「感じたままに言うと」君の名は。 orion_824さんの映画レビュー(感想・評価)
感じたままに言うと
この映画に人が集まる理由を私なりに考えてみた。この映画の何が人をそんなに惹き寄せるのか。それは私に次のように映る。
つまり、人と人との出会いに偶然はないということ。運命の糸は恣意的に複雑に絡まっているように見えるが、織りなすカタチはひとつの作品のように美しい軌跡を描くはずだ。まるであの組み紐のように。
好意的にとらえてだが、この映画の作り手には、物語としてのさまざまな破綻を犠牲にしても言いたいこと(結論)があったはずだ。さまざまなもっともらしい挿話も美しい背景も音楽さえも、その結論のための手段にすぎない。そして観る側に残されているのは、それを肯定するのか否定するのかという単純な問いだけだ。私は肯定する側だ。これは映画そのものの評価とは別かもしれないが、しかし私は(私たちは)こういう物語に弱いのだ。映画にはこうあらねばならないという制約などなにもないはずだ。いくら破綻を言い当てても詮無いことである。
年齢の高い人のなかにはこの映画を「転校生」や「時をかける少女」の大林宣彦作品へのオマージュと見るひとは少なからずいるだろう。大林作品にもまた人格の入れ替わりや、時間軸の相互乗り入れが取り扱われているが、作品の主眼は言うまでもなくそんなパラレルな存在の在り様ではなく、人と人は運命に導かれて必然のように出逢うのであり、 偶然出逢うのではないというすこぶるロマンチックな、宿命論的な思想である。
誰しもデジャヴなどの経験でいまある現実といまはない過去や未来がどこかで反響しあっているのではと感じているのではないか。かわたれ時にかたわれであるふたりは一瞬の邂逅を果たす。過去はアダムとイブまで遡るかもしれない。組み紐はDNAの二重ラセンの暗喩のように三葉の髪と瀧の腕を飾り、ふたりの運命をひとつの結末へと押し流す。ふたりのDNAにどんな情報が書き込まれているか誰が知ろう。
クライマックス、瀧と三葉は街なかですれ違いお互いを数秒の差を置いて振り返る。これで終われば大林版「時をかける少女」と同じだが、最後実際に出逢ってしまうところにかえってこの監督の大林作品へのリスペクトを感じる。そこに好感を持った。