映画 聲の形のレビュー・感想・評価
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リアリティと創作のはざまで
3年前に観る機会がありましたが、そのときは冒頭しか観れずじまいで今回テレビ放映でやっと最後まで観られました。
非常に評判の良い作品なので、物語についてあれこれ言うのは野暮ですが、とても細部までこだわって作られている作品なので、観る人は自身とリンクさせ感情移入しながら観ることになると思います。
しかしそうなると、登場人物が美男美女ばっかりだったり、舞台が岐阜らしいが誰も訛ってないし、今時あんなに高圧的で、児童の名前を呼び捨てにするような小学校教師なんて存在できないだろうし、鯉がいるような川があんなにきれいだとは思えないし、そもそも今の時代、害魚である鯉に餌あげちゃいかんだろうし、パンなんか投げ入れてもっと水質悪くしてどうするんだとか云々、内容にリアリティがある分、リアリティに徹底しきれない、またはあえて美化している部分によって、この作品があくまで作り物であると何度も再確認させられてしまいました。
作品作りに徹底的にこだわる京都アニメーションの作品ですから、原作をアニメ化するうえで相当な試行錯誤があったと思います。
たとえば劇中何度も登場する美登鯉橋のかかっている水門川?がおそらく実際はあまりきれいではない川だろうに、印象的な映像にするためにあえて美しく見せた(けど、実際はあまりきれいではないことを水草の量で表現した)んだろうとか、主人公たちが何度も鯉に餌をあげることで、聖地巡礼と称して外来種かつ害魚(飼えばわかるが鯉は相当水を汚し、他の生き物を食べつくしてしまう)である鯉のいる川にパンを投げ入れ環境&水質汚染にいそしむ人々が多く訪れるであろうことを想定し、舞台である大垣市と相談し、それでも観光産業につながるなら良いという市の判断の上で制作したんだろうとか、特に小学校のくだりは、20~30年前の価値観の小学校で、もしあんな学校が現代にあればネットやマスコミにかなり叩かれるだろうとか等々、リアリティと創作とのはざまの試行錯誤の中で、最終的に劇中のような表現方法をとったのであろうと、ついつい想像させられながら観てしまったため、物語はよい内容なんだろうけども、何度も現実に引き戻され、あくまで創作物であると何度も確認させられてしまいました。
これは観る者の生活環境に近いリアリティがあり、共感する部分の多い映画あるあるですが、共感して感情移入してはリアルではない部分が浮き彫りになり現実に引き戻され、また共感し感情移入してはリアルでない部分に興ざめさせられ、ということがよくあります。
SFやファンタジー、歴史ものや非現実的な設定の内容なら観客は最初から割り切って、その世界に流れるパラダイムを読み解きながら映画を観進めるものですが、その作品が我々の現実の世界を舞台とした場合、当然我々は現実の生活において考えるのと同じように、作中での出来事に対して、「こうなったらこうするだろう、こうなったらこう考えるだろう、こうなったらあれもこうなるだろう」と考えながら観るわけです。そのため、かえって現実との齟齬が物語の感情移入への妨げになってしまうことがあります。
しかし正直、アニメ作品でこのような感覚は初めてで、アニメがかなり説得力をもって我々の現実に近づいてきたことには驚きです。
逆を言えばこの作品がそれだけギリギリまでリアリティを追求した作品であるという証拠でもあると思います。
上に挙げた小学校の件や川や鯉の件などは、小学生の子供を持ったことがなかったり、外来種について考えたことがない人々にとっては全く引っかかる要素のない部分でしょうし、この作品のターゲット層に対し、物語を印象付けるための演出として誇張や美化をした部分なのだと思います。
そのような面で、今までは我々が生活する現実世界とは非なるものだったはずのアニメ作品が、我々が生きている現実での思考方法で考えさせられ、現実での対人関係で相手の感情を読み解く方法で、登場人物たちの言動からその感情を読み解くことができるアニメ作品が現れてしまった、ということに驚かされた作品でした。
視点は良かったけど所々理解不能な所があり消化不良
とても美しい映画でした。 絵も映像表現も音楽も声も物語も。 傷つき...
