サウルの息子のレビュー・感想・評価
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未来へつなげたい思い
ゾンダー・コマンドという存在を今まで知らなかった。
あまりにも残酷な役目をさせるものだと思うのだが
日本でも死刑執行後の片づけを死刑囚にさせてる
(20年ほど前の本にあったがもしかすると今は違うのかもしれない)
ので、過去のナチスにだけあったことではない。
人間は穢れや人非人と思うものにはどこまでも冷酷である。
ナチス収容所に特殊任務をさせられているサウルたちは
いまは生きてはいるが
ナチスの気分次第でいつでもすぐに殺されてしまう存在だ。
常に首の皮一枚で生きている。
そんな中サウルはある少年をなんとしても
正式に埋葬して送ってやりたく
仲間からすれば狂気じみた行動をとる。
サウルは少年を息子だとは言うけれど
妻との子じゃない、とも言ってるので
血縁ではない。息子だといえば
仲間に話が早く通るから言ってるんだろうが
その執着度は本当の息子のようにも感じるほどだ。
解説などを読んでやっとそういうことかとわかったが、
ナチスは収容所で生命を奪うのみならず
信仰までも。仏教でいえば死んだあとあの世で会おうね、的な
本当に、希望とまでも言えないようなレベルの
望みさえも踏みつぶしていたのだ。
サウルはその死んだ少年にせめて死後の希望だけでも
たくしたかったのだろう。
その気持ちもわからいでもないのだが
なかなかサウルは限界状況にある中で
そのために仲間の計画もミスらせてしまうし
サウルのせいで死ぬ者もいるわけで、
観ていて正直、いやお前。。。迷惑。。。と
イラっともする。
もう自分が生残ることは考えてなかったんじゃないか。
そんな希望はないだろうなとどこかで悟っていたんじゃないか。
でなきゃこんな身勝手というか無謀なことを、
それもせめて生きてる少年まらまだしもだ、
できるか?やるだろうか?
ここまでの極限状態を経験したこともないのでわからないけれど。
しかし二度とこんな戦争を起こしてはいけないのだと
胸に突き刺さる。
敵国にあたる地の少年にも微笑むサウルは
狂気ではなく、誰よりも冷静で人間らしい。
彼はかの地へ憎しみを抱いて旅立たなかった。
自分の「証(あかし)」を残したかったのか。
ある意味でゾンダーコマンドであるということは、メンタル的には一層の負担だったのではないかと推測します。
つまり、予期はあったのかも知れませんが、ふつうの被収容者であれば、長い長い移送で疲れ果てた体に温かいスープやコーヒーを与えられる前にシャワーを浴びるだけだと騙されて(時を移さずに)抹殺されてしまうところ、ゾンダーコマンドは、彼・彼女らの死体の処理に任務として当たるが故に、自らの行く末も、自ずと理解させられてしまうわけですから。
パルチザンと後に合流することによって生還できる可能性を、サウルがどの程度に信じていたかは、残念ながら作中からは窺い知ることができませんが…。
しかし、そういう境遇にあって、サウルがなおユダヤ少年の正規の葬送にこだわったのは、生還の見込みの限りなく薄い中で、自分がここ(収容所)で生きたことの「足跡」というのか、「証」というのか、そういうものを残したかったからではないかと思われてならないのです。評論子には。
そう思うと、観終わって、本当に重い、重い、重い一本になってしまいました。評論子には。
この世の地獄…
何も知らない同胞が服を脱ぎ、ガス室に送られ、錠を掛けられ、死んでいく。その後の掃除、服から金目の物を探し出す。ゾンダーコマンド、いずれ彼らも処刑されるが、ナチの手先となって処刑を手伝う。おぞましい映像で、人間のなせる業ではない。そんな地獄で働くサウルの目は死んでいるが、息子と思わしき遺体を見てからは、狂信的にラビを探し、危険を犯してまでも正式に弔おうと奔走する。周りの人々の危険も伴うため、彼の行為は自分勝手で暴走行為だが、地獄にいる以上、そこには常識はないと考える。カメラワークが長回しで、サウル中心に回し、小声や息遣いなどを拾い、まるで自分が収容所にいるような感覚になるが、非常に見づらく、他の人物の背景などが全く説明がないため、分かりづらかった。字幕も不要な部分を拾い過ぎてる感があり、残念だった。
これぞ「この世界の片隅に」
収容所の処刑室だけにスポットを当てているので、常に処刑されるユダヤ人とそれを処理するユダヤ人しか出てこない。処刑される死体の山の生々しさと、黙々と処理するゾンダーコマンド。第二次大戦の中でこんな「重箱の隅を突いた」様な映画は観たことないかもしれない。
しかもこの内容は、その処理する側のゾンダーコマンドの一人サウルの「個人的な」事情であるから、正にこの時代の市井の人の事情と言って良い。
