ブレードランナー 2049のレビュー・感想・評価
全611件中、441~460件目を表示
長い。果てしなく長い。無駄なシーンが盛りだくさん。好きな人にはたま...
長い。果てしなく長い。無駄なシーンが盛りだくさん。好きな人にはたまらないだろうが、ひとつの映画としてはどうだろうか?
映像はキレイだった。前作を丁寧になぞった感じ。
わかりづらい点が多数あるので、観終わってからいろいろ語りたくなる映画。その点では良い。
よくなかった
レプリカントが老化したり妊娠する機能を備えていたとは、後付けとは言え労働力として製造されていたことを考えると受け入れがたい。前作のレプリカントは4年の寿命があるからこそ、それに争うために命の炎をバチバチと火花を立てて燃やしていたと思う。デッカードがレプリカントであったとしても自分は人間であると認識しているからこそモチベーションを維持していたと思うのだが、今作のKはレプリカントとして生活して働いて食ってバッチャールな嫁を愛していた。果たして成立するだろうか。虚しくならないだろうか。人間性を無視しているように感じる。
何よりムカついたのは、デッカードが仕組まれてレイチェルを好きになると言っていたことだ。それは事実かどうかは不明だが、事実だとしたら意図が不明だ。そんな遠回りして成立するかどうか分からない恋愛を仕込む必要があるか? 事実でないとしたら、なんのためにそんな発言をしたのか不明。動揺させたかったのか? だとしたらそれも何のためか意味が分からない。デッカードとレイチェルの出会いは、デッカードは自分が冴えないどん詰まり人生を送る人間として美女に魅了され、レイチェルは自分が人間かどうか不安に苛まれる存在としてデッカードに魅了された、そんなお互いの不安や不満を埋めあわせるかのように惹かれ合った美しいものを、非常に安易に冒涜していると思って腹がたった。
後付けでなんでもいじっていいかと思ったら大間違いだと強く言いたい。ひどいと思う。見ている者を煙に巻けばいいと思っているような二転三転するストーリーも別に大して腑に落ちなくてイライラする。
ポリススピナーの危ういゆっくり移動する感じがなく、ビュンビュン自由自在に飛んでミサイルまで撃つ高機能戦闘機になっていたのも、違うと感じた。ドローンを搭載しているのも時流におもねり過ぎている感じがする。
バーチャルな嫁はすごくよかった。あんな嫁欲しい。
1回見に行って1時間くらいで寝てしまったため出て、2回目はしっかりコンディションを整えて見に行ったにも関わらずけっこうウトウトした。眠くさせて出来の悪さを誤魔化そうとしてるのではないか。
前作が好きなら楽しめる
メッセージが面白いと感じたら、この作品も面白いのかもしれません。
盛り上がりとかないです。淡々と進行します。
私は、睡魔との戦いでした。
映像は綺麗です。
しかし、これ要るか?と感じるシーンが多かったです。
一番残念なのは、ラストです。
デッカードとガラスケースの女性の関係が、途中で予想できたので、ただ何やってんだ。ああやっぱり。という感じでになってしまいました。
あと、レイチェルのシーン。あれだけのために、出す必要があったのか?
デッカードの扱いも雑です。海で溺れそうになるシーン。何やってんだという感じでした。
俳優が良くて、映像が良くても脚本がつまらないと、こうなるんだなという感じでした。
可哀想なハリソン
メッセージ同様、ビルヌーブの映像の作り方は変わらず美しく、多くの未来像が提示されている。2019の様式を引き継ぎながらも、独自の未来世界を構築している。2019の30年後と現世界の32年後を混ぜ合わせることが求められるが、そこはよく納められているように思う。
ストーリーは2019よりも丁寧で長い。行間を読む手間は省けるが、奥行きはない。2019から2049に至る3つのストーリーを先出ししたのは過剰サービスかも知れない。
印象的だったのは、Kの記憶が事実であるか確認するシーン。呼び起こしている記憶映像を使わず、2人の演技だけで見せたのは良かった。ストーリー上でも要のシーン。
メッセージの時にも気になったのは、その映像美に対して、テーマ性が強く伝わってこない点。2019はレプリカントを通して差別意識といった問題点を省みながら、死生観という普遍的なテーマを強烈に意識させた。レプリカントが意識を持ち始めて生存を希求するのは今回も変わらず、従順に設計してもやはり同じでしたという結果は、この手の研究開発の限界を暗示しているのだろうか。酷い目にあったにも関わらず、性懲りもなくレプリカントに依存しようとする人間の愚かさを述べているのだろうか?
