ティエリー・トグルドーの憂鬱 : 映画評論・批評
2016年8月23日更新
2016年8月27日よりヒューマントラストシネマ渋谷ほかにてロードショー
世界の今に見えない光をしぶとく見出そうとする映画の覚悟が奮えている
「私の映画はいつも社会の中で光の当たらない人間を親密に描いている」と述懐する監督ステファヌ・ブリゼ。「愛されるために、ここにいる」「シャンボンの背中」「母の身終い」と、彼の映画は実際、世界の中心で愛を叫んだりするよりは片隅で頑固に清潔に生きる人の姿を静かに讃えてきた。現代社会を侵す様々な“貧しさ”を背景にした新作では、、相変わらず片隅の存在に肩入れしつつ、人として正しいことをなせるかと、容赦のない問をつきつける。
ティエリー・トグルドー51歳はいきなりのリストラ以来1年半、妻と障害をもつ10代の息子とのささやかな暮しを死守しようと空しく屈辱的な求職活動を続けている。鬱屈を噛みしめて黙々と仕事を探す彼の日々にさらりとすべり込む映画は、同じさりげなさで職を得たティエリーの日々へと転回してみせる。
大型スーパーマーケットの警備員となったティエリーは、殺伐とした監視画面と向き合い、不審な客を取り調べる。モニター映像ひとつで客を断罪する側に回った彼は今、呻吟する小さな存在――少し前の自分と変わらぬ境遇にある人を情状酌量の余地もなく切り捨てる。それが仕事と割り切っても割り切り切れない思いが降り積もる。が、やわな感傷で仕事を投げ出せば自分がまた弱者の側に逆戻りすることになる。それでも人として正しく在ることをするべきか――。
正論だけではすまない選択を前にしたティエリーの苦渋を監督と3度目のコンビ作に挑んだヴァンサン・ランドンが鮮やかに体現する。妻と参加するダンス・レッスンの場面や台所の棚の修理、息子の着替えや入浴を手伝う場面にそこはかとなくにじむ暮らしの色、その温かみがじわじわと効いて弱者の鬱屈の表情を近しく好ましく感じさせる。そんなティエリー/ランドンの顔を斜め後ろから切り取ることで映画は彼を観客の視線の延長上に置く。ティエリーの憂鬱がいっそう他人事でなく迫ってくる。最終的に彼が選ぶ声高な主張に勝る無言の行動。そこに世界の今に見えない光をしぶとく見出そうとする映画の覚悟が奮えている。
(川口敦子)