話はひたすら悲しい内容でしかないが、最も悲しむべくは、目の前で我が子が死んでも声すら上げられない、いやそんな感情すら捨て去られたユダヤ人の絶望感。そんな中でも聖職者を探すのに躍起になるサウルの気高さ。
そして最後まで悲しい。
死体処理の時の生々しさは、サウル視点の映像なのですごく露骨では無いように作られている。その配慮も素晴らしい。
名作だと思います。
ゾンダーコマンド
息子と言っている時点で正気は失っているんだろう。分かりにくいカメラワークは本人の視線かな。俯瞰して広い視野が確保できず、圧迫感が続く中で、地獄絵図がわれわれの目には飛びこむ。しかし、もはや惨状には目がとまらず、視線が揺らぐ。その中で、人間であらんと「息子」にすがる。
意欲作だとは思う。本人の気持ちを汲むには到底及べない。
サウルのやり残したこと。
とにかく意味が分からなかった。常にサウルにカメラが向けられ、周りはボヤけて状況はよく分からない。
「ゾンダーコマンド」という役割、アウシュヴィッツ収容所での出来事。その2つの認識だけで話は展開されていく。
ただひたすらにサウルが歩き、黙々と作業をし、何語か分からない言葉で怒鳴られ、引っ張られ殴られ…。
何が起きているのか分からないまま、サウルは息子を発見。息子を埋葬しようと話は急展開を迎える。
サウルしか見えない。周りが良く見えないという描写はサウルが置かれている精神状態を投影していると思う。
例えるなら、凄い人混みに巻き込まれたり、過程も理由も教えられずにやらされる仕事みたいな…。
周りが見えずに取り敢えず目の前の作業をこなすみたいな感じだろうか?
そんな感覚でこの映画を観ると、不思議なくらい没入してしまう。映像に入り込んでしまう。
そして、周りの迷惑も気にせず、とにかく埋葬をやり遂げ無ければならない。憑依されたように邁進する意味は何なのだろうか?
未来への希望があったはずの息子達への償いだったのだろうか?
来世で幸せになるよう、ちゃんと埋葬してあげたかったのだろうか?
ラスト、子どもを見て笑ったのは何故なのか?
自分は死んだようなものだ。どうせ死ぬんだ。そんな絶望と諦めの時に、純粋無垢な子どもをみて、期待と希望を感じたのではないだろうか?
未来の平和な世界を夢みてサウルは死んでいったのではないだろうか。
重い映画
重い、重過ぎた。
これから、鑑賞する方は覚悟を!
アウシュビッツ収容所でドイツ軍に働かされる「ゾンダーコマンド」という身分のユダヤ人が息子を偶然見つけるが、瀕死の状態で直ぐにドイツ軍に殺された。
その息子を手厚く弔いたいが為に奔走するストーリー。
「ゾンダーコマンド」はじきに自分達も殺される事が分かっているので、反乱を起こそう企てるが…。
サウルは息子を埋葬する事に夢中になり、周りが見えなくなっていて、反乱を企てる同士と上手くコミュニケーションが取れず、大事な物資を無くしてしまう。
物語の途中、同胞が「お前には息子なんか居ない」というセリフがあるので、本当に息子だったかどうか分からない。
よく似た少年だったのだろう。
極限の状態で判断力が低下、生き別れただろう息子を思う親の気持ちが伝わってきた。
カメラワークが斬新で他の方も書いているが、画角が狭く
閉塞感の演出に一役買っている。
またカメラもずっとサウルの少し後ろを中心に前を写し、あたかも主人公の直ぐ後ろに立ち、実際そこにいるような感じを受ける。
描写は直接的な面と背景ボケの時もあり、この写し方は新しい。
終戦70周年で作られた映画だそうで、もとより娯楽作品では無いが戦争の悲惨さ、ヒトラードイツ軍の所業を忘れないように観て欲しい。
とにかく、こんな事がつい70年程前に実際にあった事なんて
人間が一番怖い。
映画の点数を付けたが、まぁ良い、悪いの映画では無いと思う。
よくわからなかった、で良いのか?
遺体処理、ホロコースト、息子を見つける、死者を弔う、埋葬etc
↑
自分がこの映画を観る前の予備知識
もっと死や死者について尊ぶ姿が強調された映画かと思っていたが、予想とはちょっと違った。
違ったと思ってしまった理由として、ユダヤ教の知識や宗教観、収容所での反乱などの知識や理解があまりにも自分に足りなかったんだと思う。
主人公がひたすらラビに拘る心情が理解できなかった。
もういいじゃないか!と途中何度も思った。
挙句、せっかく見つけたラビは①入水自殺未遂→処刑、②祈りの言葉も言えない偽物、という散々なオチ。
とにかく!主人公の最後の笑顔がとてつもなく印象的。あの時彼は何を思ったのか。あの一際色彩を放つ少年に。
息子の生まれ変わりだとおもったか、あるいは新たな「息子」を見つけたのか…?
