「“初代の呪縛”から解き放たれた、新時代のゴジラ!!」シン・ゴジラ 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
“初代の呪縛”から解き放たれた、新時代のゴジラ!!
【歴代の監督達が縛られ続けてきた“初代の呪縛”を解き放ち、新時代の新たなゴジラ像を提示してみせた快作にして怪作!】
4DXで1回、IMAXにて4回、計5回鑑賞。
監督は、『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督。アニメ畑出身ながら、過去に数作実写作品も手掛けている事は知っていた。
当時は『エヴァ』の新劇場版シリーズが未完状態であり、物議を醸していた『Q』の後という事もあり、不安と期待が入り混じりつつ、鷺巣詩郎さんによる音楽と映像のみという、邦画の予告としては中々に攻めた予告編を観ては、今か今かと公開を心待ちにしていた。
❶ゴジラのビジュアル
公開されたゴジラのグロテスクなビジュアルに、最初こそ不安になった。「初代よりグロテスクじゃないか?」と。だが、初代をオマージュし、“核の被害者”としての側面をより強調した点や、一切の感情が読み取れず、意思疎通が困難であろう極端に小さな眼球のゴジラに、次第に愛着が湧いていった。
実際に本編を鑑賞すると、ゴジラの形態変化を段階的に表現するという、【大戸島に生息する太古から生存していた恐竜が、米国の水爆実験によって巨大化し、放射能を纏う怪獣へと変貌を遂げた】というファンにはお馴染み過ぎて実は今まで描かれてこなかった、恐竜→ゴジラへの“変貌”部分にフォーカスを当てた演出に、「そうきたか!」と唸った(正確には、今作のゴジラの元となったのは“核物質を摂取する水棲生物”と説明されているので、恐竜ではないが)。
この形態変化という設定こそ、今作の白眉であると同時に最大の汚点でもあると思うので、形態毎に当時の印象を綴っていこうと思う。
・第一形態
冒頭から早々に登場するこの姿は、最初は既に公開されていた第四形態の尻尾であると思っていた。焦らしとして観客の期待感を煽る物だと思っていたので、まんまとテンションは上がった。
・第二形態(通称:蒲田くん)
逃げ惑う群衆の背後に突如として映し出されたこの姿に、最初は訳が分からず混乱した。何せ、先程の第一形態を完全に第四形態の尻尾だと勘違いしていたので、ギョロっとした眼と首元のエラ、未発達故に手が無いという強烈なビジュアルは完全に予想外だった。
だからこそ、「実は映画館で怪獣映画を観ている観客達の元に、直後ゴジラがやって来る」という仕掛けかとも思った。そうなる気配が無いのを観てようやく、「あ!コイツがこれからゴジラになるのか!面白い!」と気付いた。
・第三形態(通称:品川くん)
ようやく姿形がよく知るゴジラに近付いてきて、初代ゴジラの咆哮までかましてくれるから、ここからの更なる進化に大いに期待した。だが、アパッチで撃つ・撃たないの一悶着の末、背後の背鰭からの排熱では肉体の冷却が追いつかないと悟った事で、形態を一段階戻して海へと逃亡。
監督曰く、「この時点で撃っていれば殺せていた」との事だが、個人的にこの設定は無粋だなと思う。また、この姿を見た途端に、私の中では「絶えず形態変化し続け、巨大化しながら日本を蹂躙するゴジラに、人々がどう立ち向かうのか?」という擬似リアルタイムドラマを期待してしまったので、この後物語が人間側にパスされてしまったのは若干の肩透かしであった。
・第四形態(通称:鎌倉さん)
伊福部昭さんの音楽と共に鎌倉に再上陸したこの姿を観て、ある意味ようやく「ゴジラが始まった!」という感慨深さがあった。
着ぐるみ感を残す為にあえてダボっとした下半身のフォルムに対し、物を掴む必要が無い為(人が入る必要が無い為)、未だ小さく上向きの両腕がCGならではといったところ。
モーションキャプチャーを野村萬斎さんが担当した事で、「能」を意識した独特でスローモーションな動きのゴジラは、まるで巨大な黒い岩が都市を突き進むかのようで新鮮味があった。
