沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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極限状況での人の悩み、苦しみ、葛藤
この作品は、棄教したことの是非を問うものでも、キリスト教の善悪を考えるものでもなく、1人の宣教師が棄教にいたるまでのその悩み、悲しみ、苦しみ、葛藤を描いたものだと思います。 過酷なキリシタン弾圧のもと、自分が信仰を守ろうとすればするほど、さらにたくさんの信者が拷問を受けて処刑されていくのを目の当たりにして、ロドリゴ宣教師は、自分が殉教することよりもさらに激しい心の苦しみに襲われます。この状況下で尚神は自分に踏絵を踏むなと仰るのかー。 この映画を見た時、天正遣欧少年使節の4人の使節たちの帰国後の生涯を思い浮かべました。 千々石ミゲルは棄教し、原マルチノは禁教令を受けてマカオに移住してそこで亡くなり、そして中浦ジュリアンは禁教令が出たあとも布教を続けて最後は穴吊るしの刑で処刑されます。 時代は下って2007年に中浦ジュリアンはローマ法王によって福者の称号を授かりますが、しかし、過酷なキリシタン弾圧の中で、3人それぞれ悩みや苦しみや葛藤があったはずで、誰の生き方が正しかったとは決めつけられないでしょう。 正義や大義に殉じた人はもちろん立派ですが、現実に負けてしまった者の悩み、苦しみも忘れてはならないと思いました。
日本人が監督、
と言われても違和感ない出来上がりです。 歴史好きなんで、歴史物をみると色々違和感を多々感じますが、あんまり感じなかった。 ただ当時の人が( 特に幕府側)結構打算的な考え方で なおかつ外国語も話せて、現代人と変わらないじゃないかと思いましたが、そこを言ったら映画にならないので目をつぶった💦 まぁそういう人もいたらしいので、、 最後は、そうなんだろうなと思った。
キリスト教も信仰もわからない‼️でも、人心の機微に触れた様な気がする‼️❓
原作に忠実に作られて、なおかつ、かなりの高品質です、演技も、演出も素晴らしい。 キリスト教については原作からして、読者に丸投げですから、映画も同じです。 余談ですが、夢に良くキリストが出てきて、お前は私の生まれ変わりだと言うのです、それで、今まで右の頬を打たれたら、左を差し出して、人生がサンドバッグ状態です。 私が無神論なのは、信者が神の定義などを知らずに信じているからです、神を自分のために利用する人がいるからです。 神について考えると、堂々巡りですが、この映画では、当時の人々が何を考えていたのか、手にとる様に触れることができます。 何かに縋りたい気持ち、それは必要だと思います。 心は脆く、愛は強い、それだけでも、わかれば上出来でしょう。 神を否定できても、信じる人の気持ちは否定出来ない、そう思うのです。 こんな世の中だから、余計にそう感じるのかもしれません。 日本の景色も異様に綺麗だし、小松菜奈などの演技も異質に素晴らしい。 マーチンスコセツシ、少し見直しました。 キリスト教に関心ない方も是非。
神は今も沈黙しています
自分はキリスト教徒ではありません 正月には初詣に神社に行きます 結婚式は神前結婚でした 赤ん坊が産まれたら、近くの大きな神社にお宮参りして、お祓いをしてもらいました 子供が成長したら七五三で神社に行きました 両親もそうしたし、何の疑問もなく自分もそうしてきました とすると神道なのかも知れません とは言え、親の葬式は仏式でしたし、墓はお寺にあります お彼岸には墓参りに行きます 法事やお盆にはお寺からお坊さんに来て頂いてお経をあげてもらっています すると仏教徒? でも年末になればメリークリスマス!とかいってます つまり普通の日本人です キリスト教との接点は殆どありません 教会には観光目的でしか立ち寄ったこともないし、神父さんには直接会ったこともお話を聞いた事もありません その自分が体が震えるほど感動しました 日本の自然の音だけがする沈黙のエンドロールが終わったあとも動けずにいました そしてしばらくすると声をあげて泣いてしまっていました キリスト教徒でもないのになぜ? そこまで心が震えたのだろう? 終盤の葬式のシーン あのシーンはキリスト教徒が、それも司祭だった男が、異教徒の僧侶に異教の神が待つ異教の天国へ送られるシーンなのです キリスト教徒なら身の毛もよだつような、そう死後の永遠の魂を悪魔引き渡そうとしている儀式に見えるのではないでしょうか? 