今回は、レプリカントが明確に主体になっており、レプリカントの創世記のようで、人間の葛藤は見えてこない。レプリカントが真に希求するものは何だったのか。種の保存と利他性に生き方を見出すものも、種としての進化を極める者もいたが、Kの動機はよく見えてこない。誰のためだろうか?義心なのかな。分かりにくい。対比的であるべきジョイやラブのキャラクターの持つ思想が少し薄いので余計に不鮮明であった。
何よりも終盤に、オマージュが過ぎたのか、なす術がないハリソン・フォードの姿を再度見せられると、「そこをもう一回やるか?」と不謹慎だが、笑いを堪えるのに苦しかった。お約束の罰ゲームじゃあるまいに、肝心のラストシーンまで引きずってしまった。
ただただ、意味なく長い作品。1時間50分台の内容。フリー鑑賞できる...
ただただ、意味なく長い作品。1時間50分台の内容。フリー鑑賞できる3部作を本作に入れて2時間半なら、ソコソコの評価になったのでは。世界観と音楽が良かっただけに残念な感じです。
大名作
今作を十分に咀嚼するには前作を深く理解しているのが前提だ。
若年層に82年のブレランが受け入れられるかは私には分からないが、近年のSF作品と比較しても、やはりブレランは映画史上に燦然と輝く名作であるのは間違いない。
そんな伝説的作品の続編と聞いて、楽しみよりも不安が先行したのが正直なところ。あれで終わってるから美しいのに、と。
様々な心情入り混じった状態でみた今作は…
前作と肩を並べられる大傑作であった。
いいとか悪いとか単純な価値観では到底計れない。
とにかく物凄いモノを観てしまった。
生きててよかった。
傑作?駄作?
映像と音楽で荘厳さを出して誤魔化されますが、内容は退屈で話がスローテンポで進んで行くので睡魔と戦いながら観賞。
自分にはどう評価してよいのか解りませんが万人に好まれる作品でないのは確かでは。
Kの義務とは
80年代作風の脚本が優れていた映画の時代に戻れた。
前作同様ハッピーエンドではない今作。
まずこれが個人的に条件だった。
主人公は物語の激流と自分の植え付けられた記憶に翻弄されるK。
自分は何者かと悩む姿は切なく、ジョイというホログラムの恋人を愛し、AIであるがゆえに実体のない恋人を抱く姿は哀しく、美しい。
愚直に突き進む姿は、力強く、脆い。
ライアン ゴズリング、アナ デ アルマス2人とも影のある雰囲気、憂いを感じる表情をまとい、それでも美しかった。
ドゥニ ヴィルヌーヴ、リドリー スコット、2人のアート系の映像作家は期待を裏切らなかった。地続きで映像を進化させ、混沌とした街は変わらず、非常なマイナーな、細かい部分の進化という、この世界のリアリティがある。
悪玉を倒して、平和になるなんてご都合の良い展開ではなく、ただ時間を追う毎に傷ついていく。あまりに理不尽。
前作、今作とも、敵を倒して笑顔なんてものはなし。撃った後の顔は悲しみそのもの。
自分の義務は果たしたと倒れるKは最期に何を思ったのか。
前作ブレードランナーは1番ではないのだが、1番見ている作品かもしれない。何気にディスクを手にし、何度も世界に浸っている。
今作もそうなるかもしれない。
もう一度見に行くことにしよう。
正真正銘の続編!
35年も経っての続編となると期待と不安の半々。
最低限の条件となるハリソンフォードのデッカートの復活。
これだけでも、期待してしまうが…
当の監督は、自分では撮らないし。期待と不安が入り交じる作品。
でも、これだけは、言っときます。安心してください!
正真正銘の続編ですよ。
色々な前作のモヤモヤを一気に解決来ていきますし、新たな謎もあり惹き付けられっぱなし。
世界観も素晴らしいとしか言いようがない。
ネタバレは、しません。
是非、IMaxでみてほしい映画です!
