「京・頂法寺の花僧・池坊専好の話」花戦さ Moiさんの映画レビュー(感想・評価)
京・頂法寺の花僧・池坊専好の話
感想
私は華道や茶道を詳しくは知らない。しかしその道は其々に深淵で極致としての終わりは無い。だからこそその道の世界は素晴らしいのだという。侘びと寂び。この感性を受け入れて自身で解釈しないとこの作品の感想は語れないと感じる。
茶人千利休との交流を通じるうちに専好は悟る。
茶の道は束の間。茶は飲み干したら後には何も残らない。飲み干すまでの束の間である。しかしその束の間こそが活(生)きるという事。活きると生きるを掛け合わせる事で人の生き方、人生の活かし方を知るー。
華道はまさしく花の道。自然の野に咲く木花を活けるとは束の間の花や人の活き(生き)方を考え感じる事。束の間とは人の道、言うなれば人生の生き(活き)方と通じるものがあるー。茶も花も人も道の考え方は同じである。人の生き方により、茶も花もその活かし方は変わるはず。
自分の生き方を生け(活け)るものにしようとした人とその人に関わり、心を活かそうとした人々の話。専好の利休と悩みを分かち合った貴重な時間。利休亡き後その四十九日に六角堂に専好をはじめ多くの市井の人々が供養の為立花した話が感動し涙を誘う。無人斎道有の娘、蓮の話なども興味深く、さらに前田利家邸での秀吉との対面により奉納された立花と無人斎筆と思しき墨絵を通じて、(実際は長谷川等伯筆「枯木猿猴図(こぼくえんこうず)」という猿を描いた墨絵を利家の子、前田利長が所有していたという。等伯と無人斎との関係は不明。秀吉が無人斎に自分の肖像画を依頼したが、洒落で猿猴図を奉納した為、無人斎を忌み嫌い無人斎を抹殺。絵図は徹底的に排除されたという。)侘び寂び本来の美意識とは何なのか。千利休が茶を通じて説いた人の道とは何ぞやということを秀吉自ら再意識する話が感動する。
脚本・演出◎
実話と相まった骨太な話の展開。素晴らしい脚本。
視線と凝視のアップ描写がその人物が想いを馳せている内容に観ている者の気持ちをも掻き立てられ想像させる演出手法となっていて素晴らしい。
配役
出演者の皆様の演技は素晴らしい。
特に専好役の野村萬斎氏の演技は秀逸。
⭐️4