キャロルのレビュー・感想・評価
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王道の恋愛ものと、自分らしく生きる話
同性愛者への差別問題とかがテーマかと予測していたら、相手が同性であること以外は王道の恋愛ものと、自分を圧し殺さずに生きることについての話だった。
女優さんも50年代の街並みなども本当に綺麗だったし、以外とクールな作風だった気がする。 キャロルは夫や世間の風習に反逆する奔放な女性と思いきや、最後は一人の母として慎重に深く悩んだ行動が有って、本当の強さが見えた。
退屈だけど見入る
金持ちおばさんの謎めいた衝動はもっと破壊的であって欲しかった。
……破壊的ならいいのか?
または、本音に感動したかったが、ぼんやりと霞んだまま見えなかった。
……見えなくてもいいのか?
古き良き時代の雰囲気と、ケイトブランシェットのババロアみたいな顔だけが、印象づけられたが、それだけでは物足りない。
……物足りないからいいのか?悪くはなかった。
ぼんやりした映像で、行動指針がハッキリとしなくて眠くなる映画だが、それもまた良しとしたくなるような、衝動に惑わされ言い訳もない女たちの姿の良さがあった、……気がした。
曇りガラスの向こう側
久しぶりにため息が溢れるほど美しい映画を見た。映像、音楽、そして、ラストシーンに至るまで、文句の付けようがない。見る側の好き嫌いこそあれど、この物語を描く上で、過不足は一切ない。
まず、何よりも映像が素晴らしい。明度を欠いたマットなフィルムの中に描き込まれるビビッドなヒロインたちの姿に目を奪われる。同性愛がタブー視されていた時代の女性同士の恋愛を描いた本作であるが、“恋は盲目”と言わんばかりに背景を簿かし、互いの視線を強調させてくる。
キャロルを見つめるテレーズの眼差しは恋する少女の瞳だ。世間体を気にすることも、恋の痛みを味わったことのない無垢な彼女。そんな彼女に対して、キャロルはそれがどれほど難しいことかと、全て知り尽くしたかのような鋭い眼差しで見つめ返す。キャロルは人妻であり、一児の母である。それ故か、キャロルは母親のような寛大な愛でテレーズを認め、包み込んでいく。そして、二人の恋と愛は女性同士の恋愛へと昇華していく。
だが、これは同性愛映画としての枠を超えていく。つまるところ、本作は2人の禁じられた恋愛模様を軸にしつつも、自分の気持ちと向き合うこと、自分らしくあること、ひいては自分自身を解き放つ方向へシフトする。自分の存在意義を語るキャロルのセリフが胸に響く。
車、ショーウインドウ、部屋の窓など、曇りガラス越しにヒロインたちの姿を映し出すのは社会やモラルというフィルターの暗示であろう。悲しいかな、社会の中で生きる上で自分の気持ちに正直でいることはいつの時代も難しいということを、ただただ静かに伝えてくる。だからこそ、一点の曇りなく彼女たちの視線が交わる“あの場面”が目に焼き付いて離れない。言葉だけで本作を説明すれば、きっと陳腐に聞こえるだろう。だが、本当に優れた映画とは映像で全てを語るのだ。
なんというドラマチック
ここ数年フィクションでも現実でも見たことのないレベルの、あまりに完璧な「ドラマチック」。
もう、なんというかとにかく素晴らしい「ドラマチック」。
自分は同性愛者の社会的扱いがなんたらとか生きざまが云々とかはあまりよく分からないし映画の題材としては正直どうでもいい。とにかくこの映画は「ドラマチック」の描き方が素晴らしい。素晴らしすぎる。素晴らしいにも程があるというか、ごく控えめに言ってマジで涙が止まらないほど素晴らしく完璧過ぎる。「ドラマチック」を作り上げるための配役、脚本、音楽、映像全てがあまりにも完璧。同性愛というテーマも、正直「ドラマチック」を構成するための1要素に過ぎなかったのかなと思える。
ラストシーンが最高、忘れられない、席からなかなか立てなかった、とかレビューでさんざん絶賛されてるの読んでかなりハードル上げまくってから期待しつつ見たけど、まじでラストシーンがやばすぎ。最後のカットがぷつりと暗転して終幕なんだけど、別に感涙のシーンではなかったはずなのにエンドロール流れてる間無性に涙が止まらなかった。何が泣けるってこんなに完璧なドラマチックを精神世界に有している人がいるんだなって思ってしぬほど感動して涙止まらなかった。とにかくそのくらいにはものすごく素敵で美しくてかっこよくて素晴らしい「ドラマチック」なんだよ・・・・
映画ってこれでいいじゃん、って思った。