ただし、第三形態から第四形態までの変化が急過ぎる印象はあったので、「ここに至るまでの変化も映像で見せてほしかったな」とは思った。
そして、いよいよ必殺の放射熱線を放つという瞬間に、私は驚愕し、落胆した。
あろう事か、ゴジラの下顎が裂けたのだ。あの瞬間、私の頭の中には『プレデター』が過ぎっていた。後にネットで“内閣総辞職ビーム”と呼ばれる事になるビーム状の熱線とそれを表現する効果音を目にした瞬間、私は確信した。
「あぁ、庵野監督にとっては、ゴジラは『ナウシカ』の“巨神兵”なんだな…」と。
私にとって今作の最大のマイナスポイントが、この熱線描写だ。
宮﨑駿監督の『風の谷のナウシカ』で、庵野監督が巨神兵のシーンを担当した事は有名であるし、そこが監督のルーツでもあるから、この表現を採用した事自体は理解出来る。
しかし、「ゴジラはゴジラ、巨神兵は巨神兵」だと思うので、両者を安易に同一視して描いてほしくはなかった。
下顎が裂けるあの姿を観て以降、私の中で本作のゴジラは「ゴジラによく似た何か」でしかなくなってしまった。もしかすると、エメリッヒ版『GODZILLA(1998)』を当時劇場で鑑賞した観客達もこんな気持ちだったのかもしれないと、当時のゴジラファンの落胆に少し寄り添えた気がした(笑)
❷人間ドラマを拝して描かれる状況劇
庵野監督は、常々「人間ドラマが描けない」と言われ続けてきた。監督が手掛けてきた実写映画を観たことはないのだが、『エヴァ』シリーズからでもそれは伺えた(直近の監督作が『Q』であり、実際に劇場で鑑賞して観客全員で“シ〜ン”となっただけに余計に)。
だからこそ、今作ではゴジラを一種の“災害”に見立て、「ゴジラという災害に対処する人々」を描く事で、人間ドラマを描写する事を見事に回避した。実に見事に、自身の苦手分野を回避したと思える。
だからこそ、本作が海外興行で惨敗したのも頷ける。人間ドラマの無い本作は、3.11を経験していない海外の人々にとって退屈な物であるのは理解出来るし、それを抜きにしても、ゴジラが東京駅で活動を停止して休眠期間に入った事で、ゴジラのストーリーが完全に止まったのは脚本の都合を感じずにはいられなかっただろう。
もっと言えば、本作が日本であれだけの一大ムーブメントを見せた事だって、本来奇跡に近かったと思う。
初回の鑑賞直後は、ゴジラの解釈に対する個人的な思いを抜きにしても、矢継ぎ早に提示されるテロップ、アニメ的な顔のアップの連続と早口で会話する登場人物、人間ドラマを拝したストーリーと、あらゆる要素がおよそ万人受けには程遠いと思ったからだ。
個人的には、ゴジラの解釈に対する不満を除けば、かなり満足度の高い作品ではあったのだが、「好きな人は好きだよね」と爆発的なヒットは見込めないと思った。
また、これだけ人間ドラマを拝して尚、石原さとみ演じるカヨコの『エヴァ』のミサト+アスカ的な女性像や、高橋一生演じるオタク丸出しでオーバーリアクションの安田、市川実日子演じる早口で無表情な一匹狼の尾頭と、こういった登場人物の描写がいかにもアニメ的な点は、やはりアニメ畑の人なのだなと感じざるを得なかった。
❸“『エヴァ』の監督”という立場を最大限活かした演出
巨大不明生物特設災害対策本部(通称:巨災対)の作戦会議シーンで、恥ずかし気もなく堂々と『エヴァ』の楽曲を流した瞬間は、思わずニヤリとさせられた。思えば、先述したゴジラの解釈に関しても、監督の事を知る者への「使える物は全て使う」という決意の表れだったのかもしれない。何が何でも、東宝の大スターたるゴジラはヒットさせなければならないと。
❹楽曲の素晴らしさ
鷺巣詩郎さんによる今作の劇伴は、どれも出色の出来で、サントラまで買ったほど。
予告編と第二形態の蒲田襲撃時に流れた『Persecution of the masses』が特にお気に入り。
