アデライン、100年目の恋のレビュー・感想・評価
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ひとは年をとるんです
じぶんが50歳になったら、50歳らしく生きているだろう──と思っていた。
いや、そもそも、若いときには、じぶんが50歳になったときを想像はしない。
若さとは、そういう思慮をする時期じゃないので。
でもなんとなく、じぶんが年を食ったら、それなりに相応なところへ落ち着いている──そう漠然と思っていた。
年をとると、どうなるかと言うと──かずかずのしっぱいを経て、同じ轍を踏まないようにはなる──が、それでもときには同じしっぱいをする。そして嗜好とか、きほんてきに耳目の向くところは若いころのままである。
20歳のしょくんは、50歳のおっさんやおばさんにもなれば、もうゲームなんかで遊んではいないだろう──と思っているにちがいない。
んなことはない。
世間様には隠しているが、壮年のにんげんとて、ゲームやデジタルガジェットや甘いお菓子や「誰某がノーバンで投げた」話題にきょうみしんしんである。
日本・日本人は、まったくそれを自覚していないが、この惑星で老人比率がもっとも高い国が日本である。わたしが政治家だったら死ねる国日本を標榜する。よく少子高齢化対策をうんぬんする政治家がいるが──あんたばかですか──そんなのもう間に合わない。30年前から間に合わなかった。
日本は死を合法化してコンパクトな社会になるほか策はない。この先だれもが100歳まで生きるのです。わたしのような無教養なにんげんでさえ──この先この国の全員が100歳まで生きること──の行き着く先を想像できる。
だから65歳あたりで死ねる権利をあたえる法律が必要なんです。これってバカっぽい意見・こうとうむけいな話・アホくさい空論・現実を見ていない姥捨山──ですか?
それしかないと思います。かならず尊厳がたわごとになる時代がやってきます。
(65歳になったら終わりたい。ペシミズム?とんでもない。「じゅうぶん生きたんでもういい」はたんなる選択で悲観じゃない。高尚な死生観が鼻くそになる時代が間もなくやってくる。とわたしは思っています。)
(健康で資産があるなら、終わる年齢は70でも80でもいいが、要は、意識がしっかりしている時にみずから終わらせることができる権限がほしい──ということ。
ちなみに自○というのは社会・他人様に迷惑をかけるだけ。わたし/あなたの汚れて匂いたつ屍体(ばあいによっては細切れの肉片)を、いったい誰が処理したいですか──という話。)
総人口の三分の一3650万人が65歳以上である。むかしは三分の一のまえに約を付けるのが通例だった。いまはもう付かない。そんな国にもかかわらず社会では壮年・老齢者をおっさんおばさん老害などと呼んでつまはじきにしている。国民の意識のなかでさえ、年を食った者を忌避・嫌悪している国でありながら、この惑星で老齢者割合がもっとも高い──というカオス。
さいきん犯罪が高年齢化したなあ──とか思っていませんか。老害やめろとか思っていませんか。いやいや。稼働人口の大半が高年齢者なのです。この国で生きてる人の大半が老人なのです。
そして、そんな高年齢者が、むかしのときのまんまの嗜好をたずさえている──のです。
じぶんは落ち着いている──つもり、ではある。でも一般論として、にんげんは年を食って利口になったり落ち着いたりなんてしない。たんに行動半径が狭まって、おいたをする面積が減るだけ──(この国では)すくなくともそんな自覚が必要だと思っている。
映画アデラインでもっとも得難いポイントは年をとることが肯定されていること。
年を取らない女ゆえ、構造として「人と違って年を取れない女」にトランスフォームされている──のだが「年を取らないこと」は人類が希求してやまない究極の願望である。
ゆえに人類の願望が「女の身におきた不遇」にトランスフォーム(変換・反転)されてしまっている──それが本作のもっとも魅力的なポイント。
鏡よ鏡せかいでいちばん美しいのはだあれ──人類はお伽話さえ経年劣化に拮抗してきたのにアデラインでは年を取らないのが厄災になっている──その反転の構造をとくに反転を感じることなく物語に入り込める。
とりわけかつての知人に出会ってびっくりされるとき。現実世界でわたし/あなたが昔の知人にあったとき「ぜんぜん変わんないねえ」と言われたら──その嬉しさがそのままシーンになっている楽しさ。
加えて物語の本質はアデラインの賢さにある。
冒頭から年を取らない素性を隠して生きる──をアデラインは実践している。説明が大胆に端折られているが、アデラインは年を取らないのが社会では疎隔されることを学習して今に至っている──わけ。つまり、年を取らない──をたんにラッキーと捉える馬鹿なら物語は成立しない、という話。