カメラは常に主人公近影もしくは主人公の視界を写すため周囲からの情報は少なく、また肝心の主人公も全然喋らないため、総括すると「よくわからなかった」となってしまうのが非常に残念。
もちろん、その結論に至らざるを得ない理由は前述の通り、自分にあるのだろうが。
見るのが辛いが、知るべきこと。
あぁ、つらい映画体験でした。
エンタメ性は皆無です。しかし世界や人間性を学ぶ上で重要な物語だとおもいます。
サウルにだけピントが合っているので、その他の背景はぼやっとしています。でもそうしてないと、背景の悲惨さにやられます。
彼らは同胞の死体を見ないようにして自分を保っていたのかなと想像しました。
ゾンダーコマンドという言葉は聞いたことがあります。その実態の手触りみたいなものは初めて知りました。
埋葬を好む宗教観も知っていました。ユダヤ教では(キリスト教、イスラム教もですが)、死後の復活を信じているのでそのために体が残ってないとダメだから火葬はもってのほからしいです。
サウルはガス室で死にそびれてしまった少年を、息子だ!と、気づきます。
これは、本当に息子かどうかは、二の次です。妻との子ではない、というせりふがでてきますが、その真偽も定かではない。
私はたぶん思い込みなのだろうと思います。
なので、あの少年は赤の他人。
だけれども、息子だと決めて、せめて息子にはちゃんとした葬いをしたい。サウルのせめてもの願いなのだろうと理解しました。
葬いのための準備で、サウルは規律を犯していきます。殺されやしないかとハラハラします。
サウルの胸中とは関係なく、ゾンダーコマンドたちはなんとか反旗を翻そうと火薬だ武器だのを集めています。
それもまた、自分を失わないための小さな小な希望なんだろうと思います。
ラストでサウルは子供に微笑みます。彼には天使か何かに見えたのでしょう。
救いのない世界でした。しかし、現実に近いのだろうと思いました。
今年のアカデミー賞の傾向とともに
今年のアカデミー賞では、ハンガリーの、ネメッシュ ラスロ監督による映画「SON OF SAUL」(サウルの息子)が、外国語作品賞を受賞した。この作品は、アダム アーカポ監督による「マクベス」とともに、アカデミースポットライト賞というの賞も受賞した。
今年の外国語作品賞候補作は、ヨルダンの「THEEB」、デンマークの「A WAR」、フランスからは「ムスタング」、コロンビアの「EMBRACE OF THE SERPENT」と「サウルの息子」が挙げられ、最終的にこの作品が受賞した。
今年のアカデミー賞は、2か月前に候補作が挙げられた時点で、ホワイトアカデミーと揶揄され、白人の男性ばかりが候補になっているのは人種差別、男女差別の見本だと批判され、一部の黒人俳優が出席拒否をするなど、話題が多かった。いざ蓋を開けてみると、司会者やショーを盛り上げるパフォーマーがみな、ホワイトアカデミーと言う言葉に触れてジョークをかますなど、政治色も強い発言が多くて興味深かった。
レデイーガガが、「TILL IT HAPPENS TO YOU」を何十人ものレイプ被害者、家庭内暴力を生き延びた被害者と一緒に歌って、会場からスタンデイングオベイションを受けていた姿が印象的だった。ーあなたは悪くない、レイプされても自分が悪かったなんて思わないで、ひどい目に遭っても暴力で私の心を曲げることはできない、前を向いて生きていこう、、、そう互いに言えることがいかに大切か。「HOLD YOUR HEAD UP」なのだ。本当にそうなのだ。
アカデミー主演男優賞を遂に手にしたレオナルド デカプリオが、受賞のスピーチで、大企業、エネルギー産業による環境破壊は現実に起こっていることで深刻です。地球上すべての生き物が生き残るために、先住民族を尊重し、弱者を保護し、環境保全のための政策を取らなければなりません。といった自然保護活動家として、まっとうな警告をして、これまたスタンディングオベーションを受けていた。