谷崎と芥川の文学論争うんぬんではないが、題材やストーリーになんの意味がある?ただ一瞬の狂おしいエモーション、思わず溜め息出るような完璧なドラマチックのためだけの映画も良いじゃん。それに特化して極めていたら、それはそれでやはり一流じゃん、と。
以外ネタバレ
ラストがバッドエンドだというレビューほうほうで見かけたけど、、バッドエンドじゃないよね?いや、何をもってハッピー/バッドとするかというお話ならまた別なのかも知れないけれど・・
一人じゃ何も決められなくて何も出来なかったテレーズが、成長して大人になって強くなって、逆境の中でも初めて自分の意思で選んだのがキャロルなのであって、そしてまた、成熟した一人の女性としてテレーズが対峙したとき、「待ってたわ」と言わんばかりに余裕の、妖艶な笑みでいつ何時もずっと変わらず美しい姿で彼女を迎えるのが、キャロルなんですよ・・(そしてこのシーンがもう、何度でも言うけど本当にもんっっっっっ・・・・・・・・っっのすごく、美しくて危うくて切なくてかっこよくてどうしようもなく途徹もなく途方もなくドラマチック)。
キャロルが彼女らしく美しく生きて行くために犠牲にしたのが子供と共にある生活で、そしてまたその生き方の先に待つのが必ずしも幸せなことばかりでないのは想像にかたくないので、そういうことを考えると手放しにハッピーではないのかもしれないけれど、二人にとってはハッピーエンドですよ。キャロルとテレーズの関係を描いた作品ですから、これをバッドエンドとするのは不適切でしょう。
観賞後なぜか懐かしいアニメですがウテナを思い出しました
これほど美しい愛があるだろうか
もしもこれが男女の愛を描いていたのなら、ただの陳腐な映画に終わっていたかもしれない。
女性と女性の愛だからこそ、美しく儚く輝いたのでしょう。
キャロルは綺麗で、テレーズがとても可愛かった…!キャロルの喫煙がまた似合いすぎて…!!
絶妙なカメラワークと美しい音楽に彩られた2人の愛の物語は、クリスマスに娘のプレゼントを買いに来たキャロルとデパートで働くテレーズが出会うところから始まります。
このきっかけから2人が距離を縮めるまでの過程が、また実にすごくいい。キャロルの離婚問題とテレーズの結婚を迫る彼氏が巧妙に挟まり、まさに障害があるからこそ燃えるがごとく、2人の愛は深まっていきます。
映画を見ている私たちは、この2人の禁断の愛の一部始終を見る、言わば目撃者。
一緒に2人の行く末を見ているからこそ、終盤になるにつれて、切なさが増します。
うまくいってほしい、けれど、うまくいったところで幸福が待っているとは限らない。そんな現実に、さらに胸が締め付けられました。
かつて今までこれほど美しい愛があったでしょうか。
ありきたりな御涙頂戴・御都合主義の恋愛映画に飽き飽きしてる人には、ぜひ見てほしい作品です。
まるでヴィスコンティの美の世界を垣間観るような陶酔感!
見事なカメラワーク そして、衣装に始まり小物や、その他何から何まで画面に映る物総てが50年代当時の香りを画面一杯に漂わせていた。
世界大戦に勝利し、強いアメリカに国民の誰もが酔い、未来に向かって只々、大いなる消費生活こそ、人々の生きる総て価値として、その階段を疾走していただろうその頃の匂いが咽返る程に漂う。その一方で、今迄の様に日曜日には家族揃って誰もが教会に集うような伝統文化も崩れ始め、仕事優先に因る家庭崩壊への助走の時代の幕開けとなるその時代背景も良く描かれていた興味深い作品だった。
この時代に生きる人々の意識が少しずつ変化し、女性の誰もが自分の足で立ち、自己の人生を自力で切り開く為に、その生き方の模索を始めた彼女達の揺らぎが見事に描き出されていた作品だ。
しかし、どう考えても原作者のパトリシア・ハイスミスは、この人々の意識変化をLGBT問題として盛り込む事で、自由の幕開けの時代を表現したが、余りにも彼女は時代を先行し過ぎて、幾ら自由の国アメリカと言え、LGBTが一般に認知される事はまだまだ難しい時代だったようだ。
この文学が執筆されていたのは60年以上前なのだ。今更ながら驚きを禁じ得ない。
「太陽がいっぱい」も今考えればBL作品だったとは思いもせずに子供の頃に観たけれど、リメイクされた「リプリー」を観て初めて純BL文学だった事に気が付いたものだ。
アン・リー監督の「ブロークバック・マウンテン」が以前絶賛を博したが、ケイトとルーニー二人に因る対極に位置する2人の芝居が、見事なコンビネーションの異光を放ち、観客を虜にしているが、オスカーの女神は2人に微笑むのだろうか?
