ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画には無駄を省いた引き算の美しさがある。映画は観客に必要な情報だけを与えるのだから、みんな引き算はしているのだろうが、ヴィルヌーヴの場合はそれがひとつのトレードマークのようになっている。彼はデヴィッド・フィンチャーやクリストファー・ノーランのような、エンターテイメントと実験的な要素の間でうまくバランスをとっている作家だと思う。
そして、ヴィルヌーヴの作品には、ずっしりと腹におちつく説得力がある。「哲学的な」とでも言いたいところだが、この言い回しは響きがよくて、それっぽいことを言っている感じがするが、具体的にどんなものなのかよくわからないので、適切ではないと思う。うわっつらの見栄えの良さではない表現ではない強さがある、と言えば多少は表現できているだろうか。
本作は1989年12月6日にカナダのケベック州モントリオールにあるモントリオール理工科大学で起きた銃乱射事件をもとにした作品で、モノクロで撮られている。銃乱射のシーンが長いので、カラーだとグロテスクになってしまうからではないだろうか。これも良し悪しだと思うが、本作は映像が美しくて、銃乱射の悲惨さというものはあまり伝わってこない。理性では悲惨なことだと理解しつつも、ビジュアル的な美しさに心を奪われてしまうのだ。
主な登場人物は三人いる。主人公はヴァレリーという女性の大学生。彼女は航空業界で職を探しているが、面接で「女は妊娠して退職するから困るんだ」と言われて傷つく。
そして、もうひとりが殺人者で、彼はは自分の人生をめちゃくちゃにしたフェミニストを殺す、という憎悪に燃えている。そして、ヴァレリーの通う大学で、無差別殺人を実行する。もうひとりは、ヴァレリーのクラスメイトのジャン=フランソワという男子生徒。
殺人事件のあと、ヴァレリーとジャン=フランソワがどうなったか、も描かれる。
むしろヴィルヌーヴが描きたかったのはこちらだったのではないかと思う。
事件に巻き込まれたが、男であるがゆえに命を奪われなかったジャン=フランソワは、罪の意識にさいなまれる。
そして、女であるがゆえに命を奪われそうになったが、生き延びたヴァレリーは、悪夢に悩まされながらも航空業界で働く。そして、妊娠する。このエピソードは、「女は妊娠して退職するから困るんだ」と言われたことで憤慨していた彼女が、結局は面接官が危惧したとおりになるという点で、映画の演出としては良い。フェミニストを憎悪する犯罪者を描いただけでは、本作がフェミニズム映画になってしまうので、うまくバランスをとったのだ。
ヴァレリーは殺人者の親に対して、投函しない手紙を書く。人生で二度目の恐怖について。ひとつめは、殺人者に出会ったこと。ふたつめは、子どもをさずかったこと。
身も心もズタズタだと叫びたい。しかしその叫びは投函されない手紙に書かれている。
劇中でゲルニカの絵が出てくる。
ヴィルヌーヴはどういう意図でこの絵を映したのだろう。
ピカソが描いたこの絵はもともとは「ゲルニカ」ではなかった。スペイン共和国政府からオーダーされて描いた暴力的な絵があっただけだ。そこに、ドイツ空軍によるゲルニカ爆撃がはじまったので、反戦の意味を込めて「ゲルニカ」と名づけたのだ。
このエピソードを踏まえると、自分の人生をめちゃくちゃにしたフェミニストへの憎しみ、という殺人者の言葉は後づけで、実際には根拠のない憎悪だけがあった、という風にもとらえられる。
そして、根拠があろうとなかろうと、暴力は人を巻き込む。その負の痕跡はいつまでも残る。
人は生きることで疲弊していく。それでも自分の足で立ち上がって生きていかねばならない。自分はきちんと生きているのだろうか、と自問する。