「この物語は現在進行形」ニーゼと光のアトリエ りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)

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ニーゼと光のアトリエ

劇場公開日 2016年12月17日
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この物語は現在進行形

1944年、ブラジル・リオデジャネイロ。
公立の精神病院で働くことになったニーゼ(グロリア・ピレス)は、患者たちのひどい扱いを直ちにみることとなる。
院内のシンポジウムでは、ロボトミー手術や電気ショック療法の効果について披歴され、あまつさえショック療法にについては、医師たちの前でのデモンストレーションが行われていた。
そのような病院の方針に異を唱えたニーゼは、重きを置かれていなかった作業療法施設の責任者となる。
施設は荒廃していたが、ニーゼは、ユングの書をもとに、患者たちを観察することから始めることにする・・・

という実話を元にした映画で、その後、ニーゼが職場の看護師の助言を取り入れて、患者たちに絵や塑像をつくらせる取り組みをしていく、というハナシになる。

捻った要素など何もない実直な映画なのだが、はじめ、巻頭、病院を訪れるニーゼをロングで捉えるショットでちょっと戸惑いを覚えた。
灰色の壁の中の小さな鉄製の扉、それを叩くニーゼをカメラは捉えるのだが、なんだがフワフワしている。
手持ちカメラなのだ。

ありゃ、こんなオープニングのロングショットを手持ちカメラで写すのかしらん、と少々不安になった。
その後、その扉を開けて、中にはいるニーゼをフォローするので、手持ちカメラである理由はわかったのだが、以降もこの手持ちカメラの揺れが気になって仕方がなかった。

しかし、ニーゼが作業療法所の責任者になり、患者たちと接するようになってからは、この手持ちカメラの威力が発揮される。
自分たちの世界の閉じこもっている(というか認識できない)患者たちに対して、ときに寄り添い、ときに少し離れて、という距離感は、固定されたカメラでは伝えられなかったのだろう。

で、そんな手持ちカメラで描かれるその後である。

ニーゼは、自分たち(健常者)の価値観やルールに、患者たちを押し込めない。
彼らが「言葉で言い表せない」ことを伝えようとしていることに、心血を注ぐのである。

ここで、はたと気づく。
劇中のセリフにもあるのだけれど「ルールを守らないもののは、罰を与える」とある。

ルールというのは、ある種の共通認識(言語なりなんなりの)言語的(論理的)な秩序を保つためのものであって、ルール(言語的)の埒外にいるものにとっては、そもそもが理解できない。
理解できないからといって、理解している(と思っている)側に合わせなければいけない、というのは「あわせろ」と言っている側の「都合」にすぎない。
つまり、相手が非言語的な論理で行動していることを認めずに唾棄してしまうのは、あまりに奢っているといえないが。
非言語的な表現であっても、「感じている」ことは「同じ」土俵の上にないのかどうか、そこから考えなければいけない。

そんなことを、この実話に基づいた映画は巧みに語りかける。

そう。
非言語的な論理であっても、彼らは、だれもがと同じような感情を持っている。
瞠目すべきは、同じアトリエに集う巨漢女子に惚れた黒人男性が嫉妬に身をよじらせるシーン。
そう、同じ感情がある。
それを、離れたところから手持ちカメラで撮る。
ここには唸った。

その後、患者本位のニーゼと病院側との軋轢が描かれたりもするが、巻末に、年老いたニーゼや患者たちの実際の映像が映し出される。

遠い過去の話ではなく、この物語は現在進行形なのだったと強く思った次第である。

りゃんひさ
さん / 2017年1月12日 / PCから投稿
  • 評価: 5.0
  • 印象:  -
  • 鑑賞方法:映画館
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