またドキュメンタリーショートフイルムでは、パキスタンの「A GIRL IN THE RIVER」が受賞した。二度目の受賞になる女性監督SHARMEEN OBAID CHINOY シャ―メン オバイド チノイは、若い女性がシャリアローと呼ばれ、名誉殺人といわれる慣習によって殺されている現実を告発した作品をフイルムにした。パキスタンなどモスリムの一部の地域では、女性が親の決めた結婚に逆らったり、身分違いの男に恋をしたりすると、その女性の兄弟や父親が、当の娘を殺すことが名誉とされる宗教的慣習がある。パキスタンでは毎年1000人余りの女性がこの名誉殺人で処刑されている。監督は受賞の檀上スピーチで、「今年パキスタン政府は、やっと名誉殺人が違法であることを正式に認めた。フイルムのパワーがこうした動きに通じていると考えると嬉しい。」と述べた。
このようにアカデミー賞も今年は、かなり辛口で告発型、政治色の強い、社会性のある賞になったことは、良い事だと思う。単なるお祭りではなく、考えるための集いになったことは、フイルムの本来の目的に沿ったことであるからだ。
ストーリー
1944年10月 アウシュビッツ ビルケナウ収容所
サウルはハンガリアのユダヤ人で、アウシュビッツに捕らわれ、同じユダヤ人が殺されたその死体を処理するゾンダーコマンドと呼ばれる特殊班で働かされていた。班の囚人たちは、自分たちも数か月後には、処理される側に送られることを知っていた。
列車で次々と収容所に送られてきた人々に、熱いシャワーを浴びると偽って、衣服を脱がせると、ガス室に閉じ込める。そこがシャワー室でないと悟った人々が、逃げ出そうとして騒ぎ出し、室内は怒号と泣き声で、阿鼻叫喚の様相となる。しかしサウルたちは淡々と、人々が残していった衣類や宝石や時計、財布などを仕分けていく。 それが終わった頃には、ガス室を開け、死体を積み重ねて運び出し、汚物と血で汚れた床を洗い流す。運び出された死体は積み重ねられ、ガソリンで焼かれ、灰は川に捨てられる。休む時間などない。ゾンダ―コマンドは、てきぱきとドイツ兵に命令されるまま仕事をする。
ある日、ガス室で沢山の死体が折り重なっているなかで、一人の少年が奇跡的に生き残っている姿が発見された。少年はすぐにドイツ衛生兵によって窒息死させられ、解剖に回された。それは15歳のサウルの息子だった。
ユダヤ教では死体は火葬しない。燃えて身体がなくなったら魂がよみがえって再生することができない。サウルはせめて自分の息子だけは土葬してやりたいと願う。サウルは解剖を終えた同じユダヤ人の医師に、死体を自分のために確保しておいてほしいと頼み込む。次にラビを探さなければならない。ラビの祈りとともに埋葬したい。
サウルは仲間たちからラビが他のゾンダーコマンドにいることを知らされる。サウルはそのゾンダーコマンドに潜入してラビを探し出す。ついに見つけ出して息子のために祈りを捧げてほしいと頼み込むが、それをラビは拒否する。それでも食い下がるサウルから逃れようとしてラビは、とっさに川に落ちて投身自殺しようとする。サウルは川からラビを救い引き上げたが、ラビはドイツ兵により銃殺されサウルは生き残った。
サウルは息子の死体を自分のベッドに運んできて横たえる。必死でラビを探すことを諦めない。一方で仲間たちの間では、脱獄計画が進行していた。サウルは女子房から、銃に詰める火薬を受け取りにいく任務を指示される。極秘に首尾よくサウルは火薬を手にするが、帰りに新しいユダヤ人たちが列車で到着し、彼らが駅に着くなり銃で殺される現場に居合わせた。銃から逃れようと人々が右往左往する大混乱のなかでサウルはラビを見つけ出す。サウルはラビを自分の部屋に連れて来て、ひげを剃り、自分の囚人服を与え、ゾンダーコマンドの一員に仕立て上げる。
とうとう翌日にはサウルのゾンダーコマンドが、今度は処分されるという情報が入った。時間がない。脱獄計画は突然現実のもにとなった。反乱は一瞬のうちに始まる。圧倒的多数のユダヤ人囚人に比べてドイツ監視兵の数は限られている。サウルは息子を肩に背負いながら、ラビを連れて逃亡に成功し、他の仲間たちと、森に逃げ込む。森で息子を埋めようとして、サウルは今まで自分の体を盾にして、その命を守って来たラビが、偽物ラビだったことを知らされる。ドイツ軍の追手が迫っている。サウルは埋葬することを諦めて、遺体を背負って川に飛び込む。しかし急流に飲まれてサウルは、息子の遺体を手放してしまう。溺れているところを仲間に救い出されて、向こう岸に着いた。十数人の生き残った仲間と共に、山小屋で休息を取る。脱獄計画のリーダーは、森の中でポーランドのレジスタンスに合流する計画でいた。しかし、みな疲れ切っていて、しばらくは動けない。そんな囚人たちを、ひとりの近所の農家に住む少年が、不思議そうに眺めている。サウルは少年を前にして、そこに自分の息子がよみがえって目の前に立っているように思えた。息子は生き返って自分の前に立っている。息子の邪鬼のない目で見つめられて、サウルは自分の心が休まる思いだった。息子は殺されたり焼かれたりせずに、自分の前にいるではないか。