とても美しい映画でした。 絵も映像表現も音楽も声も物語も。
傷つきやすく脆い痛々しい感情や、もどかしい迷いを丁寧に描いてる。
「周りがみんな他人に見える孤独」「他人の顔を直視できない、向かい合えない、閉ざした心、みじめな劣等感」たくさんの感情をこめて、「X」で顔が見えないというシンプルな映像で表現する、アニメでしか表現できない表現が見事。
ラストシーンの表現はすごく感動した! 主人公と一緒になって泣いてしまった。同じ光景を見ている、と共感できた。まるで世界に祝福されているような幸せ感が、身近な何気ない光景の中でリアルに伝わってきた。
この「X」の場面をはじめとして、言葉では一言も説明せずに、映像だけで感覚的に、かつ鮮やかにわかりやすく表現する場面が多くあり、そこにはとても静かな、まるで水の中の無音空間のような、自分の心臓の鼓動だけがかすかにきこえるような感覚の、不思議な音楽が流れている。
まるで、耳のきこえない少女の感じる世界と、身体的には障害なんて無くても 心に障害を背負っているかのような生きづらさを抱える 登場人物たち(そして私たち)の感覚がリンクしていくような気がする。
(京都アニメーションの表現は本当に素晴らしい!!✨)
とても、感動した。
それでも批判する人もいるように、確かに、完璧な感動作品だ!とすべてを絶賛できるとは限らない。
やっぱり、自分をあんなに酷くいじめていた人達を、あんな風に「友達になりたい」「会えて嬉しい」「好き」なんて、私なら思えない。硝子は純粋すぎて、心が綺麗すぎる。天使かと思えるほど愛らしくて、ちょっと現実味を感じないほどのヒロインだ。
硝子のように、「自分にちょっかいをかけてくる(実際は酷いいじめだが)=自分に興味をもって構っている → お互いの気持ちが伝われば、つながれる、友達になれる」と思い、そう信じることができるのは、すごい。硝子は儚げに見えても、本当はとても強い心をもっている。
(しょうこと読む名にも色々な漢字があるけれど、この少女は硝子、ガラスだ。 儚げですきとおって光りを映してキラキラと輝くけれど、脆くて、傷つきやすく壊れやすい。壊れてしまうと、他人をも傷つけてしまう。 現実には人名に硝子と付けることはないが、この少女のイメージにぴったりだ。)
現実の世界なら、あんな酷いいじめを受けたら、笑顔なんか失くしてしまい、どんなに可愛らしい子どもだって、表情は暗くなり 可愛く見えなくなってしまう。本当はとても可愛らしい子なのに 落ち込んでいるせいで可愛く見えない(いわゆるブスに見えてしまう、いや、ブスにされてしまう)子は、現実にいくらでもいる。(大人から見たらみんな可愛く見えても、子どもは子ども同士ではシビアだ。理想的な容姿でない人はみな簡単にブスというレッテルを貼られてしまう。)
そして、主人公の少年がいつまでも彼女のことを忘れられずにいるだけでなく 何度も勇気を出してつながろうとしたのは、良心の呵責と贖罪の想いだけではなく、彼女があれほどの美少女だったからだと感じてしまう。現実の、いじめられて暗い表情をしている少女だったなら、贖罪したい気持ちは起きても、つながりたい 友達になりたい 今度は自分が守りたいとまで、あんなに強く思うだろうか、と感じてしまう。
そんな違和感はあれど、批判なんて思わない。しょう子のようにポジティブに他人を(むしろ敵さえも)「友達になりたい」と受け入れる強さ、純粋さは、レアケースではあっても、あり得ないわけではない。重い障害をもつ人が「この人達は、自分を障碍者だからと遠慮して敬遠するのではなく、対等感と興味をもって近づいてきた」と嬉しく感じることも、あるのだろう。障碍者とひとくくりにしがちな私達と同じように、人それぞれみな違う感じ方や性格をもっているのだから。
