裁かれるは善人のみ : 映画評論・批評
2015年10月27日更新
2015年10月31日より新宿武蔵野館ほかにてロードショー
アイロニーたっぷりに、酷薄な<神の不在>の世界を見せつける
アンドレイ・ズビャギンツェフは、現在のロシア映画の中でも一頭地を抜く鬼才である。デビュー作「父、帰る」は、ある欠損家族によるロード・ムービーが現代ロシアの痛ましい心象風景の寓意として胸に迫った。四作目の長篇「裁かれるは善人のみ」も、ロシア北部の辺境にある海辺の町を舞台に、徹底したミニマルな語り口を通して、過酷なロシアの現実が浮かび上がる。
自動車修理工のコーリャは妻子と共につましく暮らしているが、とある計画をもくろむ強欲な市長が権力をバックに彼らの土地を買収しようと画策する。コーリャはモスクワから友人の弁護士ディーマを呼び寄せ、市長の悪事を暴露する対抗策に出るが――。
時おり点描される荒涼とした光景が目に焼き付く。廃墟と化した団地、教会、浜辺に打ち捨てられた廃船と巨大なクジラの白骨。すべてが疲弊し、窒息しそうな閉塞感におおわれた町の風景そのものが、今のロシアの抱える暗部をシンボリックかつリアルに伝えてくるのだ。コーリャが友人たちと“狩り”に興じる場面で、標的として用意される歴代の大統領たちの写真、あるいはマフィアばりの残虐な手口でディーマの口を封じる市長は、まさにギャング映画のようなタッチで描かれ、コーリャの罪状を棒読みする裁判官たちを含めて、辛辣なカリカチュアが随所にみられる。決定的なのは、市長と結託した司祭の腐敗ぶりだ。ラスト、コーリャの家の跡地に建てられた教会の、荘厳さとは無縁な、書き割りのような聖画像は、アイロニーたっぷりに、酷薄な<神の不在>の世界を見せつける。
しかし、見終わって最も深く脳裡に刻まれるのは、後妻リリアを演じたエレナ・リャドワの名状しがたい表情だ。近年、これほど深い孤絶と疎外感、メランコリーをたたえたヒロインの貌を見たことがない。映画は、彼女の辿った悲劇の根源をこそ凝視すべきなのだと問いかけているかにみえる。
(高崎俊夫)