レプリカントとは、、
前作は2019年のLos Angeles。そのLos Angelesの地を来年には初めて踏む予定。
冒頭の画像を最初に見たのは、映画館では無くLD時代のパッケージ・メディア。
LC>DVD>BDそして4K UHDも買ってしまった。
UHDの方が、タイレル社の建物がはっきり見えた。
だけど、疑問が残った。
ネクサス6型のアンドロイドは血液が黒。
今回の2049は主人公のKの傷口から出る血液が人間と同じ赤。
ここまで、レプリカントは改良されたのか? と。
恐らくデッカートは、前作で傷口から赤い血液を出していた事から、レプリカントではなく人間だと思ってしまう。
あとレイチェル、、良くもあそこまで35年前の顔へ精巧にCG加工が出来るんだな、と。実際にはショーン・ヤングが頭部のみ演技しておりデジタル加工したそうだが。
でも、映画上死亡している設定になっているが、35年後の顔の方が説得力があったはず。前作でレイチェルは特別なレプリカントとなっていたから。
ハリソン・フォード氏は『アディラン100年目の恋(この映画も中半部から登場する。)』の出演時より老化している様に感じた。
流石に老体にむち打って頑張っているとは思うけど。。
金字塔再び!
まず、この映画は主人公Kに感情移入出来るかどうかで意見が分かれると思う。
ウチはまるで1時間半あったっけ? という位の感覚でのめり込んだ。
多くは言葉に出来ない。そんな映画は多くない。「2001:宇宙の旅」や「永遠のこどもたち」のように、観終わっても、また寝て起きても、ずっと音楽も映像もテーマも頭から離れず、考えても言葉に出来ず。
ただ一言「素晴らしい! 長生きして良かった! 」
2050年問題のようで、その時人はどうするのか? の後ろにある「命とは? 魂とは? 感情とは? 」と言う根源と記憶の曖昧さとリアリティの欠如への恐怖実感(ウチは離人症をこじらせて解離性障害で治療中。記憶も生きている世界もリアリティがなく、現実なのか虚構なのかが曖昧な障害だけに)。
最後ウチはただただ涙が止まらず、観客が全員出た後も中々席を立てなかった。
ラストの驚愕部分は途中途中の伏線ですぐ分かるし、内容も難解で映像美ばかりに目が行きがちだけど、そこじゃない! 原作と比べたり、アクションのどうこうでもない! 映画は原作と別物であり、アクションはシークエンスの一つでしかない!
その底を観て味わって欲しい。
これは何度観ても新たな発見をする金字塔登録作になった。
やや、終盤が弱め!?
ポイントはややひいきめの結果かもしれない。
それでも、生理的に響いてくるような映像美と形容する。流石であった。
終盤のストーリーがやや未消化な感じ。
これは、ヴィルヌーブの問題ではなく、リドリーの問題ではないかと考えている。
次の「砂の惑星」
またシド・ミードを起用するのだろう。
大いに期待したい。
前作世代は見るべき作品
アメリカで大コケだとかクチコミの一部には低い評価があるとかで期待から躊躇に変ったけれど、やっぱり前作をリアルタイムで見ている世代としては、例えハズレでも “見るべき作品” と位置づけて楽しみにしての鑑賞。
結果、いまいちわからない部分があったりで、のめり込むまでは行かないにしても「見て良かった!大満足!」な作品でした。もちろん前作もよくわからない部分があったりと絶賛はしていないのだけれど、数年毎に複数回見ている作品であり一種の中毒性があることは否めず、そこには妙な思い入れが存在。そんな理由も後押しして、前述したように「見て良かった!大満足!」という感想に。
前作から続く退廃的世界観、今作で指揮を執ったヴィルヌーブ監督の生み出すビジュアルに身を置いての163分はあっという間の至福のひとときでした。また見たい作品です。
ロマン メラン
一部にマニアがいる程のカルトムービーの続編。自分もマニア程ではないが、あの世界観に嵌った口である。強烈なディストピア感、親切心など微塵も感じられないストーリーの難解さ、哲学、宗教、諦観が散りばめられているプロット・・・ 決して未来は明るくなく、難しい難問を抱えながらそれでも未だ地球は破滅していない或る意味救いようのない世界を生きざるを得ない厭世観を漂わせているのだろうと想像に難くない。
で、今回の続編だが、監督はドュニ・ビリヌーヴ、主演はライアン・ゴズリングという、今引っ張りだこの両人がどうあの世界観を引き継ぐのか、それとも全く新しい世界へ誘うのか、そこそこファンの自分としては期待不安半々で鑑賞してみた。
今回も音楽はヴァンゲリスなのかは確認していないが、あの壮麗で重厚なシンセ音は健在であった。それに引っ張られるようにストーリーは進むのだが、何となく感じる概視感・・・オチも含めて、どこかで観たことがあるような展開がハリウッド仕立ての高額な撮影で着飾れてはいるが、そこまで感動出来ずにいた自分が残念ながらいる。結論から言うと、自分でも今作品の評価はわからないというしかない。駄作ではないのだろうが、色々フィルターが掛かってしまっている為、素直に気持ちを持って行けないのが現状だ。
