父、帰る
劇場公開日:2004年9月11日
解説
12年ぶりに突然帰ってきた父親に戸惑う兄弟の姿を、静謐なタッチと衝撃的な展開で描いた人間ドラマ。ロシアのアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の長編デビュー作で、2003年・第60回ベネチア国際映画祭で金獅子賞と新人監督賞をダブル受賞した。母と慎ましく暮らす兄弟アンドレイとイワンのもとに、家を出たまま音信不通だった父が12年ぶりに帰ってくる。写真でしか見たことのない父の突然の登場に、兄弟は戸惑うばかり。しかも父は、ふたりを連れて旅行へ行くという。翌朝、車で出発した彼らは、家から遠く離れた湖の無人島にやって来る。粗暴で高圧的な父に憎しみを募らせていくイワンと、それでも父を慕おうとするアンドレイだったが……。
2003年製作/111分/ロシア
原題:Vozvrashchenie
配給:アスミック・エース
スタッフ・キャスト
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2022年4月18日
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鑑賞方法:DVD/BD
今は亡き我が親父を思い出す。
やさしい時もあったけど、だいたいとんでもない親父だった。何をやっているのか分からない時が何度もあった。『死んでしまえ!』と思った事もあるが、この世から去ってしまった今となっては、やっぱり、寂しい。そんな事言っているのかなぁ。凄く共感出来る。水が色々な形で登場する。最後のシーンに最初違和感を覚えたが、その理由が、エンドロール前の走馬灯の如く現れる紙芝居で納得した。タルコフスキーみたいに僕は感じた。
追伸『ドライブ・マイ・カー』はリスペクトしていないか?
2021年5月24日
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鑑賞方法:DVD/BD
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母親、祖母と暮らす兄弟の元に数年ぶりに帰ってきた父親
喜びを隠せない長男と不信感が顕著な次男
二人を連れてキャンプに行く事になるのだが...
アンドレイ・ズビャギンツェフ監督作
かなり前に観て好きな映画だったけど
久しぶりに観ても良かった
いずれ乗り越えていく父親とゆう存在との
家族内でも起こる軋轢などを描いていて良い
男の子ならおそらく誰でも経験する父親との反目する関係
タイミングなどで意識がずれる人間関係の難しさを感じさせる
そしてこの映画の素晴らしいところは
父親の素性が一切明かされない事
そしてそもそも本当の父親なのか?
この父親は何をしてた人間なのか?
パイロットならもっと帰宅できるはずだ
では、帰れない場所、例えば刑務所とか軍役についていたんだろうか?
怪しげな行動もあったり
兄弟に対して非常に高圧的な姿は軍人っぽくもある
また掘り出した箱の中身はなんだったんだろうか?
憶測が憶測を呼び、想像力を刺激する
そしてそこに答えがないのが
人間の行動を理解する事の難しさのメタファーなのではと考えさせられる
最後のパパ!と叫ぶ兄弟の姿には
とても味わいがあった
嫌いなわけじゃない
でも仲良くなりきれなかった
やっと手に入れた父親
色んな想いが去来して
考えさせられる映画だった
2020年5月5日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル
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ソビエト連邦崩壊 1991年 から12年後のロシア人の思い
息子を救おうとして塔から落ちて死んだ父は、旧ソビエト連邦の象徴化であり、ロシアがこれから進むべき道を、ふたりの息子に託す形で終わっている。
父の存在に対して、息子たちは確かな絆も愛情も感じることが出来ない不信感とジレンマに苦しまなければならない。しかし、父を客観視すれば、間違いなく強さと逞しさを感じて従うしかない。そして、そんな父の呆気ない死に、適切な対処が出来ない兄弟の幼さ。
父の遺体が小舟と共に湖の底に沈む最期は、ソビエト連邦の人知れぬ葬儀のように感じられる。
革命で得た社会主義国家は表現の自由を奪いました。ソビエト映画も体制批判のタブーから離れ、限られた題材や個性的な表現に活路を見出していたと思われます。このロシア映画にも、その伝統に根差したアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の暗喩を感じます。
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冒頭、高台から飛び降りる事の出来ないイワン。
そのせいで、友人達からはバカにされる。
本来、ここで飛び込む必要はないのだろう。
皆がいる場所へ行くだけでいいのなら、別の方法もあるはずだ。
つまり、これはただの度胸試しであり、友人同士がまたつるむための「通過儀礼」に過ぎない。
その通過儀礼を達成出来なかったイワンは、皆から仲間外れにされる。
これがこの映画のオープニングだ。
つまりこれは「通過儀礼」の映画であるという事を示している。
父親は息子たちに厳しく当たっている。
まるで、12年分の教育をたった数日間に詰め込んでいるようだ。
もちろん息子たちは父に反感を抱く。
観ている側も疑問に思うだろう。
急に現れたこいつは、なぜこんなに偉そうなんだと。
だが、父親は息子たちの質問に答えない。
父親は何がしたいのか、映画の中では語られないため、目的も動機も明らかにならない。
だが、冒頭で提示された「通過儀礼」というテーマと照らし合わせて、兄弟が映画の中で行った数々の「共同作業」を見てみると、だんだんと分かってくる。
父親は息子たちに様々な事を強要している。
反感されるのも厭わずに。
なぜだろうか。12年ぶりに息子たちのもとへ帰ってきたのであれば、好かれようとするのが普通である。
親子の旅は、いわゆる「親睦を深める」という目的とはかけ離れている。
父親は息子たちにあえて厳しくしている。
そのせいで、車内は常に冷たい空気で包まれている。
「イワンが生意気だから」とか「アンドレが言うことを聞かない」から、というのもあるだろう。
だが、彼らは絶対に反抗しないといけない。立ち向かわなければいけない。
なぜなら、父親は自分の身を呈して、自分自身を「障害」にすることで、兄弟の絆を深め、成長させようとしているからである。
なぜ、監督はわざわざ車を兄弟で押させるシーンを撮ったのか。
なぜ、父親ではなく兄弟に力いっぱいボートを漕がせたのか。
なぜ、死んだ父親を、兄弟であんなに重そうに運ぶシーンをわざわざ長々と見せたのか。
それらの「共同作業」を兄弟にさせる事が、この映画の目的だからである。
あの無愛想で厳しい男は、自分の身を犠牲にして、兄弟が成長して大人になるための「通過儀礼」を行ったのである。
それは無人島から帰ってきた時点で終わっている。
だからこそ、男がボートで沈む瞬間にイワンは男を初めて自分の意志で「パパ」と呼んだのだ。
男は自分の体を犠牲にして、ようやくアンドレとイワン、「2人の息子の父親」になれたのである。
父親が今までどこにいて、何をしていて、何をしに来たのか。
その正体も、動機も解らない。
だが、物語には何の支障もなく、説明など何の必要もないので、語られる意味などない。
それは例えば、ラストシーンのモノクロ写真で表現されるようなクラシック映画の登場人物のようであり、西部劇のようでもある。
余計な背景も動機もいらない。
この映画はただ、兄弟が本当の兄弟になり、父親が本当の父親になるだけの映画である。
それがどれだけ素晴らしいことか。
最高の映画だ。