アデラインの賢さは映画そのものの賢さでもあり、しかもかのじょを演じるのがブレイクライブリー。──楽しい映画だった。
世界観がとても好き
時間の経過をさりげなく見事に描いた傑作
もし、若いときに理由も告げられずに振られた女性がいて、その女性が50年後に目の前に現れたら?若いときのまま、年をとらずに。
そんな演技を身体で理解して、自然に演じることができる俳優が居るとしたら、ハリソン・フォードをおいて他には居ないだろう
そのくらい、見事な再会の場面の演技だった。
ブレイク・ライブリーは若いのに、ハリソンの演技に引っ張られて、思いがけない再会に伴う、とても複雑な感情をあらわにした。
驚いたのは、ハリソン・フォードの若いときを演じたアンソニー・イングルーバーという俳優が、実はハリソンの物まねが得意で、まるで彼が若返ったようにしか見えないこと。スターウォーズのスピンオフを撮るなら、ヤング・ハン・ソロは彼でやって欲しい。というくらい似ている。
ブレイクの演技はともすれば平板で、抑揚の無いものに映るが、見かけとは別に、精神が年をとっていくとしたらきっとこうなるだろう。親しいものを失う悲しみを、最大限の感情の振幅で表現している。それでもどこかに、覚悟と経験と芯の強さを秘めた抑制の効いた名演だ。「ロスト・バケーション」で、一気にキャリアがブレイクしたように思ったが、「ゴシップガール」で積み上げてきた経験が生きているのだろう。ドラマは見たことが無かったけど、彼女の演技を目当てにちょっと見てみたいとも思った。
順調にキャリアを重ねていけば、数年内にオスカー女優になってしまうんじゃないかというくらい、彼女には期待している。
残念ながら、100年生きた女性には見えないほど、若すぎて、深みとか、滋味のようなものが感じられないのが唯一欠けているものだろうか。
「ベンジャミン・バトン」はブラッド・ピットがキャリアの円熟期に演じて、「枯れない花」を表現した。ブレイクは比較的浅いキャリアで、「枯れない花」をやったが、今後も繰り返し彼女のキャリアに重なってくるテーマだろうと予感する。それほど見事な演技で、最近ではいちばんのお気に入りの女優さんになった。
かなしくて、素敵な、現代のおとぎ話だった。
2016.8.26
壮観なストーリー
命とは、幸せとは…
愛する人と一緒に歳を重ねられないのって本当に辛いことだと思います。
ペットの犬が亡くなる度にアルバムを見返し、自分の恋人や娘、友達、知っている人がみんな自分より先に死んでしまっても、自分だけは永遠に生き続けなければいけない現実を突きつけられるアデライン。
まるでゴールのないマラソンみたいに地獄です。
その辛さを誰にも打ち明けられないまま100年近く過ごしてきたアデラインの気持ちを思うとどんなに苦しかっただろうと切なくなります。
ただの純愛物語ではなく、命の尊さや歳を重ねることの素晴らしさを伝えている物語でもあります。
誰もが必ず歳をとって亡くなるからこそ、今この時を大切に生きなければいけないと改めて感じさせられます。
そして、彼女の葛藤や涙を観ているうちに、思わず彼女の恋を応援したくなってしまいます。
また、それでもいいから一緒に人生を歩んでいきたいとお互いに思えるような真実の愛って観ていて本当に美しいです。
清々しく、余韻に浸れる作品です。
設定ぶっ飛びすぎてて恋愛映画としてはイマイチ
なんでハリソン・フォードなのか
映像が美しく、その美しい世界観の中でもひときわ輝くブレイク・ライブリーの美貌。
ウィットに富んだ会話の洗練されたやりとり、指先や身のこなしの煌びやかな美しさなど、これらを堪能するだけでもこの映画を観る価値あり。彼女の演技はとても自然でこれほどの役者だったのかと驚きです。ほかの作品での彼女は置き換えも可能な役が多かったように思うが、今作はブレイク・ライブリーありきです。
さらにストーリーが進み昔の恋人との数十年ぶりの再会。ここでのハリソン・フォードの演技が素晴らしく、なぜハリソン・フォードを起用したのかがわかります。目の動きだけでも感情の機微をあそこまで表現できるとはさすがとしか言いようがない。
個人評価点:92点
ユッキーナ
個人的には、アデラインは交通事故から生き返らないままで、
切ないストーリーでも良かったかなぁ。
美人で知的でスタイルも良ければ、親子で惚れるよね。
アデライン役のブレイク・ライヴリーの口元がユッキーナに似ていた。
ブレイク・ライブリー(100)
アデラインの美しさと虜になる男たち
自然に老いること。
正しく老いて、正しく死ぬ
不老不死ってやはり悲しいもの
そうか、こういう話とは知らなかった。
かつて皇帝たちが血眼になって探し続けた不老長寿の薬も、回りの人がどんどんなくなってしまう悲しみまでは予想できなかったな。自分の回りだけが年老いて行くのは、辛い。
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