女優を観る映画。
タイトルの通り、美しく素晴らしく演技力のある女優陣を観る映画です。
ケイトブランシェットは知的かつ妖艶、ルーニーマーラはオードリーヘップバーンか、ナタリーポートマンかといった清純な妖精感、そして、アメホラシリーズでお馴染みのサラポールソンの演技も光ります。
50年代の雰囲気、衣装、音楽もとっても素敵。
キャロルとテレーズが絡ませあう視線の演技、ぞくぞくしますね。
本当に演技なのかしら?って。
作品全体に流れる空気感がたまりません。
全体的に女性が観ないとあまり面白くないでしょうね。
ある意味男性不在の映画ですから。
とてもよかった
ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラだからこそできた素晴らしい映画だ。熟練された女性と、若く純粋で自分の意見の言えない女性を2人が完璧に演じた。その美しさを引き出すカメラの撮り方もしていた。
それにしてもルーニー・マーラはまだ若く、ベテランに比べてそんなに多くの本数の映画に出ていないにも関わらず、出演作の演技はどれも素晴らしい。特に本作は彼女の素晴らしさが際立っていた。彼女の良さをよく知った者がキャスティングしたかのような映画だった。
この映画のルーニー・マーラのキャラクターを観ると、男性を拒絶してしまいたくなる気持ちが少し分かった気がする。
時代のファッションへのこだわりも感じられた。
同性愛とこだわらず‼
今回、はじめてレビューさせていただきました。何故ならば、それほど素晴らしい作品と感じたからです。
しかし、鑑賞前の期待はそれほどではありませんでした。題材が同性愛のラブストーリーだという偏見から自分はそうではないからそこまで感情移入できないだろーなーと決めつけていましたが、みている最中なく始末。
ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラその他の出演者の演技が最高。50年代をまるで本物ののように再現してる空間最高。ラスト最高。とりあえず、観ましょう‼
同性愛がテーマではなく、
あくまで女性と女性の恋愛映画。
もちろん、社会的にそれが受け入れられる時代ではないという点が、物語に重要な影響を及ぼしますが、スキャンダラスに描く訳ではなく、時間の経つのも忘れ二人の表情に目を奪われてしまいました。
ふたり
ルーニーマーラは途中、オードリーヘップバーンにしか見えなかった。恋していく可愛らしい女性だけでなく、何か貫いている。
ケイトブランシェット、流石の存在感。美しく強く、揺るぎないものをこちらも感じる。
1950年代のニューヨークの街並み、ファッション等の雰囲気も凄くたのしめるけれど、やはりこの二人。
キャロルのテレーズに宛てた手紙が心から彼女のことを想っているのが伝わってきて良かった。
視線の行方、熱い思慕がまったくいやらしくなく、何か芸術的なものを感じてしまえる程。
ラストも気に入った。
ケイトブランシェットの迫力☆
全然期待しないで行きました。
話の内容は至ってフツーでしたが、ケイトブランシェットの迫力は圧巻☆
ルーニー・マーラの頑張りもすごいですが、恐ろしい存在感ですね、相変わらず。
可愛いルーニー 美しく妖艶なケイト 1950年代の舞台美術とファッ...