しかし、その山小屋はすでにドイツ兵に囲まれていて、、、。
というお話。
人は悲しいとき言葉を失う。
極端に会話というもののない映画。あるのは音だけだ。鉄格子の錠が下りる金属音。収容所のサイレン。銃弾の音。軍靴の音。ドイツ兵の短い命令、血で汚れた床を洗うブラシの音。断末魔の悲鳴。絶望したすすり泣き。何百人の人々が映し出されて、生と死のドラマが進行しているにもかかわらず、人の会話、人と人が話す音が全く失われていることの恐怖。
この恐怖感と、極度の緊張が、映画が始まってから終わる瞬間までずっと続く。
カメラが焦点を合わせるのは大写しになったサウルの顔だけ。でもそのサウルの後ろでたくさんの、もうたくさんの数えきれない死体が折り重なっていて、それが処分されていく様子が、焦点のないぼやけた背景として映し出されている。
ぼやけている背景が本当に事実だったことで、焦点の当たっている男の顔の方が抽象だ。
背景の焦点をぼかすことによって、より強い事実を表現している。なぜなら、ぼやけた背景では一体どんなことが行われているのか、何が起きているのか、わたしたちは想像力を駆使する必要もなく、事実として知っているからだ。600万人の声なき声を聴いているからだ。圧倒的な暴力の前に沈黙するほかはなかった人々の声が聞こえる。焦点を失ったぼやけたフイルムから、言葉のない人々の姿がはっきりと見える。
フイルムの訴えるパワーを再確認させられる映画だ。優性思想によって蹂躙された人々の沈黙の重さを噛みしめる。70年前にあったことだが、これからのことでもある。言論統制が始まっていて、ジャーナリズムがその機能を果たしていない。人々が沈黙に向かっている。この映画は、昔の話をしているのではない。
童話としての「ホロコースト」
サウルは遺体となった息子を弔うために奔走する。それが結果としてホロコーストの一部始終を描写することになっており。そして観客も事実(であろう)を知る作りになっている。だから息子の遺体はそのために必要だったのか?と途中までは思っていた。
それが最後で間違いだったことに気がつく。
サウルが最後に少年を見る表情が恐怖ではなく優しげなのは、少なくともあの少年にはサウルは永遠に(記憶)に残るからだ。
感覚を遮断していた “モノ” ではなく、あくまでも “ヒト” としてだ。
サウルが息子でもないものために奔走していたのはそのためだったのだ。“ヒト” としての存在を示したかった。だからこそなのだ。
間違いなくあの少年のサウルのあの時の表情は永遠に残るだろう。もしかしたら年をとったら孫にでもその時のことを話すかもしれない。
そして、それこそが彼の望んだことだ。
そうゆう意味では、これは童話でもある。しかし、恐ろしく悲しい童話でもある。
八大地獄よりも・・・
去年から何作かナチス関連の映画を観ていてその酷い歴史を否応なしに見せ付けられるにつけ、人間という動物の業の深さや際限なく、行き着くとこもない悪行への突進に、気が滅入る事から逃れられない心理に陥ってしまっているが、この作品は正にその正当(表現が悪いので陳謝)なストーリーなのかもしれない。
地獄でいうと鬼の役目になるのであろうか、“ゾンダーコマンド”というユダヤ人であるにも拘らず、ドイツ軍の手先のように収容所の小間使いにさせられ、同胞の死体処理をさせられる主人公が、死体の中から自分の子供(と信じ込んでしまった)をみつけてしまい、その子供の埋葬をユダヤ教に則って葬儀をしたいと行動を起こすストーリーであるが、その行動と時間軸を沿うように、ゾンダーコマンドによる武装蜂起の経緯、ガス室での虐殺では間に合わず穴の中に火炎放射器や銃で次々とユダヤ人を殺しつつ埋めていく過程、アウシュビッツ内の貴重な証拠写真の撮影方法等が絡まりながら進んでゆく。
