ニーゼと光のアトリエのレビュー・感想・評価
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『ロボトミーは自滅した』のが真実。
彼女の治療の施術はロボトミーなどの物理的に過激な施術のアンチから起こっている事は事実です。ですが、彼女の施術がロボトミーに取って代わっったと言うわけではありません。
私は医者ではありませんので、技術的な医学の療法は分かりませんが、彼女の療法では全ての精神病患者に適応するとは思えないからです。
結論を申します。
ロボトミーは自滅して終了します。彼女の精神病患者に対する熱意がロボトミーを自滅に追い込んだ訳ではありません。
ですから、精神病患者に対する施術には問題は残っていると私は思います。例えば、薬物による療法は残ったままです。果たしてそれが間違いが正解かは分かりませんが、それだけ、精神医学は難解なものなのだと私は感じます。
月に行く事を科学の発展と考えずに人間の脳みそと言う広大な宇宙開発に取り組むべきだと私は感じます。
まぁ、映画ですから、見た目が良くなればヒューマンなドラマになると言うことだと思います。
ロボトミーが自滅した証拠をもう一つ示します。それは優生保護法が残ったと言う事です。つまり、精神医学が人間をどう捉えるかはロボトミーが否定された後でも残った証拠だと私は考えます。つまり、方法論が変わっただけで、具体的には、『精神病患者を、どうやって黙らせるか』が変わっただけだと感じます。但し、薬物によって精神を安定させる事が間違いとは言い切れません。
兎に角、人間を『ゴミ』と『ゴミじゃない』と選別する考え方は、残ったと言うことです。ゴミでは存在出来ないと言うことでしょうから。
ゴミ
「何がゴミなのか人間は決めつける」 「種はゴミなんかじゃない。植えるものだ」 精神病患者はゴミではないし、自然界にもゴミは存在しません。そもそもゴミという概念を作ったのは人間なんですよね。極論すると、人間を排除した先にあるのがユダヤ人強制収容所なのだと改めて思いだしました。 精神疾患の人は私達には見えない世界で生きている為、それが見えない人達には理解されないようです。ニーゼは医者でしたが、患者と一緒に見えない世界を理解し寄り添っていました。今後科学が進歩することによって精神に関わる沢山の事が解明されると、ニーゼのやった治療の科学的根拠が示される気がします。そしたら世の中少しは精神病に対する偏見がなくなるかもしれません。
ニーゼ先生の患者に対する思いに涙
1940年代まだまだ男性社会の時代に精神病棟で
患者のために戦った女医ニーゼ先生の物語
精神病の患者の治療はロボトミーや電気ショックなど
人を人とも思わない恐ろしい治療を行っていた
ロボトミー治療はアイスピックで簡単に出来ると言う
しかしニーゼ先生は違う
患者だって人間だ
乱暴な治療はせず 忍耐強く彼らと向き合っていく
面倒な相手はあら治療や暴力の方が
楽で済む
それでいいのだろうか?彼らをさらに精神的に追い詰め
乱暴者はますます荒れてしまう
スタッフ提案でニーゼ先生はみんなに絵を描かせることにする
すると彼らに奇跡が起きる
無表情に歩くもの うずくまるもの 乱暴者
それらの患者が絵を描くことによって
イキイキとしていく様が描かれていく
太陽の光りや緑の中に囲まれて
自然の中で 生まれ変わっていく患者たち
しかし それをよく思わぬ医者ども
色々な楽しいこと悲しいことつらいことを
経験しながらも彼らのために懸命に働くニーゼ先生に
とても心を打たれる
悲しいことも描かれているが
ニーゼ先生の行為を観て幸せに感じてしまう作品だ
レンタル屋でふと目に留まった作品だ
こんなに感激する作品に出会えるとは感謝!!