信じる神を否定されること 自己の精神が成り立っている根底の価値観を否定され、そこから完全に切り離されること それだけでなく、積極的に自らそれを否定する事を強制されること 死してもなお、自己の信じるものと違うことを強制されること それがどれほど残酷な、それまでのどんな拷問よりも恐ろしいことか そういうシーンだったように思えました そして井上筑前守や奉行所の面々の言説をつい最近聞いたようにも思いました それも何度も 猛烈な既視感に襲われました もちろん今の日本は信教の自由があります 自分の信教、思想信条を他者から強制されることはありません 信じるものを捨てないからといって、苛烈な迫害や、捕らわれて暴力的な拷問にさらされることなどありません 信じるものを捨て去ることを強制されることはありえないのです なのになぜ既視感が? それは香港です つい最近まで、あれほど民主化運動で盛り上がった香港は今では本作の舞台の島原や五島のようです 民主主義を信じる者は厳しく詮議され、迫害され転ばされているのです まるで同じです 中国政府の報道官がいう耳障りの良い言い方は、本作の劇中で井上筑前守や奉行所の面々の言うことと本当に似ているではありませんか 21世紀の中国大陸では香港だけでなく、全土で「キリシタン狩り」が行われているのです 本作と同じです 天安門の虐殺は島原の乱と同じです この物語は17世紀の日本の話ではないのです 21世紀、現代の隣の国で今日も起こっていることなのです こんなことが21世紀にあってよいのか 自分達と同時代に生きる人間に降りかかっていて良いのか なんと恐ろしい 身の震えることです その事に思い至ったとき、堰を切ったように激情が噴き出したのです 中国の人々のこと 香港のこと ウイグルの人々のこと よその国の話 日本人には関係が無い? 欧州のあるファストファッションの企業はウイグル人の犠牲の上になる原料の使用を止めると表明したところ、中国全土の数百もの全店舗をいきなり閉店させられました 中国で展開する日本の企業にも、これをどう考えるのかとメディアから問われました 中国の対応に震え上がったある日本企業の社長は、いままでどおり使うと言いました それも複数の企業の社長が 棄教した司祭と同じです 踏み絵を踏んだのです 知らない振りをして商売と政治は別と割り切る それでいいのかも知れません 神は沈黙するのみです あるのは自己の心の中にあるそれぞれの神に、やましいことはないのか? 恥ずかしいことはないのか? 軽蔑されることはないのか? それだけです その企業は、いやあなたは キチジロウとどこが違うのか? このようなことを書いている自分もまたキチジロウではないのか? それを本作は鋭く問い、追及してきます 日本人が本当に信じるところはなになのか? いや、自分が、あなたが信じるところはなになのか? 信教と思想信条の自由と民主主義 それは文明社会が歴史を経て確立した普遍的な価値なのではないのか? 中国は沼地なのか? 中国が沼地なら、日本もいつ沼地になるかも知れないではないか 神は今も沈黙しています 自然の音だけが聞こえるのみなのです 香港で民主主義を棄てろと強制された人の耳には香港の自然の音がするのみです 自然の音 それはその土地の風土の持つ音 香港の風土 中国の風土 ウイグルの風土 そして日本の風土 民主主義は根付かないのか なぜなのか? そのような思いが一度に噴き出たのです だから号泣したのです 恐るべき傑作です 今こそ日本人が観るべき映画です 評価するメーターが振り切れる傑作です
タケシのお笑いウルトラクイズ
スコセッシは宗教映画になると途端につまらぬ。 周りが我慢して何本かに一本は撮らせている感。 貴重な残り打席はゴリゴリのマフィアものを。 塚本晋也熱演の拷問被虐もタケシのお笑いウルトラクイズの上島竜兵の魅せ芸に劣る。
重いテーマのだが、きちんとできている
長崎に住んだ時期があるので、隠れキリシタンの歴史は至る所で見聞した。市内はもとより、雲仙・島原・平戸... そんな見聞した歴史が、まるで現実のようにスクリーンに表れる。日本の情景や文化・生活が丁寧に表現されている。聞いたようなお国訛りも懐かしい。日本の研究・日本人スタッフの充実を感じ、外国映画らしい違和感はない。日本人の役者たちもしっかりと演じていたと思う。スコセッシのこの作品へのこだわりはキリスト教への信仰心からか? さて、雑な仏教徒であり、キリストの教えに対する理解が甘いなりに感じたこと。自分はキチジローへの同情と共感が強かったかな。信念を曲げるのは教えに反することだとしても、生きるために外見はとりなし、だけど精神的には何も裏切っていない、と思いたい。それは心理への背信行為で許されざる行為かもしれないが、誰がそれを責める。棄教した神父たちも同じでないか? 果たして、信じる者は救われるのか? 戒めている自殺と変わらない。 絶対の神に対する疑念との葛藤に悩み苦しむ人々の姿が辛い。 きちんと原作読んでみたい。