収容所内で“ラビ(仏教で言うところのお坊さん)”を探して回るのだが、ゾンダーコマンドとしての仕事もあるので、巧くサボりながら捜索していく過程で、色々な仕事内容を手伝わされたりと、アウシュビッツ内での出来事がコンパクトに紹介される作りになっていて、脚本の完成度が高いと感じた。そして画角が小さいこと、ずっと主人公を追いかけて撮るカメラワーク、引きがないため、主人公の周りはピントをわざとぼかし、地獄感を抑える表現にしているところと、巧い手法が随時に感じられる。テクニカルな撮影が光るが、しかしこれはあくまでも人間の蛮行をこれでもかと訴える内容である。そして、最後、逃避行の際の川で流されてしまった息子の亡骸は、前半の折角みつけた“ラビ”が川に投身自殺を試みるところを助け、しかしその騒ぎのせいでドイツ兵に撃ち殺されてしまうシーンと対になり、因果応報な意味を感じ取れた。命からがら逃げ込んだ廃屋で、地元の子供がその廃屋を覗き込み、まるでその姿は生き返った息子だと思った主人公は、この世の最後の笑みを浮かべる。次の瞬間、追いかけてきたドイツ兵に蜂の巣にされてしまうのだが・・・
なんとも救われないラストであり、その不条理さに心を締め付けられ、空虚感がエンドロールが終わってもなかなか溶けない。
アカデミー賞外国映画部門入賞は当然の結果だったのではないかと推薦する作品である。
埋葬にこだわるワケ
サウルは、アウシュビッツで同胞ユダヤ人(ここでは「部品」と呼ばれる)をあたかも工場で廃棄処理をするかのごとく、死体処理をこなす作業員(「ゾンダーコマンド」という)。
カメラはサウルの1m以内にずっといて、画面の6、7割はサウルか、サウルの背中。背景のピントは意図的にボケている。サウルが画面にいないときは、ほぼサウルの視界の映像。
もう、自分までもゾンダーコマンドになった疑似体験を押し付けられる感覚。
うず高く積み上げられた肌色の物体に、こっちまで何の感情も消えてしまいそうになりそうだ。
サウルは、作業場で「息子」を見つけ、埋葬することにこだわるのだが、自分勝手な行動のおかげで周りを巻き込み、仲間に多大な迷惑をかける。
おいおい、死体の処理になんでそこまでこだわるんだい?
生きている人間はどうでもいいのかい?
と、じれったさばかりが募り、そのくせ、あのラストの笑顔の示す意味がわからず、困った。
そこで、町山智浩さんのブログへ。(もともと、ラジオ「たまむすび」で町山さんのおすすめだったので観たからだ)
なるほど!
自分の不勉強が歯がゆい。
そういえば、息子がいたか?って聞いていたな。
そうか、象徴か。
たしかにユダヤ教は、魂の再生を信じているな。
映画の中でも、「お前が記録していることは知ってるぞ。」って言ってることや、土管にカメラを隠すことや、それらはこの映画の資料の存在を暗喩しているわけだ。
なにかを残さなければいけない。そう思うから「埋葬にこだわる」のだ。だからこそ、流されて絶望の時に、あの少年に出会い、「ああ、これで・・・」と。あの笑顔になるのか。
森の中でありながら、やけに開放感を感じるのはそういう演出もあったのだろう。
サウルの願いは、こうして映画になったことでいくばくかは叶えられたと願ってやまない。
(ネタバレ過ぎるといけないので、抽象的な表現で。詳細は、町山さんのブログをググってください。)
儀式を通し救済される人間性
予告編が終了すると、スクリーンの幅がぐぐっと狭まる。
珍しい対比の小さな画面の中からサウルの顔が浮き上がり、観客は彼の「中へ」入っていく。
収容所で同胞を処理するゾンダーコマンドの労働が、臨場感たっぷりに描かれる。
監督が言っていたように、「サウルを通して収容所をのぞき見する」という感覚。
同胞をガス室に閉じ込め、死体をひきずり、死体を燃やし、ガス室を掃除する。傀儡人形のように感情を押し込め、ひたすら労働に従事するゾンダーコマンドたち。
今作ではドイツ兵の描写に特別な残忍さはない(ユダヤ人を愚弄するシーンはある)。
ユダヤ人は死んで当たり前であり、殺すことは空気を吸うように自然。罪悪感もないし、羨望が隠れ潜む憎みやそねみという感情の発露の対象でもない。絶対的優越。
今まで観た作品群ではホロコーストの描かれ方に違和感があった。
いくらユダヤ人が国家を持たない根無し民族といったって、あんなに従容とガス室に送られるものなのか。
600万人もいて、抵抗勢力はなかったのか?そもそも600万人もの人間を(合計数とはいえ)軍が管理できるのか?600万人も従容と死を受け入れたのか?