可愛いルーニー 美しく妖艶なケイト
1950年代の舞台美術とファッション
視線が語る
2人にしかわからない仕草
ラストのケイトの表情が忘れられない
もうひとつの『太陽がいっぱい』
観始め、何だか画面のピントがボケてるというか滲んでるなあと。昔のフィルムが劣化した感じともちょっと似ている。自分の疲れ目のせいなのか、座った席のせいで歪んで見えるのか。ただでさえ滲んでいるのにガラス越しのシーンも多く、霞がかっている。
だが、ラストシーンでは、キャロルの表情をクリアに映し出す。
この世界では、あなたしか見えないと言わんばかりに。
あなたさえ受け入れてくれればそれで良いと言わんばかりに。
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原作パトリシア・ハイスミス。
このうえもなく意地悪で孤独な小説ばかり書いてきた。
(『キャロル』は、ハイスミスにしては珍しくシンプルなハッピーエンドだ。)
「あなたが受け入れてくれればそれでいい」
それなのに、拒絶される人の話を多く書いてきた。
例えばハイスミスの代表作『太陽がいっぱい』は、中流階級の若者が、上流階級の同性に強い憧れを抱くが、結局は拒絶されてしまうという話だった。
『キャロル』と『太陽がいっぱい』は、片やハッピーエンド、片や拒絶の、対称的な作品だったのではないか。
実は『太陽がいっぱい』グリーンリーフと『キャロル』は、同じ人物をモデルにしている。
作家デビューする前のハイスミスはイタリアを旅行中、上流階級の女性Kathryn Cohenと関係を持つが、帰国後捨てられてしまう。
その失意の中で、現実に反抗するように書き綴ったのが本作『キャロル』であり、その女性と旅したイタリアを舞台に後年書かれたのが『太陽がいっぱい』だった。
片やロマンス、片や殺人と逃亡のピカレスク、そして男女の違いはあるが、この二作は表裏一体であり、ネガとポジである。
どちらも
「あなたが受け入れてくれればそれでいい」
という、ただそれだけの愛の物語だったのかもしれない。
意地悪、人間嫌い、掟破りのミステリと評されるハイスミスの根底には、どうしようもなく共鳴を求める一人の人間がいたのかもしれない。
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ただの愛の物語を、トッド・ヘインズ&エド・ラックマンは非常に上質に仕上げたと思う。
最初に書いた画面の滲みも、後で調べたらフィルムがスーパー16のせいだった。なるほどブローアップか。霞みがかったようなもどかしさも、ラストの感情も、ラックマンの巧みな技にかきおこされたものだったのか。まんまとその策にハマってしまい悔しい気もしたが、その他、ラブストーリーを支える技の数々に唸った。
男女の違いはあれ、幾度となく繰り返されてきた愛の物語。
「結局は配役を変えて何度も繰り返される」ものであり「古典」だと、ハイスミスは言った。そして
「古典とは時代を超越した、人間の業を描くもの」とも。
この映画は、原作発表から半世紀以上たって作られた。見事、時代を超越した新しき古典であることをトッド・ヘインズは証明したのではないか。
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追記1:
恋人二人の関係は、テレーズが手袋を送る事で動きだし、テレーズがラスト走ることで決定づけられる。決断しているのは、じつはテレーズの方だ。最初は、自分が何者なのか何を引き起こすのか判っていないが、ラストは判った上での決断だった。その変化を、テレーズ役のルーニー・マーラは非常に繊細に演じていたと思う。
キャロル役のケイト・ブランシェットは、取り繕った表情の裏に、若いテレーズに年の離れた自分が受け入れてもらえるのか、そんな怯えと惑いが見え隠れし、そこが上手いなあと思った。
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追記2:
脚本が、個人的には素晴らしいと思った。もっと背景を説明した方が、より楽に共感を得られたかもしれないが、あくまでもシンプルに絵的に見せる構成も良かった。枝葉を落として幹を残すような、そんな構成だったようにも思う。
原作はハッピーエンドだが、それでも意地悪なハイスミスらしい毒がそこかしこに散りばめられていた。
対して映画はまろやかだ。
そのまろやかさ、静謐さは、ハイスミスの遺作『スモールgの夜』(テレーズと似た人物が出てくる。この小説もまた『キャロル』の相似形である)と通づるところがあるなあと思った。
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追記3:
キャロルのモデルは、上記のKathryn他、幾人かいる。若き日のハイスミスがデパートで働いていた際に接客した女性。彼女とはそれきり会う事はなかったらしいが、その出来事を元に本作のアウトラインを思いついたという。なんという妄想力。この妄想にKathrynとの交情が絡み合い、『キャロル』に結実したのであろう。(妄想の女王ハイスミスにモデルがどうの言うのも野暮だけども。ほんとにいろいろ長々書いてすみませんでした。)
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