マーチン・スコセッシ版と篠田正浩版を比較して
結論としては、 スコセッシ版は遠藤周作未読の人と アメリカ人のためのダイジェスト編、 篠田版は遠藤周作の日本人愛読者のための 応用編、 ということになるだろうか。 宣教師と日本人とのコミュニケーション として、 篠田版では、宣教師がある程度、 日本語を話せる設定、 スコセッシ版ではかなりの日本人が ポルトガル語(映画では便宜的に英語)を 話せる設定で、 さすがに後者はないだろうと思うが、 これは興行上の理由だと理解しつつも、 日本人の私には不自然に感じてしまう。 スコセッシは原作を忠実に踏襲し、 初めてこの物語に触れる観客には 分かり易い。 一方、 篠田版ではストーリーの運びについては、 大胆なカットと改変で、 原作のストーリーそのままの踏襲は避けた。 遠藤周作愛読者は、 キチジローはユダでもあるが、 「死海のほとり」の“ねずみ”との符合性 なども含めて、他の作品から映像の行間を 想像力で埋めながら観ていくだろう。 映像描写も静と動のように異なる。 例えば、住民3人の十字架刑の場面のように、 海中に静かに没してゆく篠田版に対し、 スコセッシは荒波に飲まれるダイナミックな 映像をあえて狙っているように感じる。 これは多分に両国民の感性や映画文化・歴史の違いがもたらす結果なのだろうか。 両作品の基本的なストーリーそのものに 大きな違いはないが、 そもそも、この作品の映像化においては、 どんな検討をもってしても 遠藤周作の独特なキリスト観の原作を 正確に描くことは難しいだろう。 ならば 分かり易い原作の要約物として描くか、 それでも映画としての独自色を目指すか、 となり、 前者がスコセッシ版であり、 後者が篠田版なのだろう。 スコセッシ版は、原作の基本的なストーリーを忠実に再現することに徹した結果、 映画は時に、原作とは異なる別の価値を 創造するという意味では 物足りなくなったように感じる。 多分に、スコセッシは原作を尊重した ということよりも、 遠藤周作の独特な母性的同伴キリスト像 を内包出来ず、 ストーリーを追うばかりになってしまった のではないか。 私は総じて”映画として”の完成度は 篠田版の方が数段上かと思うが、 遠藤作品を未読の日本人や アメリカの方々には、 この作品は意味があるのかも、と思った。
問題の根源
昔の日本で実際にあった「キリシタン狩り」や「踏み絵」ですが、その歴史に挑んだ良作。 信仰心とは命より大切なものなのか、その答えは無宗教の僕には難しくてわかりませんが、宗教に限らず今でも排他的な思考がイジメや差別や偏見や迫害を生んでいる根源なのだと思います。 ※どんなに貧しい格好をしていても小松菜奈さんの美しいオーラが消えていないことにビックリしました。
手を合わせます
大著ですが、中学の頃 遠藤周作(クリスチャン作家)の原作を読みました。 読みながら歯をくいしばって泣きました。 帰ろうや、帰ろうや、デウスの宮に帰ろうや・・ 友人は恐ろしくなって拷問の所で読むのは止めてしまったと言っていました。 五島の天草四郎の記念館にも行ったことがあります。 殺されれば殺されるほど信者が興されたらしい。 「望みはもはや天国しかない・・」 そこまで追い詰められていた貧農と彼らに加えられた圧政の、壮絶な昔を想い、草の上に膝まづいて写真を撮りました。
1点だけ気になったが興味深い作品
キリスト宣教者対反キリスト日本大名両者ともの尊厳を守って描いていて素晴らしかった。 日本なのに、日本の映画にはない絵の綺麗さ。音や影の使い方が美しかった。 なにを伝えたい映画だったか。人を救うのは神か人か?人々を幸せにするための教えであるはずが人々を苦しめる矛盾か?受け取れるメッセージは他にも沢山あって色々考えさせられる。 キリストの誘惑や受難を想起させ、神の沈黙のなか本人だけでなく自分のせいで(神の沈黙のせいで?)苦しめられている周りの人々を見るのはキリストよりも苦痛を与えられているのではとすら思った。 ただ、気になったのは宣教者たちは「どうして日本の偉い人はそこまでキリスト教を受け入れたくないのか」を考えないのは自然ではない。原作でも触れられていないのだろうか。 日本はキリスト教が根付かないそういう土地なのだ。で済む話だろうか。事情を知らなければ当然拒絶され、人々に安易に救いを求める矛先として扱われるだけだろうと容易に想像できる。 実際、キリスト教が広まったのは祈るだけで救われる天国に行けると聞いた貧民層たちが大半だったとは思うが、宣教者たちはそのように望んでいなかったはず。映画の中でもフェレイラが嫌味を漏らしていた。 そこがないのでなんだか主人公の感情にはのめり込めなかったが メッセージ性のある作品が好みなので、全体的には素晴らしく楽しめた映画だった。