何かの映画で(サラの鍵だったかもしれない)、「俺はユダヤ人自体に何の恨みもない。ただ抵抗すらしないユダヤ人はあまりにも勇気が無いから、尊敬するに値しない」という、私の疑問を映したような台詞があった。
だが調べてみると、レジスタンスも組織されたし、ロシアと手を組む多きな勢力もあった。なので、ひたすらユダヤ人を哀れな存在として描いていない収容所での暴動シーンは気に入った。
また、「伝統的なユダヤ語を話せない」ハンガリー系ユダヤ人、ゾンダーコマンド内でのヒエラルキー、ラビと偽りサウルを騙す男など、ユダヤ人も一枚岩ではないと思った。死にたくない者たちが、同胞を集めて扉を閉める、穴へ突き落とす。
次は俺たちだ、という段になって取り乱すゾンダーたちには、「自分だけ生き延びればいい」という思いも垣間見え気持ち悪かった。
反乱を企てるリーダーがサウルに投げかける「息子なんかいない」という台詞は、本当にいないと言い聞かせているのか、サウルの行動を諫めているのか、翻訳からはわからない。
結局「息子」はサウルの人間らしさへの尊厳の象徴だったのか、本当に息子だったのかはわからない。
せっかく生き延びた少年がむざむざ殺されてしまったことが、サウルの心に何かをともしたともいえる。
この映画で語られているのはホロコースト云々というより、極限下で人間の魂を救うのは、一体何かということである。
私はそれを神とは認めたくない。宗教戦争は一神教による選民思想に拠るところが大きいから。
サウルにとって葬儀にこだわったのは神からの救済かもしれないが、私は「儀式」を通しての「人間への尊重」が、ひいては自分自身の救済にもなるということだと思いたい。
す、すごい、、。
この映画を見て、私自身の大学の卒論を思い出しました。題名「ヴィクトール・E・フランクル著『夜と霧』における人間の尊厳」。どうですか?この大それた、学部生には無謀なテーマは、、。内容は正直に言って、めちゃくちゃになったのに、どうして卒業が認められたのか。今、改めて読み返してみると、「序文」が結構、我ながらいい線の問題提起のような、、。A4の紙1枚ちょっとの中に、ホロコースト 差別 人権のことが書けていたので、指導していただいた亡きΦ先生も認めてくださったのかな?と、思い出の写真なぞ見ながら考えました。ご存命なら、この映画を、間違いなくご覧になったはず。そして、学生に感想を話して下さったはず。「人間、優しさが一番だよ」といつもの感じで。
カメラワークがおもしろい
サウルのセリフらしいセリフはほとんどなく、作品中の彼の周りの対人関係も確定されることもない。ただただサウルの動きを追いかけるようなカメラワークに見入ってしまった。ピントの外れた背景の中にもナチスの大虐殺の悲惨さが多々見られ、辛い気持にもなった。ラストのシーンでの彼の微笑みがかなり印象的。
やりきった感もあったのかな…
タイムカプセル
人間の息づかいが聞こえてくるかの様に至近距離から撮影された長回しのカメラに何度も目を覆いたくなる。私は劇場にいるのか71年前の強制収容所にいるのか。
ゾンダーコマンド。
わずか数週間数ヶ月の命と引き換えに、同胞であるユダヤ人の命を処理する仕事。
人は今日殺されない為に、明日殺されるかもしれないことを承知で根拠のない「命」と引き換えに「尊厳」を捨てる。「命」は「尊厳」よりも勝る。
しかし、サウルは息子と言われる少年の遺体の埋葬に「命」の危険を冒してまでも執拗に執着します。遺体となった少年にはもう「命」はありませんが、少年はサウルにとって自分の「命」以上のものです。サウルが「命」と引き換えにしてでも守りたかったもの、それは「人間の尊厳」です。
「サウルの息子」という作品は、決してユダヤ人強制収容所だけの話ではありません。己の命と引き換えにして「人間の尊厳」や「民主主義」を勝ちとってきた名前のない数えきれない人達の物語です。つまり、サウルとは名もなき死者達の象徴なのです。
劇中ゾンダーコマンド達は、この凄惨な事実を瓶に詰め未来に託しますが、似た様な描写を「マッドマックス怒りのデスロード」でも観ることができます。地獄の様な現実を前にして、人が唯一託すことができるのが「未来」であり「種(子孫)」であると。
サウル達は「命」の危険を冒してまでも未来の種である息子達へ「人間の尊厳」が詰まったタイムカプセルを埋め、届けてくれました。そしてそのタイムカプセルは私達が未来の息子達にもまた届けなくてはいけないものなのです。数えきれない名もなきサウル達から預かったタイムカプセルは今、ハンガリーに、イスラエルに、アメリカに、日本に、全世界に生きる私達に託されています。「唯一の命」の重みと共に。
地獄の底に人間性は現われるのか
第二次大戦末期のナチスのユダヤ人収容所施設。