ライアン・ゴズリングのスケールの小ささが原因なのか、ストーリーのプロットがもっと大袈裟に演出出来なかったことが原因か(確かに人間が作った人造人間が自ら種を拡げるという方向は斬新なので膨らまし方?)、映像が大変綺麗になったせいか、雑多な世界観が却って表現不足になってしまっているのではないだろうかとか、素晴らしいところと期待はずれだったところの差がメーターを振り切る位の離れ様で、益々総することができずチグハグな気持ちがずっと続いてしまっている。確かに、原作のいうところの『電気羊』達は、新しい夢の欠片を観た奇跡に遭遇するのだが、それよりも自分の経験だと思っていた夢が、持ち上げられるだけ持ち上げられて勝手に落とされるガッカリ感に囚われる気持ちの方が共感しやすいのは、そこまで自分が高邁じゃないからだろう。
きちんと前作の踏襲というか、ギミックの断片を引き継いでいる(一角獣から木で作ったおもちゃ、ピアノ、前作でデッカードに依頼する男が折る折り紙、そしてレイチェルのコピー等々)ので、マニアック的にも楽しめるのは認めるのだが、では作品単体で観た場合、心に響く何かを訴えかけたのかといえば、答えが導けない。それに前回程難解ではなく、きちんと伏線回収はされているのは嬉しくもあり、しかし物足りなさも感じてしまうのは、皮肉か?w
これは勝手な予想だが、そこはかと感じる、次回作への伏線の匂いを嗅いでしまったのだが、どうなのだろうか?この手の作品はあまり続かない方が伝説化していいのだけどね。
事前に公式HPで予習した方が楽しめます!
ショートフィルム3本見てからサクッと観に行ってきました。35年前⁉️のオリジナルをリアルタイムで観ている世代ですが、映画の中でも30年経っていてその間に何があったのか予習できてスンナリ冒頭からブレードランナーの世界に浸れました。3時間近い大作で正直最初は観るのにびびってたんですが(笑)皆さんのレビューどおりの内容で大満足。特に音圧高めなので、映画館で絶対見た方良いと思いましたよ^_^
ディストピアアレルギー
SF映画の金字塔、待望の続編
ということで、35年ぶりの映画館には明らかに父親世代の観客ばかりで若者はほとんど見かけなかった
かくいう自分も前作公開時は生まれてもおらず、映画を見たのは小学生ぐらいだっただろうか
ほとんど記憶もない
そんな状態で鑑賞
冒頭のテロップでなんとなくストーリーは追えるようになったが、しっかり復習していればもっと楽しめたのだろうか
終始湿っぽい重く陰鬱な映像に抵抗を感じ
音楽らしい音楽もなく重苦しい不協和音ともとれるSE音に不快感を感じてしまった
そのあたり、「メッセージ」の監督らしさ故なんだろうか…
続編が描く都市部のイメージも前作から引き続いてのディストピア
退廃的なイメージの中に散見される日本らしさを観るとやはり違和感
この映画がなければ(さらには電気羊の原作が無ければ)、描かれる未来はどう変わっていたのか、そんなことを感じた
ストーリーはと言えば、何度も振り回されて予想を裏切るもので後味はいいやら悪いやら…
レプリカントものを見る度に複雑な感情を抱かせるが、この末路も退廃的な未来イメージ同様、定番になってしまっているということか?
結論、この手の映画は自分にフィットしないようだ。
レプリカントに電気羊の夢を見る権利はない
本作を観る前に復習として前作『ブレードランナー』を観た。そして本作でレイチェルの遺骨が見つかった時点でそれ以降の展開はほぼ読めた。
フィリップ・K・ディックの原作小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と映画『ブレードランナー』は全く方向性の違う作品である。
原作、映画ともにそれぞれの良さがあるが、本作は間違いなく映画『ブレードランナー』の続編である。
原作のリック・デッカードには妻イーランがいて、最後にはアンドロイドを殺すバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)の仕事にも飽き飽きしてしまうからだ。
本作はデッカードとレプリカントのレイチェルの間に子どもが生まれる設定になっている。
裏設定としてレイチェルは生殖機能のないネクサス6型とは違い、生殖機能があるのだとか。
しかし前作の時点でレイチェルが他のネクサス6型とどこが特別なのか明示されてはおらず、本作を展開するための後付けの設定のように思える。
またデッカードの夢の中にユニコーンが登場したり、2人が旅立つシーンでデッカードが折り紙のユニコーンを見つけたりするシーンから、デッカードもレプリカントである含みを持たせているらしいが、リドリー・スコット自身の考えも二転三転して定まっていない。
レイチェルに生殖機能があるなら、デッカードは人間になるのではないか?