踏み絵とかさせてた時代のお奉行さんがこんなビジネスライクな考え方だ...
踏み絵とかさせてた時代のお奉行さんがこんなビジネスライクな考え方だったとはちょっと思えないけど、キリスト教が日本には不向きな宗教であるという話には感覚的に頷けるものがある。それに、信仰の自由というものはあるんだけど、およそ世の中の紛争って宗教から端を発していることを考えれば、キリスト教が広がっていくのを妨害したい意図も分からなくはないなと思う。
マーティン・スコセッシ監督の致命的な過り。
神は存在しているのか? もし存在しているのだとして、これだけ祈り続けても、なぜ一言も応えてくれないのか? これが「沈黙」という作品のメインテーマであり、タイトルの由来でもあるはずです。 しかし、この作品の中で、ただ一度だけ、神は声を出し、赦しを与えています。 この最大のテーマについて、どうやら監督は見落としてしまっていたようです。 監督が気がついていないのだから、観衆も気がつくはずがありません。 こうして、この作品は、単なる異文化との衝突をグロテスクに描くだけの作品に堕してしまったのでした。 遠藤周作先生も草葉の蔭で泣いておられることでしょう。 ロドリゴ司祭が棄教する、まさに瞬間、初めて神は声を発し、赦しを与えていたのですが。 だからこそ「沈黙」というタイトルだったのですが。 名監督をしても気がつかなかったということが、残念でなりません。
「日本ってこんな国」を見つめる
・オープニング、何かウァッって出てくるんじゃないかと目細めて身構えたけどなんもなかった。 ・このオープニング演出すごい。 ・(極力)洗脳しない映画。 ・たとえば音楽がほとんどない。 ・事実をフラットなテンションで描いて、お前はどう思う?と聞いてくる映画。 ・決して時代遅れではないテーマ。映画の時代の日本の姿は、現代日本にもがっつりリンクしている。 ・だから今それを映画で描く事に意味がある ・こんなん続けて一体何になるんだろう?と思いながら毎日頑張って働いている人がたくさんいるはず ・映画の中の「本当に神はいるのか...?」という葛藤は、現代の働く人にとって共感できるもの ・「自分は間違っていない」という確信だけでなく、「与えられた環境で自分はなにができるのか」という気づきが芽生える瞬間が描かれている ・日本には八百万(やおよろず)の神を崇める文化があるように、日本人は特に、おのおのが信じたいと思うものを信じる気持ちが強い。 ・映画の中で、日本のキリスト教徒が崇めていたのはキリストではなく、太陽だったというのは非常に興味深い(すごい独自アレンジw) ・キャスティングがおもしろい。 ・クワイガンジン役の俳優さん出てて、着物姿がしっくりくる。 ・日本の怖さと美しさが描かれてる ・普段当たり前になっていることがポルトガル人の視点から見ることで、日本を客観視できる ・自分の信じるものが日本的でないときには、黙って信じていることしかできない ・「黙ってでも信じていればいい」 ・そして心から信じたものは、他人からどんなことをされても奪われることはない ・ポピュラーでないものは用無し、性に合わないものは徹底排除、という風潮がある日本は限りなく社会主義にちかい資本主義なのかもしれない。 ・小保方さんや佐村河内さんの騒動のときの異様な熱の高ぶりをみると、今の日本にもそういう気質はある ・言いたいこと言えて、なんでも好きなものを信じる事ができる現代が、いかに自由であるかがわかる。(戦後アメリカが与えた恩恵といえるかもしれない) ・現代日本のキリスト教布教率をみれば、日本文化の一貫性を感じる ・映画の中でいうところの、日本という国の土は、昔から変わってない ・性に合わないものを徹底的に排除する日本の文化は今も健在 ・しかし、それは日本独自の才能でもあり魅力でもある ・アジアから流れてきた文化を、日本的な感性と照らし合わせて、自分に合わないものを徹底的に排除(洗練)させ、ブラッシュアップして、独自の文化を築き上げてきた ・ざっくりいえばシンプルにアレンジする才能。 ・日本は、そんな魅力がある国という解釈もできる。 ・原作者の遠藤周作は日本になにかを諦めていたんだろうか?