また、『キングコング対ゴジラ(1962)』や『メカゴジラの逆襲(1975)』等の伊福部昭さんの楽曲を、オリジナルのまま使用するのも個人的にポイントが高い。エンドクレジットで『ゴジラvsメカゴジラ(1993)』のオープニング楽曲まで飛び出したのには驚いた。間違いなく監督の趣味全開なのもアリ。
❺“初代の呪縛”からの解放
今作が果たした最も大きな役割は、これに尽きると思う。
歴代の監督達は、都度設定や舞台をリセットしつつも、初代ゴジラだけは決して無かったことにはしなかった。勿論、偉大なる初代への敬意からなのは言うまでもないが、だからこそ、そこに縛られてきた事もあったはずだ。
しかし、庵野監督は、その鎖を引きちぎり、新時代のゴジラを創造してみせた。厳密に言えば、今作も初代を意識したオマージュ等を盛り込んだ上での、【ゴジラという存在の再構築】なので、ある意味では初代に縛られてはいるのだが。
だが、今作が無ければ、その後のアニメ映画やテレビアニメでの、ゴジラの出自の自由さには繋がらなかったはずだ。
それが出来たのは、特撮への類稀なる愛を持ちつつも、決してゴジラというキャラクターを愛したわけではない庵野秀明監督ならではのアプローチであったと思う。
❻物議を醸したラスト
ヤシオリ作戦後、ゴジラは東京駅地点で凍結され、人類は核の申し子たるゴジラとの共存を余儀なくされる。
※細かい話になるが、このヤシオリ作戦による凍結の瞬間、天に咆哮するゴジラの鳴き声が『ゴジラ(1984)』の物である事から、今作はもう一人の監督である樋口真嗣監督の雪辱戦の意味も込められていたのだろうと解釈した。庵野監督にとって『ナウシカ』の巨神兵がルーツであるように、樋口監督にとっては84ゴジが特技監督としてのルーツなのだから。
また、84ゴジで描かれたゴジラを巡る米ソとの核攻撃を巡る政治的駆け引きは、今作でアメリカが熱核兵器を使う・使わないを日本政府はヤシオリ作戦で駆け引きするという構図に受け継がれているので。
話を戻すが、シリーズお約束の海に帰るのではなく、東京のど真ん中に凍結される形になるゴジラ。カメラがその尻尾にズームしていくと、その先端には不気味な人と思しき異形の存在の姿が確認され、幕を閉じる。
私自身は、この尻尾の先端は、第二次世界大戦の戦死者や長崎・広島の原爆による死者と被爆者を示す彼らへの鎮魂と、忘れてはならない「痛み」の表現だと思っていた。
今作は、初代が製作された時代の「反核」ではなく、最早生活の一部になってしまった「核とどう共存していくか」という現代的なメッセージにアップデートされていた。しかし、「反戦」のメッセージだけは、どれだけ時が経とうと変わる事も忘れる事もあってはならない普遍的なメッセージであると、『ゴジラ』という作品で示すべきもう一つのメッセージを、最後にキチンと提示してみせたのだと思っていた。
しかし、監督にとってこの背鰭を持つ人型の何かは、単にヤシオリ作戦の失敗によるゴジラ第五形態の可能性を示すものに過ぎなかったようだ。
また、ゴジラが二足歩行を可能にしたのは、恐らく行方不明となっていた牧教授がゴジラになる前の水棲生物と融合を果たしたからで、今回の事態は、核を憎んだ牧教授によるテロ行為だったという可能性を示唆している。更に、作中では語られていないが、この先ゴジラは群体化し、やがては宇宙での活動を可能にし、果ては真に神と呼べる高次の存在へと至るのだそう。
もう、何から何まで解釈違いだった。ゴジラを巨神兵のみならず、エヴァとまで重ね合わせているのかと…。また、ゴジラ程の完全生命体が、単なる一老教授の復讐心によって誕生したのかと思うと残念でならなかった。
ハッキリ言いたい。
「ゴジラはゴジラである時点で、既に“神”なのだ!!」
❼まとめ
稀代のオタク監督が描き出した新時代のゴジラは、この先シリーズに関わる全ての作家を初代の呪縛から解き放ち、自由なゴジラ像を描けるようにした。
これだけ不満や欠点を漏らしつつも、5回も劇場に足を運んだりしたのは、間違いなく本作は「面白い」からだろう。
改めて、庵野秀明監督、お疲れ様でした!そして、ありがとうございました!!