「キスシーンのハッピーエンドは人生に無責任」ひるなかの流星 Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
キスシーンのハッピーエンドは人生に無責任
『ひるなかの流星』(2017)
<キスシーンのハッピーエンドは人生への無責任だと思う。>
『半分、青い。』で朝の顔の永野芽郁主演で、役名も漢字は違うが、名前が「スズメ」で同じ。キャラクターも似た感じでもあり、どちらも上京する話でもある。主演の担任(演:三浦翔平)が顔をやたら近づけたりいけないと思うが、主演は担任に恋をする。主演に恋する同級生の男(演:白濱亜嵐)が出てきたり、その男に恋をする主演のクラスメートの女子(山本舞香)とか、片思いがスライドしている。担任と女子高生の恋愛というのはどういうものか、社会的に認められることなのか、そうでないのか。主演は担任に告白するが、担任は主演の知人のおじに指摘されたのもあり、教師と生徒の関係を意識して断る。内心は担任のほうも良く思っていたのに、裏腹のことを言う。失恋した後で、同級生の男と鉢合わせし、涙でふられたという主演を、男子は抱き寄せ、俺を好きになればいいんだよというときに、クラスメートの女子がさらに鉢合わせする。「こんなにみんなが傷つくなら恋なんてするんじゃなかった」。両親の海外転勤から田舎からおじを頼って上京した主演だが、母親がいったん帰国して、主演も田舎に戻る。なぜか担任やクラスにそれが通知されておらず、担任は心配したり、クラスメートの男女はそれぞれ気がそぞろだ。ところがなんだか軽いのか爽やかなのか、クラスメートの男女が主演の田舎に二人で訪ねて来る。母親と主演と男女のクラスメートとの4人で食卓を囲み談笑する。このシチュエーションは普通はあり得ないような気もするが、それだけ淡い関係の段階だからか。というより、女友達が怒っているのは、誤解のようでもあるが、なんでも話してくれるかと思っていたのにということだった。「あたしだってね。あんたのことは大事なの」
友達じゃないと言ったこともある女友達だが、女友達も男子に告白してふられたと言う。主演の部屋で枕投げになって女子生徒は眠りにつく。男子生徒は縁側で座っていて、気づいた主演が、
「気持ちに応えられない」と言い、4人とも恋愛が成就しないが、男子生徒は、学校に帰ってこいよと言う。4人とも教師と生徒や友人関係としては仲が良かった。しかしこの抑制というか、恋愛関係を尋ねたところで合致しない場合に距離を置けるというところに精神性があり、この映画というか、原作は少女漫画だそうだが、そうした掟というか、倫理性をわきまえているようだ。それがないと乱交もののアダルトビデオへと向かっていってしまう。だが、女子生徒は引き下がったようだが、男子生徒は引き下がらず、担任の前で俺たち付き合ってるんでといい、後輩に慕われすぎているから離れさせるためなのか、手をつないで歩いてあげたりしたが、約束の時期を過ぎると手つなぎをやめる。だがそのお礼だという水族館のチケットをみせると、一緒に水族館に行く。水族館で主演のほうが海の生き物が好きなのを男子のほうが変だと思う場面は、『半分、青い。』で監獄のセットに
『半分、青い。』は、この映画のオマージュ作品だっけか、そういう面もあるのだろうか。男子生徒は水族館の帰りに、好きだと告白する。主演が「わたしは・・・」といいかけると、答えは今すぐじゃなくていいと、男子生徒は去る。翌日、主演は昨日の返事をすると男子生徒に会いに行き、担任と男子クラスメートとの一緒にいるときの感情が違うんだと説明して、また断る。と思ったら、反転して「私と付き合ってください」と言い、「すっげえ、無茶苦茶だなお前、小間がそういうやつだと知ってるよばーか。今まで以上に大切にする、よろしくお願いします」と、途中断られたと思い、わかったと諦めようとした男子生徒と付き合いが成立する。しかし、ここかがらいけない。二人きりになったときに担任が主演を抱き寄せようとしてしまう。でも主演には倫理性があった。担任をふりほどいて教室を出る。これは男の未練としては担任は人間味があったかも知れないが、悪教師になってしまいそうだった。そして校内運動会で、教師チームと生徒のチームのリレーでアンカーが、担任と男子生徒になるのだった。落ち葉のシーンや湖の色のシーンなど美しい風景の場面もあり、カメラワークで遠くがぼかされたりされている。そして、担任が事故に遭い、主演は心が曇り、それを察する男子生徒が早く担任のもとへいけと厳しい表情で諭す。主演は走る。担任のもとへ走る。一足違いで電車に遅れる。急いで病院にとんでいくと、そんなに重くない事故だった。クラスメートの女子がどうして主演を担任のもとに送ったと責めてくるが、ベンチに男子生徒と女子生徒が並び、男子生徒が女子生徒に気持ちを話す。病院では担任が主演に気持ちを話す。担任は好きだよと主演に伝え、主演も同様だという。と思ったら、「私も先生のことが好き。でした」と話す。でした?
「私が今大切にしたいと思う人は、先生じゃない」。「いいんだ。ちゃんと伝えられれば。自分の気持ちをちゃんと伝える。それが相手を大切にすることだと思うよ。それが出来なかったから、だからこんなダサいことになってんだよ」「それでも誰がなんと言おうとこれは初恋です。」頭を深く下げる。
担任は微笑む。そして一人ベンチでまだいる男子生徒に駆け寄る主演。なんとも揺れ動く話だが、
主演はなんだかわからないけど、男子生徒のことばかり考えるんだよ。と、努力しなくても男子生徒のほうを向いてる。好きだよ。いっぱい傷つけてごめん。今度は私が幸せにする。よろしくお願いします」と言う。そして高原の美しい風景の背景でキスシーンになるのだが、ここであえてこういう時代にしてしまうトリックには批判しておこうと思う。婚外性行為のどこまでを許容しようと、自由社会はしようとするのか。手をつなぐまでか、抱き合うまでか、キスシーンまで受容しようとしてこうした描き方をするのか。そして、コンドームやピルが売れたり、堕胎が年間20万件ちかく年々起きるのか。こういう映画などの作り方をするならば、10年後に同じカップルが子供と一緒にいるところまで映すならば、婚前行為も婚外行為も仕方ないとすればよいのか。キスは性行為でないなら、誰としてもかまわないのか。了承を得ないといけないのか。新城毅彦という監督はそこまで考えられずに、良いだろうと思って作っているのだろう。この二人がその後性行為を婚外交渉しながら別れてしまったとしてもこうした芸術家たちは責任を取らない。たしか『高校デビュー』なんかも同様だったと思う。他にもあった、キスシーンでハッピーエンドにみせる演出は、無責任ではないのか。『ただ、君を愛してる』なんかは片方を死なせることによりキスシーンを美化させるが、生きて別れたらやり逃げだからだろう。未来にはこうした現在の制作は、婚前交渉に疑問を呈していない映画業界の限界の時代とされるのではないか。昔のガラス越しのキスシーンの時代から迷走する一方である。離婚や不倫やシングルマザーなどが増大してしまった。