舞台となるのは収容所とは名ばかりの虐殺施設(たぶん、アウシュビッツ収容所なのだろう)。
サウルはユダヤ人でありながら、ナチスのために働くユダヤ人。
彼らはゾンダーコマンドと呼ばれ、虐殺行為の一端を担っている。
しかしながら、生き延びることはなく、数か月で抹殺されてしまう運命にある。
ある日、サウルは他の収容施設から送達され、ガス室送りになったユダヤ人のなかに、息子の姿を見つける。
息子と思しき少年は、ガス室の中でも生き延びたが、まもなく、ナチスの手で殺されてしまう。
それまで、生き人形のように日々の労働をこなしていたサウルに、人間として生きる動機の一縷の綱が沸き起こる。
それは、息子の死体を焼却処理にせず、ユダヤ人として埋葬してやりたいということだった・・・というハナシ。
と、このように書くと、なんだかヒューマニズム溢れる映画のように思えるが、そんなことはない。
映画から発散されるのは、ユダヤ人収容所で繰り広げられていた非人道的行為に対する遣る瀬無さ。
ひいては、人間でいることすら拒否したくなる(せざるを得ない)情況である。
映画は、その非人道的行為を正面からは写さない。
常に、サウルの背後から垣間見るよう、サウルの後ろ姿にピントがあった画像で写していく。
よって、観客が観るそれらの行為は常にぼやけている。
ぼやけているが、行為は常にリアルである。
この演出には驚かされる。
それらのぼやけた行為を直視しようとし、しかし結果として目を背ける、いや観ないことを装う。
そんな効果があるのだろう。
なので、観客側は眼前で繰り広げられる非人道的行為に徐々に麻痺していき、サウルと同化する。
この映画の特筆すべきところは、この点である。
しかし、この演出にこだわるがゆえに、映画としての幅が狭くなってしまった。
サウルが感じる、息子と思しき少年の死体を埋葬することにこだわる気持ちが、真実かどうかあやふやなのである。
映画後半で、サウルには息子などいないと、周囲の人々から指摘されるている。
つまり、サウルはこの地獄のなかで正気を保っていたのか、いなかったのか。
これがよく判らない。
たぶん、巻末の結果から観れば、彼が正気を保つための自己欺瞞だと思われる。
とすると、息子のエピソードは、サウル自身の思い込み、よくいえば人間性を保つためのウソなのだろう。
そしてもうひとつ、サウルの息子の埋葬の執念と並列して描かれるのは、他のゾンダーコマンダーたちの叛乱の様子。
叛乱の企ての段階。
サウルは、この企てのなかで重要な位置づけにあるように描かれている。
先の、息子の埋葬がウソの世界ならは、この叛乱はホントウの世界である。
しかし、その企てについてもサウルの眼を通して描かれるため、何がどうなっているか、いまひとつ要領を得ない。
よく観ればわかるのかもしれないが、何故、サウルが叛乱の首謀者たちに重宝がられているのかはわからない。
ホントウの世界は、ただただ瓦解していくだけ。
で、映画としての幅が狭くなってしまったというのは、ウソもホントウも一緒くた、そんなことにこだわっていられない状況だ、ほら、そうだろう、というように映画が終始してしまったこと。
いま一歩引いて、物事を観る勇気がほしかった。
観ていて思ったのは、『炎628』。
非人道的行為は同じぐらいなのだが、あちらは少しだけ引いて観ていたように感じられました。
辛かった
映像に酔ったのか、内容に気持ち悪くなったのか、途中少し目を瞑ってしまった。映画館でなかったら見切れなかったから映画館で観て良かった。
去年「野火」を観た時に、ある種のファンタジー性を感じて、現実なのに現実と思えないような、本人にとって、あんまりな事態は、そうなってしまうのかもしれないと思った。
サウルの息子も、背景がぼかされ、何が起こっているのか分からないようなところに、放り出されてしまったような、さらに、自分が何をしているのかさえ分からなくなってくるような、そういうのは夢を見ている感覚に近いかもしれない。
野火の突き放された主観描写とはちょっと違って、サウルは自分の意思で行動しているように見えるけど、正常じゃないようにも見えて、かえって怖い。
本当に息子だったのか、最後の男の子はなんだったのか、分からなかったけど、本当に現実にああいうことが起きたということが一番非現実的に思えて恐ろしかった。
追記
町山さんのブログを読んで、とても納得して、改めて、凄い映画だったなと思った。
3/1(火)2回目 新宿シネマカリテ
最初と最後が繋がっていて、サウルはずっとあの世界の中に閉じ込められている、という見方、亡霊のように・・・
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