むしろデッカードがレプリカントなら彼も生殖機能がある何か特別なレプリカントにしなくてはいけなくなってしまう。
前作で人間とレプリンカントの奇跡の愛を描き、その象徴としてユニコーンを登場させているのだから、その奇跡の結晶が子どもということで前作からの辻褄が合う。
ライアン・ゴズリング演じるKが植え付けられた偽の記憶から木馬を発見するが、この馬は前作の奇跡の象徴であるユニコーンを連想させる。
ただ角が折れた存在が馬と捉えるなら奇跡はもはや期待できない意味を込めているのだろうか?
なお本作と前作『ブレードランナー』の30年の空白を埋める3つの映像作品がYouTubeで観られる。
『カウボーイビバップ』で有名な渡辺信一郎が監督したアニメ作品『ブラックアウト2022』、本作でも登場したジャレッド・レト扮するウォレスが主役となる『2036 ネクサス・ドーン』、Kが冒頭で処分するレプリカント、サッパー・モートンが主役の『2048 ノーウェア・トゥ・ラン』である。後者2作品はともにルーク・スコットが監督している。
原作のデッカードの生きるLAは、核戦争後の絶えず放射性降下物が降り積もり動物が殆ど絶滅した死の世界であるが、今回『ブラックアウト2022』においてレプリカントが電磁パルステロで大停電を引き起こすのを描いたことで原作の世界に近付けている。
このテロによって食糧難が起き、レプリカントの製造も禁止されたことになっており、その食料難を遺伝子組み換え作物の大量生産に成功して世界を救ったウォレスが実績を背景にレプリカント製造を解禁させる。
その一端を伺えるのが『2036 ネクサス・ドーン』であり、『2048 ノーウェア・トゥ・ラン』はモートンがLA警察から処分対象になった理由を明かす前日潭である。
本作は原作や前作映画へのオマージュが見受けられる作品でもある。
前作でデッカードの相棒だったガフをKが訪ねる際、彼が電気羊の単語を口にし、折り紙で羊を折るのも、原作のタイトルや本編中の電気羊へのオマージュであり、折り紙もユニコーンの折り紙を連想させる前作へのオマージュに当たるだろう。
LA警察に帰還したKが作業する際に日本語が直接使用されるところは屋台の日本人親父とデッカードの会話へのオマージュであり、コカコーラや「強力わかもと」の電子看板は前作そのままである。
本作の始まりで目のアップと近未来の都市が交互に映し出される映像も前作の完全な焼き直しである。
またレプリカントのブレードランナーであるKという存在そのものが原作へのオマージュである。
「K」という名前自体が原作者フィリップ・K・ディックを連想させるし、原作にはフィル・レッシュというアンドロイドを処分するアンドロイドのバウンティ・ハンターが登場する。
しかもレッシュは偽の記憶を埋め込まれて自分を人間だと思い込んでいる。
原作でもデッカードとレッシュとは共同でアンドロイドを追いつめているので、本作のデッカードとKの協力関係に通じるものがある。
原作のレッシュは一般社会ではアンドロイドと認識されていないこともあってその後の消息がわからないが、Kは彼の化身にも見える。
原作のホバー・カーが前作映画では十分に徹底できず単なる近未来的な車でしかなかったが、本作の縦横無尽に空を駆け巡る「スピナー」は、ディックの意図したものがやっと映像上で実現されたのではないだろうか。
ただ前作映画から継続して1つ残念なことがある。
レプリカントが終始奴隷なことである。
前作と同様に反乱を起こしたり、前日潭でテロを起こしたりという設定も、地球外植民地へ先兵として派遣されることも、どこまで行っても彼らは奴隷階級である。
LA警察内の同僚からも「人もどき」と差別されるKも、ウォレスに忠実で「最高の天使」とおだてられていいように使われているラヴも人間様よりは一段下の存在である。
人間のデッカードとレプリカントのレイチェルの間の子ども、アナ・ステラインが病弱な希望の象徴という設定もなんだか気になる。
デッカードを白人、レイチェルを黒人やインディオなどの実際の奴隷階級にされた人々に読み替えるなら、アナは混血児を象徴していることになる。
実際に中南米のインディオは差別されないために白人(スペイン人)との混血を望み、メスチーソが多く生まれている。
そういう歴史的事実を思い起こさせる設定からは白人の傲慢さが感じられなくもない。
