ブラック・スキャンダル : 映画評論・批評
2016年1月26日更新
2016年1月30日より新宿ピカデリーほかにてロードショー
誰もが次第に人生を見失っていく、青春映画的なギャング映画の「その後」
70年代から80年代、南ボストンを舞台にした、ギャング映画。実録ものだが、ちょっと様子がおかしい。ギャングのボスであるジョニー・デップ扮する男の最初の登場シーンで、アップになったボスの頭髪に白髪が混じる。通常のギャング映画はどこか青春映画的な部分もあり、つまり、若きはみ出し者たちが集い大騒ぎして、既存の勢力に反抗し、力をつけていくが次第に大人になると社会のしがらみに絡み取られ、それまでの楽しいばか騒ぎをやっていられなくなる。それぞれがその中でどのような生き方を選ぶかを迫られ、その果てに命を落とし、あるいは孤立していく。バンドの物語ともよく似た構造を持つ。
この映画には、その前半の楽しさがの部分まるでない。ボスの白髪は、これはそういう映画じゃないという監督からのメッセージなのだろう。そしてそれ故に、成長した若者たちが選択を迫られそれぞれが孤立していく寂しさもない。すべてが選択済み、ボスは道を選んでしまった後なのである。その冷酷さ。戸惑いも躊躇もない。もはやだれも後には戻れないのだし、そこへの郷愁も捨てた。後戻りできないという痛みではなく、ターミネーターのようにただ前に進むだけだ。「その後」のギャング映画と言ったらいいか。
もちろん前に進む楽しさもない。この映画の主要登場人物たちはほぼ全員、自分はどうしてこんな道を選んでしまったのかと思っているのではないだろうか。白髪交じりのターミネーターの冷酷さに、誰もが次第に人生を見失っていく。シュワルツェネッガーではなく、人間味を欠いた2作目以降のターミネーターの冷酷さを、ジョニー・デップは演じる。もはや、俳優「ジョニー・デップ」も振り返ることなく、何か冷酷なシステムの象徴として、そこにあろうとしているかのようだ。誰がそこから逃れ、自らの人生をどのように再構築していくか? つまり「その後」のその後のギャング映画を作り、生きるか? この映画はそんなことをわたしたちに問いかけているようにも思えた。
(樋口泰人)