奇跡は起こらない
遠藤周作の苦悩を一心に表すこれでもか、という映画 これはクリスチャンの苦悩ではない遠藤周作の苦悩だ 高校生の時からこの本や他の遠藤周作の作品を読んで あたしなりに言って仕舞えば、無駄な悩みだな…と スコセッシ監督がここまで表現してくれたら本望だろう あたしもなんちゃってクリスチャンなので 真理は常に神にあり、と祈りながら考えるけど 人間の罪のために十字架にかかったイエス 「拷問」というのがこの世にあった、ということが苦しい ない時代に生まれて良かった、それだけは幸せ 天真爛漫に神の愛だけを感じる人生だ
深い沈黙
沈黙 原作は読んだことがなかったのですが、海外の作品としてできるのかという不安もありましたが、 素晴らしかった。 とても海外で作られたとは思えない日本の空気感に圧倒されました。 長崎の街の様子などは日本映画と見間違うほどです。 仏教国日本にキリスト教が入り、キリシタンが増えたものの、幕府によってそれが禁止され、人々は密かに信仰を続ける。 それは本当に、キリスト教を信仰していると言えるのか。 自分自身のキリスト教の信仰は本当に正しいのか。 とても重く、辛く、難しい話でした。 アンドリュー・ガーフィールドさん、アダム・ドライバーさんはじめ、俳優陣の演技が印象的でした。 きっと日本へやって来た神父たちの恐怖はとてつもないものだったんだろうと思います。 日本の大物俳優も大勢出演しているのですが、辿々しい英語で話す姿は新鮮です。 幕府が行った迫害の数々、それによって苦しみながらもパライソへ行けることを信じ、亡くなっていった信徒、神父たちの映像からは目を背けたくなります。 タイトル通り最初から最後までとても静かな映画で、特にエンディングは自然の音と静けさが美しいです。 原作を読んでからもう一度観てみたいと強く思います。
思ったより面白かった
日本の描き方に全く違和感を覚えなかったところがまず凄い。 日本家屋、衣装、日本人訛りの英語が実に良かった。 それから海岸での磔刑シーン。ザブーンって波が打ち寄せてくるシーン、どうやって撮ったのかな。壮絶で本当に死ぬかと思った。 さて。 ストイックならそれでいいのか?それは単純と言えば単純だ。イエス・キリストが示した愛とは抽象的な理念ではなく、具体的行動であるという遠藤周作の信仰理解。 つまり、英雄的な殉教よりも、苦悩しながらなんとか正しいと思うことを探すことこそが、むしろキリスト教の精神に近いと言える。 善良な周囲の人間が拷問を受け次々に殺されていくときに何をするのが「正しい」のか、という選択を迫られたとき、フェレイラーが力強く言う。 「もしキリストがここにいたら、たしかにキリストは、彼等のために、転んだだろう」。 十字架の上で無残な姿をさらし続けるイエスから目をそむけず、その無残な姿を深く心にとどめよ、神はそういう無残な姿をさらすイエスをこそ肯定しているのだ。 ロドリゴとキチジローはどちらも救われるべきというスコセッシの人間観が見えた気がした。 神は決して沈黙していない。 ちなみに私自身は「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたら、「私はそのような質問に対する答えをもたない形で感謝と祈りの日々を送っています」と答える。
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