ディックの原作では実は影ではアンドロイドの方が絶大な社会的影響力を持っている反面、核戦争後の死の灰によって人類は体力や思考力の劣る人間に落ちる危険に常に脅かされており、相対的にどちらが上位の存在なのかわからなくなっているし、生理的欲求から肉体関係を結ぶことはあっても、両者がおためごかしに情を通じることもない。
原作の題名であるアンドロイドは電気羊の夢を見るかどうかは実際のところは人間側からの想像であって、彼らアンドロイドにとってはどうでもいいことのように感じられる。
しかし本作の内容ではレプリカントたちはできれば人間になりたい、もしくは同等の差別されない存在になりたいのである。
そう考えると、彼らが人間と同等に電気羊を飼うのはかなわない夢であり、それを夢見る権利すらないように思える。
奴隷の概念のない日本では『鉄腕アトム』に代表されるようにロボットやアンドロイドといえど人類の友達になる。
また前作はディストピア作品でありながら制作当時の時代背景が反映されているせいかそこまで暗い作品には感じないが、本作では監督や俳優たちも未来はバラ色じゃないと感じているせいか全体的な雰囲気が相当に重く暗い。
K役のライアン・ゴズリングの演技は相変わらず素晴らしい。
最近では『ラ・ラ・ランド』で想い起こす人も多いだろうが、筆者はあくまでもデレク・シアンフランス監督作品の『ブルーバレンタイン』や『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』、ニコラス・ウィンディング・レフン監督作品の『ドライブ』や『オンリー・ゴッド』での彼の演技を強く推したい。
また、ゴズリングの監督作品である『ロスト・リバー』も現代におとぎ話を織り交ぜた素晴らしい作品である。
ジャレッド・レトは『スーサイド・スクワッド』の新ジョーカー役とはまた違った味を出しているし、Kのバーチャル恋人ジョイ役のアナ・デ・マルスは最近『スクランブル』で観たばかりである。
そして殺しも厭わない冷徹な女性レプリカント、ラヴを演じたシルヴィア・フークスは本作の役作りのために1日6時間、6ヶ月をかけてトレーニングを積んだらしい。
確かに日本では資金面の問題からトレーニングに時間をかけられない現実もあるのだろうが、本当にほとんどの日本の女優とは覚悟が違う。
フークスはジュゼッペ・トルナトーレ監督作品の『鑑定士と顔のない依頼人』で老人を手玉に取る美女を演じていたが、体作りの成果からかまったく同じ女優に見えないほどだった。
その他、冒頭で処分されるモートン役が『ガーデイアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズで破壊王ドラックスを演じたデイヴ・バウティスタであったり、LA警察のKの上司ジョシは『ワンダーウーマン』ではアマゾネス将軍を演じたロビン・ライトであったりと、奇しくも昨今のヒーローものに出演経験のある役者を起用しているのも面白い。
CGのため多少動きに違和感があるもののレイチェル役のショーン・ヤングの登場も本作の見所の1つである。
本作の音楽を担当したハンス・ジマーも前作のヴァンゲリスを意識した曲作りに徹していたので、エンドロールで流れる曲からは前作を彷彿とさせる感覚を覚えたし、前作でデザインのほぼ全てを担当したシド・ミードもデッカードの潜伏先のラスベガスの造形に関与していたりと前作を観た者には懐かしい想いがこみ上げて来るものがあるだろう。
そして根底のところで首を傾げるところはあるものの、前作や原作に敬意を払いつつ本作をまとめあげた監督のドゥニ・ヴィルヌーヴの手腕は見事である。
前作の『メッセージ』からこの監督を意識し始めたが、筆者はそれと知らずに過去にヴィルヌーヴの監督した『灼熱の魂』『複製された男』『プリズナーズ』『ボーダーライン』の4作品を観ていた。
特に『複製された男』と『ボーダーライン』は印象に残っている。
作風としては敵対する二者の間の葛藤を描きつつも、安易にリベラルには流れず距離を置いているように思える。現在はSF小説の金字塔『デューン 砂の惑星』の映画化を進めているという。
日本ではハヤカワ文庫から新訳版が刊行されて間もないし、過去にはデヴィッド・リンチの映画化監督作品が駄作と言われているだけに、どのような作品を魅せてくれるのか今から楽しみである。
全611件中、441~460件目を表示