たかが世界の終わり(2016)のレビュー・感想・評価
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ただひたすらに演者のアップに引き込まれる
12年ぶりの再会という設定で主人公とそれぞれ家族との距離を表情だけで感じられるように設計されている作品で、その12年という時間の溝が何を指しているのか明確でない分、観る者は役者の演技に引き込まれていくようで面白い作品でした。
なぜそこまで苛立ち、それぞれに葛藤を持っているのかは観る者によって印象が違うだろうと思うが、それには主人公のセリフの少なさだったり、映像がほとんど役者の顔のアップという構図だったり、ストーリーの多くを説明していないところにこの作品の妙があるのだと思う。実感する愛情と己が求める愛との差異が1つ屋根の下で交錯し合うこの脚本は、グザヴィエ・ドランがなせる業と言っていい。
寺内貫太郎一家
相変わらず美しい映像美 ストーリーは…
誰にでもある、誰にでも訪れる「世界の終わり」を、終わる人の主観ではなく、客観として描いた…っていう解釈で合ってるのかな…。
もしも、自分が余命いくばくとされたら…きっとどういう身終いをするか、考えると思う。それは、自分にとっての世界の終わりであり、それは「他人」からこうありたいと思うことでもあり…。結局自分の見終いは他人を巻き込むことであり、それは自分の思った姿とは違うんでしょうね。
家族の一日という、ミニマムの単位で、ミニマムの日数で自分と人の距離感や、妬み、悩み、葛藤を描いたこの作品は本当にグザビエ・ドランらしくって、僕はとっても好きです。
好き嫌いは選びそうだけど…。
映像もとっても美しいし、詩的であり、示唆的な映像の数々も彼らしい作品でした。
面白い!
登場人物の立体的な描き方が素晴らしい。見る角度によって、解釈が広がる。
美貌と知性と気品に恵まれ、性格も優しく、才能も花開き、誰からも愛される弟。
だけど、角度を変えて見ると、残した家族への無関心はハンパなく、家族に対してかなり冷たい。
出て行った後、絵葉書だけは送っていたようだけど、通り一遍な言葉しか書いていない。
「マイアヒ〜」の回想シーンは、陽の光でいっぱいだけど、あくまで「自分」の子ども時代に思いを寄せただけ。
ベッドマットを懐かしむのも、恋人と過ごした「自分」への憐憫。
兄と車の中で、互いの近況を語らうでもなく、自分の今朝の空港の話。家族への無関心とその無自覚に、兄は怒りのデスロード。
苦痛と不満がありながら、それでいてその状況から抜け出せない人間は、些細なことにもいちいちイライラする。「たかが」なんて思えない。
それに引き換え、自由にカッコ良く生きる人間は自分の死すら「たかが」?
よほどのことがない限り、家に帰る気なんてサラサラない彼が帰って来たのだ。母と兄には想像がついている。
告白なんか聞きたくない!それを聞いて、オレたちは感情をどう処理すりゃいいんだ!言うな!帰れ!
鳩時計(家庭)から飛び出した小鳥は、好き勝手に飛び回り、あっけなく命を落とした。
私の中のどこかに、主人公より、家族の気持ちのほうに、潜在的傾斜を認めた。そこが、この映画のすごいところ!
ちゃんと理解は出来てないかもしれないけど・・
勉強せずに観ると
確かに意味がわからない映画。
ただ喧嘩してるだけだといえばそうだし。
でも理解したい知りたいと思った。
原作はエイズで余命幾ばくもないフランスの若き作家が書いた戯曲。
あぁ、自分の世界が終わろうとも
家族にも家族の生活があり
悲しみはせども、きっと変わらない生活が続いて行くのだろう。
たかが、自分の人生が終わる。
ただそれだけのコトだ。
が、私の解釈。
だから
それを悟ったルイは
誰にも告げるコトなく
家族の元を去ったのだと思う。
それは絶望なのか
家族を思ってか
わからないけど。
答えはどこにも書いてないから
グザヴィエ・ドランが込めたメッセージのホントのところはわからない。
でも
観た人がそれぞれの解釈をする
語らない作品は
すっきりしない、心地良い不満感がある。
これはすごい作品かもしれない。
ただ、勉強せずに
理解ができないなら
それは映画としてどうなんだ?
とも思ったりする。
初グザビエドラン。
何故怒っていたっけ?
観る人を選ぶ作品
2度目はないけれど、長く印象に残る
はまりませんでした。 役者は大変良かったと思うのですが… 主人公の...
戯曲の映画化なんだが・・・
劇作家でゲイのルイ(ギャスパー・ウリエル)は12年ぶりに家族の元を訪れる。
それは、家を出てから初めてのこと。
彼が訪れる理由はひとつ。
自らの死が近いことを家族に告げるため。
しかし、それはなかなか切り出せない・・・
というハナシで、ストレートにいえば、それ以外にハナシはない。
なので、見どころは、12年ぶりの家族との確執が焦点で、母(ナタリー・バイ)、兄(ヴァンサン・カッセル)、兄嫁(マリオン・コティヤール)、妹(レア・セドゥ)という豪華配役がそれを演じている。
なかでもキーパーソンは兄役で、粗野で知識の面でも弟に劣るが、一家を支えているという自負があり、さらに、弟の訪問理由にも気づいている。
そして、家族を傷つけたくないという気持ちもある。
また、ルイの病気は語られないが、劇中で、兄は弟のかつての同性の恋人が死んだことを告げていることから推察するに、たぶんエイズなのだろう。
気づいているからこそ、言葉を荒げて、弟が波風を立てないうちに、自分が損な役回りを引き受けて、弟を追い払おうとする。
とにかく、役として難しい。
そして、思い起こせば、愚兄賢弟の図式は『トム・アット・ザ・ファーム』でもみられたもので、ドランとしてはかなり思い入れのある設定なのだろう。
で、映画はこの兄を中心に進んでいくかと思いきや、なかなかそうはならず、ルイの帰還理由に気づいていない妹、理由そのものはわからないが何らか悪いことがあることを予感している母親、そして、兄同様、ルイの帰還理由に気づいてしまう兄嫁が、ほぼ均等に描かれていく。
それを、同時多発的に交わされる台詞をしゃべる人物の顔のアップを中心にして、描いていく。
この映画には原作戯曲があり、ドランとしては、演劇臭をけしたかったがために、この手法を選んだのだろうが、個人的には、あまり効果的でないと思う。
戯曲を映画化する際、舞台のように引いた画面で延々とみせることは映画を撮る立場としては避けたいところで、逆に、登場人物たちに肉薄しようとしてカメラを寄せてしまうということは多々あること。
過去の映画作品でもよくお目にかかった。
けれど、この撮り方は逆に映画を狭苦しくするだけで、戯曲の良さを損なうことが多い。
まぁ、ドラン監督は、そんなことも百も承知、二百も合点でこの手法を採用して、登場人物の内面に迫りたかったのだろうが、やはり映画として上手くいっていないように感じられて、観ていて苛立ちだけが先立ってしまった。
それに、今回は音楽の入れ方も陳腐。
主人公の心情の代わりに使っているのだろうが、なんだかミュージックビデオのようにそのシーンだけが浮いてしまっている。
どうだ、いいだろう、うまいだろうと自ら言っているようで、悪趣味になりかかっている。
常に私小説ならぬ私映画を撮るドラン監督だが、映画を撮るにあたっては若干の客観性がほしかったところ。
言えない、いや言いたくなくなる。
ギャスパー・ウリエルがいい
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