そういうことも含めて、すれ違う人達の心を、みにくさも目をそらさずに描き、繊細に表現した素晴らしい作品だと思う。登場人物はみな未熟で 自分を守るのに必死で、傷つけあうけれど、本当の悪人は誰もいない。
(しかし、序盤の、担任教師の描き方は不満だ。数多くの作品にあのような教師が出てくるが、現実にはレアケースだ。あんな酷い教師は普通いない。いじめに遭った経験のある子どもが、記憶の中で 美化の逆に醜悪化して、極悪な印象に変えてしまっていることが多いのだろう。)
余談ではあるが、この作品の力を信じ、その影響力に願いを託して、これまでにTVが放送したことにも、とても特別感を感じる。NHKが、夏休み最終日(統計上、未成年・学生の自殺率が年間で一番多い日付。つまり、生活の変化に対応できず不安や憂鬱に駆られてしまう子どもが年間で一番多い日付)に放送したこと。そして2020年は、夏休み直前(翌日から夏休みになる学校が多い、今年は7月31日)に日テレが放送したこと。(コロナ禍のオンライン授業が増えたことで、これまで不登校だった子達がオンラインで出席するようになり、その後、通常登校が始まると彼らも普通に登校できるようになったという事例がたくさん報告された。 せっかく笑顔で通えるようになった学校が夏休みになってしまい、生活スタイルの変化で、また不安や憂鬱に駆られてしまわないか、それを事前に防ぎたくて、子ども達を勇気づけるために放送する意図もあったのでは。 だって、京アニの新作映画ヴァイオレットの宣伝が狙いなら、映画公開日が近づくもっと後の日付のほうが効果的だろう。)
この映画は、多くの「オトナたち」の心の琴線をも揺らし、希望を見せてくれたのだろう。
細部のつくりこみ、しっかりした演出
私はアニメを好んで見ることがなく、せいぜい宮崎駿や新海誠を見るくらいです。
ゆえに、まずテレビでは観ませんので、観るとすれば「映画」という単位です。
京都アニメーションを覚えていたのは、これを観たからでした。
自分がゆるせない主人公石田くんの贖罪の旅=成長の行程を描いたアニメ映画でした。
彼はいじめっ子だった過去の自己嫌悪にかられていて、人の顔を見ることができません。
その心象を反映させて、クラスメイトの顔にはバツが貼ってあります。
石田くんが、気持ちをゆるした人だけバツが剥がれます。
永束が剥がれ、川井が剥がれ、真柴が剥がれ、徐々に石田くんの贖罪の旅に道連れが増えるのです。植野はいわば必要悪としてドラマを牽引します。
顔のバツは心象の具現であり、アニメであることの必然性であり、かつクライマックスへ持ち越す最大の布石でもあります。
それにプラスして、つくり込まれた魅力的なディテールがありました。
石田母のピアス引っ張って耳朶切ったときの血痕。
いつもタグ立ってる石田くんの一張羅。
とてもいいパン。
お笑い担当の永束くん=「もっかい言ってみろやー」には本気で笑いました。
好きと月と鉢飾り。
ばあちゃんの梅ジュース。
「がんばれゆずる」。
頻繁につかわれる点景のカットシーン、鯉、蝶、花、木々、養老天命反転地。
声だけの姉と人種不明な旦那。
描写がセリフのような説得力を持っていました。アニメに詳しくないゆえに不見識でしたが、監督は、かなり見せ方を知っていると思いました。129分ありますが、心象や点景の挿入で、琴線を離しません。とりわけ、それぞれが、それぞれの場所から花火を見上げるシーンは素敵でした。
そして、学園祭のまんなかで、人々のバツがいっせいに剥がれるラスト。反則的なまでにエモーショナルで、スクリーンの石田くんといっしょに、涙がでました。
亡くなられた方々のご冥福を祈ります。
独特な表現で、今までにない映画。
君に生きるのを手伝ってほしい
完璧でした
後悔はあるから
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