消えた声が、その名を呼ぶ : 映画評論・批評
2015年12月15日更新
2015年12月26日より角川シネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほかにてロードショー
愛する娘との再会をめざして、絶望の淵をしぶとく歩む男の行路
ちょっと不思議な邦題がああそうなのかと腑に落ちてじわじわ胸にしみていくエンディング。ハリウッドの様式化されたそれでなく移民の歴史に裏打ちされたアメリカの史劇としてのウエスタンを思わせもする監督ファティム・アキンの新たな一作は、1915年オスマン・トルコによるアルメニア人大虐殺で家族も家も声も失くした男ナザレット(「預言者」のタハール・ラヒム!)がそれでも前へと進む旅をみつめ切る。砂漠をさまよい海を渡り国境を幾つも超えて新大陸アメリカは雪のノース・ダコタへ、絶望の淵で彼はしぶとい歩みを歩み続ける。ただ一つの望み、愛する娘との再会をめざして――。
死ぬより辛い生を耐える男の行路がやがて縁取る諦めの果ての透明な光の感覚。それを目にするうちにふっと思い出したのがアルメニアの血を引く作家ウィリアム・サローヤンの短編だ。盲目の老人が掌に載せていた瀕死のハチドリ。老人の指図で少年は鳥の手当をする。しばらくして傷の癒えた鳥をふたりは解き放つ。夏が来てまたハチドリの群れがやってくると少年はあの一羽は生き延びたろうかと老人に訊く。老人はいう――そこにいるどれもが私たちのハチドリだよ。アキンの映画の物語と直接、つながりはないけれど、サローヤンの描くこの世に在ることの尊さを愛でる心、生の哀しさと背中合わせの透徹した明るさは、アルメニアの悲劇を生き延びるナザレットの歩みが差し出すつきぬけた明度と美しく響き合う。「こぼれたミルクを惜しむことはしない。ミルクはこぼれるものだから」と、これはやはりアルメニア人で本作の共同脚本をものしたマルディグ・マーティン(スコセッシの盟友で「ミーン・ストリート」「レイジング・ブル」の脚本を手がけた)の言葉だが、ここにも、あるいはサローヤンの短編にも、はたまた劇中、ナザレットに笑みをもたらすチャップリンの映画にも息づいている生をめぐる清澄な達観。それがアキンの新作のサバイバルの物語をも逞しく支えている。
(川口敦子)