「原作も面白くないと思われたくない」曇天に笑う ヨルハさんの映画レビュー(感想・評価)
原作も面白くないと思われたくない
コミックス読了、アニメも視聴済みの原作ファンです。始めに申し上げておきますが、原作ファンの方にはもちろん、原作を知らない方には尚更オススメできない映画です。主に原作ファンの方向けに書いていますが、一般の方にもできるだけ分かるようにしています。当初はそのつもりではなかったのですが、書いているうちにアレもこれも思い出して長くなってしまいました。ご容赦下さい。
まず、原作と違いすぎます。原作では、豺の佐々木は女性キャラですが、映画では男性にされています。映画を撮る都合上なのかと思いましたが、ストーリー展開も設定も特に男にしなければならないような理由は見当たりませんでした。「映画のターゲット層を女性にしているから登場人物全部男にしちゃえ(笑)」とでも思ったのかと邪推したくなるほど不自然です。というのも、映画に出てくる風魔一族も全て男しかいません。それどころか錦も牡丹すらもいません。ストーリー上重要な人物がこれだけ排除された結果、敵役となる風魔一族、大蛇討伐、曇兄弟や白子の人物像、豺それら全ての内容が薄っぺらくなっています。原作を知らない一般の方のレビューで「よくわからない」「内容が薄い」と評されるのはこれが原因です。特に気になったのが、映画でしか出てこない金髪風魔の忍。やたらとしゃしゃり出てきて目立ちます。獄門處を占拠した時に真っ先に囚人の前に立ち偉そうに捲し立てていたのもこの金髪でした。あれ?君の後ろに風魔の長いるよね?それとも君が長なの?
原作を知っていらっしゃる方なら気づくと思いますが、風魔で金髪も有り得ません。風魔は過酷な儀式を経て白髪になり、その過酷な儀式が時代遅れだと反発して白子とその兄弟は反乱の末風魔の双頭になったのです。白髪一つにこれだけ意味があるのを知っている原作ファンならあんな改悪されてる作品には嫌悪感しか湧かなくなるのでは?また、無駄に長いアクションシーンを入れるなら、この白子の過去を挿入して敵役の風魔を説明しても良かったと思います。
豺も、ただ原作に存在してるから出しとけ、というような感じしかしませんでした。豺がなぜ出来たのか、メンバーとして豺に選ばれた基準は何だったのか、豺在籍時代の天火と蒼世にできた確執が何だったのかもしっかり描かれておらず、これも原作を知らない方が「よくわからない」と評した理由の一つであるのと同時に、「豺って別に要らなくね?」と言われてしまった原因でもあります。ひょっとすると、原作で豺の構成員が全員女だったら省かれていたかも知れませんが・・・。
最後の大蛇の討伐。ここは作品のクライマックスであり、原作では全ての集大成とも言えると思いますが、それがなんとも言えないペラさです。原作を知っている私ですら「大蛇とは何だったのか?」と一瞬理解できなくなるほど、本当に分かりませんでした。原作知らない人なら尚更じゃないですか?
大蛇は、豺に選ばれた家柄の出身者でなければ器にされることはありません。それなのに最後は豺と何の関係もない風魔一族である白子に乗り移ってましたよね。一度大蛇の器にしたものをそんなホイホイほかの人間に変えられるわけないでしょう。これも原作にない設定でしたが、その前に普通の映画作品としても崩壊してしまうのでやってはいけない事です。おそらく、作品としての面白さより見映えの良さだけ追求して作ってしまった映画なのではないかと思います。そこには原作に対する敬意も、映画に対する真摯な姿もありません。あまりにも原作無視の設定に、「曇天に笑う」という作品が可哀想に思えてなりません。
原作云々というより、普通に考えて不自然だと思う点もかなりあります。曇家の宝刀ですが、大蛇討伐に大切な刀を、風魔に狙われそうな社の境内にオープンにして置いとくわけないでしょう。原作では空丸が常に持っているものですが、原作通りにせずとも誰の目にもつかない場所に厳重に保管している、とした方が理解できます。そして、空丸が連れ去られた夜の事です。個人的にはこれが一番わけがわからないのですが、空丸を連れ去るために白子は天火を刃物で刺しています。それなのに宙太郎は医者を呼びに行くこともせずそのまま自分で看病し、天火も刺された翌日であるにも関わらず復活し空丸を助けに行きます。刺された昨夜は動くことすらままならず、あっさり弟を連れ去られたのにです。そこに合理的な説明は何もありません。原作を知っている人間なら「大蛇実験の被験体にされて大蛇細胞を埋め込まれた天火なら、人外の回復力でまあ動けるのか」となるのですが、そもそもこの作品、原作通りではありません。もちろん映画の作中にも、天火が実験に体を使われている描写なんてありませんので、なぜそんな大怪我でぴんぴん歩けるのか、かなりおかしく見えます。映画の撮影スタッフはじめ、監督も脚本家も誰も何も疑問に思わなかったのでしょうか。空丸救出時の戦闘シーンも、背中から地面に転がされたり壁にぶつかったりしているのに、傷口が開いて血が出たり、痛そうにしたりする所作も何もありませんでした。そのせいでアクションシーンにも臨場感がなく、ましてや没入感なんて望めるはずないものとなっています。
最後に、主人公役の福士蒼汰ですが、演技が下手です。兄弟とふざけあってる所はまあまあですが、それ以外のシーンは本当に下手です。アクションシーンくらいじゃないですか、マシなのって。役が掴みきれておらず、全体的に宙太郎役の子に助けられてまだ見られるかなという感じです。宙太郎役の子役さんは演技が上手でした。あと、空丸役の子はジャニーズだそうですが、宙太郎程ではないにしても、福士よりはマシです。それだけ福士蒼汰の演技が浮いていました。つまり、主人公なのに天火がどうしても不自然に見えるのです。ただでさえ人物像を端折りまくって物語の背景も分からなくなっているのに、演技でも浮いていたらなおさら作品として救いようがありません。
なぜ、曇天に笑うを実写化したのでしょうか。なぜ、曇天に笑うでなければ駄目だったのか。
この映画を観て思ったことは、これは原作ファンでも一般の映画ファン向けでもなく、ただの福士蒼汰ファン向けのために作られた映画に過ぎないということです。それだけのためにこの曇天に笑うという漫画が使われてしまったことが、ただ悲しいです。
(平成30年3月25日 一部加筆、及び脱字訂正)