パンク先生のアートセラピー
ニーゼ先生がなんとも偉大。1940年代の保守的な男性社会で潰されずにやり抜くには、あれくらい凄まじい信念が不可欠なのだろうと痛感しました。まったくブレない。
1940年代に、『ブラジル×女性精神科医×ユング派』って相当パンクでオルタナティヴだったと思う。そんなパンク先生だからこそ、革命が起こせたのかもしれない。
ニーゼ先生は徹底してアトリエを『自由であれる場』であれるよう死守した。クライエントたちは絵を描くが、ニーゼをはじめアトリエのスタッフたちは彼らを抑制せず、教えず、心のままの状態をキープすることに務める。その結果、クライエントたちがその人のままであれるようになるため、精神が安定していく。
(クライエントだけでなく、男性看護師まで角が取れていくのがスゴい…けどあの場に居続ければ絶対ああいう風に変化する)
やがて絵も形を成していき、それはクライエントたちの内面な統合がなされていくことを表している。
自由に表現することこそ、セラピューティックである、とニーゼは確信していたのだと思います。その背景にあるものは、ユングの理論と人間ひとりひとりを尊重する姿勢ではないでしょうか。
そして考えさせられたことは、治療という概念。
ニーゼ以外の主流派ドクターたちは、治療を
『患者が落ち着いた状態』
と定義している。
当時、統合失調症は不治の病と考えられていたためである。
一方、ニーゼたちは
『クライエントがより生き生きと生きられるようにするプロセス』
と捉えているように感じました。
主流派ドクターたちが『統合失調症患者はモノではなく人』と理解するにはもう少し時間が必要だったようです。薬の開発もこの10年後くらいですしね。
現在では、統合失調症の治療薬も出来て治療可能になり、人権意識も育成されてデイケアとかも盛んになったので、『生き生きと寛解を目指す』ことがトータルな治療というイメージになっていると思います。
ニーゼ先生のような先人が道を切り開いたからこそ、心身の治療という概念が作られていったのだな、としみじみ実感した次第です。
彩
他人の起こした革命に乗っかり、束の間の春を謳歌しようとする民衆を描かれても満足出来ない。 彼等はジョーの部隊と同じく他者依存であり、自由も尊厳も得られはしない。 此処では無い何処かへ希望を求めて彷徨う00年代に対して、狂気の沙汰であると断ずるこの作品には、浮き足立った民衆へ痛烈なメッセージが込められている。
この物語は現在進行形
1944年、ブラジル・リオデジャネイロ。 公立の精神病院で働くことになったニーゼ(グロリア・ピレス)は、患者たちのひどい扱いを直ちにみることとなる。 院内のシンポジウムでは、ロボトミー手術や電気ショック療法の効果について披歴され、あまつさえショック療法にについては、医師たちの前でのデモンストレーションが行われていた。 そのような病院の方針に異を唱えたニーゼは、重きを置かれていなかった作業療法施設の責任者となる。 施設は荒廃していたが、ニーゼは、ユングの書をもとに、患者たちを観察することから始めることにする・・・ という実話を元にした映画で、その後、ニーゼが職場の看護師の助言を取り入れて、患者たちに絵や塑像をつくらせる取り組みをしていく、というハナシになる。 捻った要素など何もない実直な映画なのだが、はじめ、巻頭、病院を訪れるニーゼをロングで捉えるショットでちょっと戸惑いを覚えた。 灰色の壁の中の小さな鉄製の扉、それを叩くニーゼをカメラは捉えるのだが、なんだがフワフワしている。 手持ちカメラなのだ。 ありゃ、こんなオープニングのロングショットを手持ちカメラで写すのかしらん、と少々不安になった。 その後、その扉を開けて、中にはいるニーゼをフォローするので、手持ちカメラである理由はわかったのだが、以降もこの手持ちカメラの揺れが気になって仕方がなかった。 しかし、ニーゼが作業療法所の責任者になり、患者たちと接するようになってからは、この手持ちカメラの威力が発揮される。 自分たちの世界の閉じこもっている(というか認識できない)患者たちに対して、ときに寄り添い、ときに少し離れて、という距離感は、固定されたカメラでは伝えられなかったのだろう。 で、そんな手持ちカメラで描かれるその後である。 