サウルの息子 : 映画評論・批評
2016年1月19日更新
2016年1月23日より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにてロードショー
歴史の1ページに収まりかけた事実と人人人の息づかいを“現在”のこととして体感させる
年明けに飛び込んだヴィルモス・ジグモンドの訃報。「ロング・グッドバイ」「未知との遭遇」「ディア・ハンター」とアメリカン・ニューシネマを支えた撮影監督は、祖国の動乱をフィルムに収めアメリカに渡ったハンガリー人だった。そのハンガリーから世界に飛び立った新たな映画の星が監督ネメシュ・ラースローだ。
初の長編「サウルの息子」でいきなりカンヌのグランプリを獲得、先日のゴールデン・グローブ賞でも外国語映画賞を射止めオスカー同賞への期待も高まっている。注目の新鋭はゴールデン・グローブ受賞スピーチをこんなふうに締めくくった。ホロコーストは歳月を経て具体性をもたない漠然とした大きな物語となってしまった。けれども私にとってそれは個として、顔をもつひとりの人間の物語として記憶され語られるべきもの、そこにいたひとりの顔を忘れずにいたい――。「サウルの息子」はまさに、そこにいたひとりの顔にフォーカスして歴史の1ページに収まりかけた事実と人人人の息づかいを“現在”のこととして体験、体感させる。
1944年10月、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所の1日半を同朋の死体処理の任務に従事する特別部隊ゾンダーコマンダーのひとり、サウル・アウスランダー(演じる詩人ルーリグ・ゲーザの顔も忘れ難い)に密着して追う映画は、断固として視野狭窄的な視界を守り、見せないことで見せ、語らないこと、説明しないことで死体製造工場と化した時空の生々しい物語を直截に伝えようとする。そんな“工場”で非人間化され、ただただ毎日をやりすごすサウルが自らの息子と信じる少年の遺体を真っ当な方法で埋葬しようとして人としての使命の感覚に貫かれていく。かたや特別部隊が蜂起に向けて結束する中で、ホロコーストの現実を痛烈にみつめる映画に映画らしい(誤解を恐れずにいえば)わくわくが呼びさまされていく。ブレッソン「抵抗」、はたまたジャック・ベッケル「穴」とも通じるような、何かを目指してまい進する人を活写する映画のスリル。人類の歴史の汚点に迫る力作をものした新鋭のストーリーテラーとしての真価がそこに見逃し難く輝いている。
(川口敦子)