権利と平等の問題意識の高まりは、一定の間隔で繰り返される。そういう時勢の頃というのは、差別への抵抗や自由を求める闘いの作品が多くリリースされるものだ。
あるいは、その事柄への関心が作品への興味となって普段より多く目に留まるということかもしれない。
本作「バース・オブ・ネイション」は南北戦争以前のアメリカ南部・バージニアを舞台に、実際に起こったナット・ターナーの反乱を描く物語だ。
本作のベースと思われる「ナット・ターナーの告白」は公民権運動の高まった1960年代に出版され、やはり差別問題への社会的関心の高まる時期だった事が伺える。
本作の主人公・ナットは綿花畑での労働に従事する他、他の奴隷たちに聖書の内容を手ほどきする活動も行っていた。
胸の痣を「特別な存在の証」とみなされていたことや、読み書きが出来て知的水準が高かった事から「神の教えに従事する」事を使命としていた。
我々日本人にはあまりピンと来ないのだが、作中でも描かれる通り「奴隷制は神が認めている」もっと言うと「神から与えられた」制度だと、当時の南部白人は考えていた。
我々の感覚に置き換えるなら、黒人というのはスマートスピーカー付き作業ロボットのような存在だと信じていたのだ。
重労働の中で、もちろんロボットではない彼らが己の存在と折り合いをつけるためにも(白人の通念で読み解かれた)聖書は活躍した。映画の中でも神に与えられた役割を全うしなさい、と他ならぬナット自身が導いている。
主人の農場を離れ、他の白人が経営する農場で説教を行う事となったナットは、彼らの惨状に愕然とする。ナットの主人は(奴隷を疑問に思わない人物ではあるが)人道的で、理由もなく痛めつけられたり、衰弱したまま働かされる事などなかったからだ。
彼らから自分はどう見られているだろう?白人の手先?
彼らに届く言葉なんて、あるのだろうか。
ナットの不安と逡巡、内面の複雑な葛藤が素晴らしい演技によって余すことなく伝わってきた。
様々な出来事の積み重ねが、彼をより「神と神の民との橋渡し」という使命に駆り立てていく。彼を狂信的な反乱者と見るか?それは一側面として間違いとは言い切れない。
彼を神託を受けた殉教者と見るか?それもまた間違いではないだろう。
「ナット・ターナーの告白」では、彼の人物像がステレオタイプな黒人男性奴隷として描かれている(白人女性へのレイプ願望など)と批判を受けている。今作品ではその部分が監督によって注意深く取り除かれ、削ぎ落とされたナット像に何を見てどう考えるのか、受け手である我々に委ねられていると言えるのだから。
ナット・ターナーに何を見るのか?それは全て自分の感性と信念の鏡だ。私は支配層のご都合主義に「NO!!」を突きつけた気高い戦士であると考える。
後世の倫理感覚で描かれた奴隷解放映画なんかより、よほど見応えのある意欲作に心から賛辞を贈りたいと思う。