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ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』に大きな影響を与えた存在のひとりにニーナ・シモンがいる。監督は、撮影に入る前から彼女の名曲「I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free」が耳の中でリフレインされていたと明かす。
『恐れるな。進め』—「この台詞は脚本には書かなかったのだが、撮影が進むにつれて頭の片隅でこのフレーズがずっと鳴り響いていた。『恐れるな。進め』。この言葉はベニチオに言わせるべき台詞だとはっきり思った」と語り、「実際、人生や仕事の哲学として、私にとって確かに真実だからだ」と念押ししている。
Netflixで配信されている『ニーナ・シモン〜魂の歌』を観た。
2015年のこの作品は、幼い頃からクラシックピアノを学び、家族のためにバーで歌うことになった天才的な音楽家の生涯を描くドキュメンタリーだ。
冒頭でニーナ・シモンがゆっくりとピアノの前に座り朴訥に話し始める。表舞台から姿を消した彼女が、奇跡の復活を遂げたステージだ。絶妙なタイミングで『Wats happen Nina Simon』—-ニーナ・シモンに何が起こったのか?と原題が浮かび上がり、画面は8年前にタイムスリップする。
「あなたにとって自由とは」と問われると、ニーナは「恐れないことよ」と即答する。この言葉はまさにPTAがベニチオ・デル・トロに託し、レオナルド・ディカプリオを車上から広野へと解き放った言葉なのだ。
自由とは恐れないこと。意を得た女流監督のリズ・ガルバスは、自由を求めて闘い続けたシモンの軌跡を追っていく。
幼き日、別世界の住人である白人教師に認められてクラシックピアノを習い始めた頃、引っ越したアトランティック・シティで家族の生活を守るために歌い始めた日々、警官に惚れて結婚しマイホームでの新生活、成功のために仕事を詰め込む夫からの理不尽な暴力、キング牧師に心酔し公民権運動に没頭し遂には暴力的革命を肯定し始めた時代、そして、すべてから逃げるかのようにアフリカへと逃亡し表舞台から姿を消した。
人種差別で大学への入学が認められず、経済格差を埋め合わせるために歌い、男女格差による夫の暴力に晒され、いつしか体制に対して闘いを挑み不買運動に直面した。気分屋と思われていたニーナ・シモンには、躁鬱と双極性障害という呪縛がつきまとっていた。それでも彼女は闘い続けることを辞めなかった。
『ワン・バトル・アフター・アナザー』の序盤を牽引するタニヤ・テイラーが演じるペルフィディアという名には、不実や背信という意味が重ねられている。裏切り者の烙印を押された彼女の姿が、孤独に闘い続ける天才音楽家の魂の彷徨に重なった。