「余白のない映像と物語。」たかが世界の終わり(2016) 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
余白のない映像と物語。
余白のない映像と物語。12年ぶりに実家へ帰宅した青年は、ある事実を家族に告げようと思っている。しかし、実際に顔を合わせた家族のやり切れないほどに不器用なやりとりが、この映画で描かれている。ほとんどのシーンが役者のアップで撮られており、物語もほぼセリフで構築された作品。余白のない画面作りと、同じように余白のない物語は、シチュエーションを限定した舞台的な作風だと好意的に解釈することに限界を覚えるほどに閉塞的で、個人的にはやや苦痛に感じられてしまった。その家族が住む家が、例えばどんな家具を配置して、どんな思い出の品を飾り、どんなカーペットを敷き、どんな靴を履き、どうやって生活しているか、などということも、人物を知るうえでまた物語を語る上で重要な要素だとは思うのだけれど、いっそそれらをすべて排除したような演出スタイルを撮ったのは、おそらくはドランの強い意志や意図があってのことだったとしても、私は好みではなかった。物語にも、あえて説明しない部分はあれども、セリフの応酬にも余白の部分がなく、とても窮屈で仕方がなかった。
セリフの多くは主人公のルイ以外の人間が発するように出来ている。ルイは自分のことを話しに来たはずなのに、いつも相手の話を聞く側に回る。「あぁきっと12年前も、こうして相手の言うことを聞くことしかできずに、家を飛び出したのだろうなぁ」と思うような、そんな時間が流れていく。家族だからと言って、分かり合えることばかりではないし、言葉を尽くして尚一層分かり合えなくなってしまうということはあるわけで、そういったもどかしさや、やりきれなさを感じるという意味では、確かに良かったし、そういう意味で内容やテーマが悪いとはまったく思わないのだけれど、ただあまりにも閉塞的な演出と、あまりにも喧々としたセリフの応酬は、聊か疲れを起こさせるものだった(まぁ、それこそがルイがずっと感じていた「疲れ」であり、それを追体験するという意味合いはあるにせよ)。
辛うじて、少しオドオドしたようなマリオン・コティヤールの存在に救いを感じながら、見終わって深い深いため息が出るような作品だった。