「Juste la fin du monde」たかが世界の終わり(2016) 重金属製の男さんの映画レビュー(感想・評価)
Juste la fin du monde
「愛が終わることに比べたら、たかが世界の終わりなんて」
12年ぶりに帰省をする主人公・ルイ。その帰省は間も無く訪れる自らの「死」を家族へ告げるためでもあり、『僕という存在の幻想を、他者にそして自分に遺していく』ための「旅」でもあった。「作家」という設定を背負ったルイらしい決意だと感じた。
ルイ役のギャスパー・ウリエルがDVDの特典映像のインタビューで語っているように、この映画のテーマは「思っていることをはっきりと伝えない、人間の意思疎通の物語」であるのと同時に、私は「絶え間なく流れる"時間"がもたらす変化」でもあるのだと思う。劇中に登場する鳩時計や、移ろう太陽の光、そして"12年ぶり"の帰省がその象徴だろう。
「人間の意思疎通」に着目してみる。劇中で登場人物によって交わされる言葉は、どこか意味ありげで、ストレートさに欠ける。そういった台詞は、役者陣の陰影ある表情と共に語られ、この映画の持つ雰囲気を最大限に演出するのに一役買ってもいるのだが、やはりルイの12年もの不在の間に、残された家族にもたらされた様々な「変化」によって、より現実味を帯びたものになっているのではないだろうか。淡々と交わされる言葉に抵抗を覚える観客も居るだろうが、この映画が描きたいのは分かりやすい家族像ではなく、監督・グザヴィエ・ドランが語るように、よりリアルな「不完全な人間模様」なのではないだろうか。
次に「絶え間なく流れる"時間"がもたらす変化」に着目してみる。劇中でルイの母・マルティーヌが昔話を楽しそうに話す場面がある。しかしそれを拒むかのように話を遮る長男・アントワーヌと長女・シュザンヌ。加えて死を目前にしたルイのかつての恋人との回想と、昔住んでいた家を訪れたいという台詞が挿入されている。過去を忘れたい子供達と、過去を大切にしたい母。今となっては、お互いの向いている方向が食い違う。幸せだった日々を思い出すことで、現在との違いが明確になるならば、目を背けたくもなるだろう。アントワーヌの妻・カトリーヌは、ルイが家族に無関心だと言う。取り留めのない絵葉書を送るだけで、12年の間に家族に何が起きていたのか知っていたのだろうか。母・マルティーヌはルイに語りかける。「シュザンヌは家を出たいの」「アントワーヌは自由が欲しい」12年もの間、確実に時は流れ、家族にも変化が起きていたのだ。そんな折、ルイは自らの死を伝えに帰省するも、今の家族を目の当たりにしては伝えるに伝えられないのも頷ける。決して「家は救いの港ではない」のだったから。
ラスト20分。一家はデザートのため再び食卓を囲む。ついにルイが口を開き「もう帰らないと」と言う。12年も不在にした挙句、残された家族の気持ちなど知ることもなく突如帰省し、重大なことを伝えにきたルイに拳をあげるアントワーヌ。兄や母にはルイが何のために帰省したのか分かっていたのだろう。次にいつ会えるかわからないから、二言三言では足りないと言うマルティーヌ。全てを察しているからかルイの話を遮るアントワーヌ。皆の横顔が差し込む夕陽で橙に染まる。時計の振り子の音が、残された時間が僅かであることを強調する。カトリーヌの潤んだ瞳は、何を映しているのか。眩しく輝く玄関に一人残されたルイの足元に、一羽の鳥が墜ちる。この鳥がもう「家」に帰ることはないのだ。
時間が流れるのと並行して、様々な要因があって人間の心情も変化する。その「時間」は一体どこに向かって流れるのだろうか。人は生まれながらにして「死」へ向かうと言う。家族にとって愛すべきルイが12年ぶりに帰省して、母や妹はルイと過ごせる時間を止めたいと思ったに違いない。しかし皮肉にも止まることのない時が、きっとあの家には今も流れ続けている。私は、残された者が過ごす時間に想いを馳せる。