ニーゼは、自分たち(健常者)の価値観やルールに、患者たちを押し込めない。 彼らが「言葉で言い表せない」ことを伝えようとしていることに、心血を注ぐのである。 ここで、はたと気づく。 劇中のセリフにもあるのだけれど「ルールを守らないもののは、罰を与える」とある。 ルールというのは、ある種の共通認識(言語なりなんなりの)言語的(論理的)な秩序を保つためのものであって、ルール(言語的)の埒外にいるものにとっては、そもそもが理解できない。 理解できないからといって、理解している(と思っている)側に合わせなければいけない、というのは「あわせろ」と言っている側の「都合」にすぎない。 つまり、相手が非言語的な論理で行動していることを認めずに唾棄してしまうのは、あまりに奢っているといえないが。 非言語的な表現であっても、「感じている」ことは「同じ」土俵の上にないのかどうか、そこから考えなければいけない。 そんなことを、この実話に基づいた映画は巧みに語りかける。 そう。 非言語的な論理であっても、彼らは、だれもがと同じような感情を持っている。 瞠目すべきは、同じアトリエに集う巨漢女子に惚れた黒人男性が嫉妬に身をよじらせるシーン。 そう、同じ感情がある。 それを、離れたところから手持ちカメラで撮る。 ここには唸った。 その後、患者本位のニーゼと病院側との軋轢が描かれたりもするが、巻末に、年老いたニーゼや患者たちの実際の映像が映し出される。 遠い過去の話ではなく、この物語は現在進行形なのだったと強く思った次第である。
筆とアイスピック
治療とは名ばかりで、患者を隔離し、抑えつけ、モルモットの様に扱っていた時代に、自由にさせて心のままに絵を書かせ人として接した女医。 これはこれでありのままなのかも知れないが、ニーゼやクライアント達の背景のドラマをもう少しみせて欲しかった。
ニーゼ
素晴らしかった!鑑賞後質疑応答に監督が答えてくださり、ニーゼは94才で亡くなるまで仕事をして、後輩の医者や看護士がニーゼの教えのもと巣立っていったそうです。 映画のラストにご存命のニーゼが話されるのですが、品のいいとても素敵なおばあさまでした。 患者役の俳優の演技が素晴らしかったのと、ニーゼの患者に対する視線の優しさに感動しました。 グランプリ。主演女優賞おめでとうございます。 一般公開はいつ?どこで?するのでしょうか? もしかして公開無しなんて事ないですよね。 知り合いの精神科医に話をしたら、是非観たいと言ってました。
TIFFGP
冒頭数分で、この映画における意志を見いだした。それは、音によるイマジネーションと映像によるリアリティーの追求というのも。 とかく、映像のリアルさというものは徹底していたように思う。最近ありがちな偶然性を求めたような手持ちカメラの多用というものではなく、あくまでも作者の意志をそこに込めようとしていたように思う。スクリーンの中に完璧に構築された世界、実話をもとにしているとはいえそこにあるのは虚構の世界、それをあくまでも自然な形で見ている者に伝えるがために、虚構を真のものに仕立て上げるために、とことん画面が揺れ続ける。ニーゼは実在した人物であり、嘘偽りない真の姿を伝えるという意志の強さが画面からにじみ出ていた。 ぶれる映像といいながらも、その一つ一つの映像というものは計算され尽くされたもののように思えた。どこに焦点を当てるのか、どのようにカメラを動かし、どのようにフレームインしてくるのか─すべて完全なる自然なのだ。矛盾した表現かもしれないが、まさに劇映画にしてドキュメンタリーのような印象を持つ。(つくられた完全なる自然─いわゆる明治神宮のようなものか…分かりづらいか。) リアルに展開される映像でありながら、心を揺さぶられそうになる感動が所々で押し寄せる。それというのも音や音楽の効果が大いにあったように思う。今さら映画における音の効力などということは述べるものでもないけれども、効果的に活用しているものはそれほど多くないはず。そのうちの一つがこの映画だと思う。バッハで自然に涙があふれ出た。 兎に角、最初から最後まで、濃密であり、ニーゼというタイトルそのままに描かれた、グランプリ、最優秀女優賞にふさわしい作品だった。
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