に罪があるのかと、いつしか観客もモラルと人情、人と法との板挟みにやり場のない怒りを分かち合っている。
相変わらず強力なこのファルハディ的共振の時空を今回、いっそう興味深くしているのが、夫婦が劇団で主演中の戯曲「セールスマンの死」の活かし方だ。アメリカの夢においてきぼりを食らう老セールスマンと家族の悲劇。それがじわじわと演じる夫婦の現実と重なって、スリリングに虚実を裏返していく。ステージのセットに照明があたって始まる映画は、夫婦のかつての居間が現実と戯曲の共鳴を映し、セット然と目を撃つ幕切れへとなだれ込む。虚ろな顔で出番を待つ夫と妻。現実のドラマの新たな幕開け、その酷さが胸に刺さる。
(川口敦子)