「必然的な娘への言及不足」ジュリエッタ よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
必然的な娘への言及不足
久しぶりのアルモドバルの新作。
前回観たのはボルベールだったか。
赤を中心にカラーコントロールされた画面に、アルモドバル調の健在を喜ぶ。
列車で二人の男に出会った主人公が、死ではなく生に惹かれることは、その若さや美しさから当たり前のようにも思える。
だが、この選択は紙一重のものであった。
ラストシーンにおいて彼女の鞄の中に娘からの手紙が入っていたことが、列車に飛び込んだ男が残した鞄の中身が空だったことの謎の答えとして提示された観客は、そのことに気付くだろう。
鞄に入っていた娘からの手紙は、母親との和解を求めており、これにより、主人公は人生を絶望させてきたわだまりから解放される。そんな感動のラストなのだが、残念なことに、氷解により溢れ出すものが観客の期待する程度ではなかった。
そうならざるを得ない理由は明白でもあるのだが。
母娘のすれ違いをラストで提示するには、娘のことがほとんど描かれていない。だから、観客はこの娘の子供時代からの苦しみを知らないし、現在の心境にも思いを馳せることができない。
しかし、これはある意味当然である。
映画は初めから、娘のことがつかみきれない母親の姿を描く。娘のことは、その母の視点から見たものを描くので、必然的に娘のイメージが断片的、一面的なものに過ぎなくなるのだ。
だからこそ、娘が出奔した事実にも増して、その理由が分からない謎が、主人公を追い詰めていくし、観客もまた、彼女の苦しみへの感情移入ならば存分に果たすことが可能なのだ。
介護、移民労働者、カルト集団といった、現代社会特有の問題によって家族が変化する。しかし、バラバラになってしまったかのような家族を繋ぎ止めているものは、結局のところ親子の情である。
子供を産み、そしてその子を喪う経験から、自分の母親の苦しみを理解すること。大切な伴侶を亡くした悲しみを、新たなパートナーとの人生をスタートさせることによって乗り越える父を赦すこと。
二つの和解の糸口だけを示して映画は終わる。