ネタバレ! クリックして本文を読む
哲学者のキルケゴールがこんな事を言っている(以下、意訳)。
世の中、クズばっかりである。
王様であろうが貧乏人であろうが関係ない。
自分がクズだと気付いていない者こそクズの極みである。
自分がクズだと気付いてしまった者は、
そんな自分を変えようとするか、
もしくはクズのまま居続けようとする。
どちらにしても絶望から抜け出せない。
どうあがいても、自分も他人も救えない。
こんなクズを救いたもう存在は何なのか?
(この答えが彼の著作「死にいたる病い」の主題である。)
__
そんなキルケゴール的な、絶望と救済を、『キング・オブ・ニューヨーク(1990年)』のあたりから、一貫して描いてきたのが、アベル・フェラーラ監督だと思う。
映画自体は、酔っぱらいがクダ巻いて暴れているような、なに言ってんだか分からない、哲学とはほど遠い作風であるけれども。
『アディクション(1995年)』では直接キルケゴールを引用していて(手元にDVDが無いので記憶違いかもしれないが)、当時は、フェラーラのくせに何を気取ってんだがと思ったが。
近作『4:44(2012年)』などで描かれるクズの絶望と結末は、キルケゴールそのまんまだろうと思う。
__
本作も、すがすがしいまでのクズの絶望が描かれている。
本作は、一応、実在の人物、ドミニク・ストロスカーン(フランス大統領の有力候補でありながら、婦女暴行疑惑で失墜)をモデルにしているが、社会的・政治的な意味はとても薄い映画だと思う。事件についての新事実がわかる訳でもないし、ポリティカルサスペンス的な面白さも無い。そういうものを求めて観た方には、肩すかしというか、金返せレベルの駄作ではないかと思う。
あくまでも、ひとりの単独な人間の、あまりにも身勝手な、自業自得な、破綻。誰も救えないし、誰からも救われたくないという、開き直りにも似たクズの絶望が描かれるだけである。
__
主人公演じるジェラール・ドパルデューのクズっぷりが絶妙。カメラ目線の表情が怖い。
フェラーラの映画はとにかく男優を脱がす傾向にあるが、ドパルデューもまた、見ても全然嬉しくない裸体をさらしている。その崩れきった裸体は、まさにクズの体現である。
__
クズの絶望なんて、そんな辛気くさいものを、なぜ映画化するのか?というご意見もあるかと思う。
ここでキルケゴールの言葉を借りると、
「(絶望をつきつめていくような)考え方は陰気なものではない。むしろ逆にこのような考察は、ふつう或る種の暗がりの中に放置されがちなものを、明るみに出そうとするものである。それは人の気をめいらせるものでもない。むしろ逆に、人の気を引き立たせるものである。」
クズばっかり描いてきている割には、フェラーラの映画が不思議と明るいのは、そういう理由もあるのではないかと思う。
(クドくてダサい作風に、思わず笑ってしまうという別の理由もあるけれども。)
__
追記:個人的な不満を一つあげるならば、ジャクリーン・ビセットをもう少し上手く撮れなかったのか?と思う。フェラーラに上手さを求めちゃイカン、そんな気もする。
追記2:セックス依存症の主人公、救済とその不可能。そのあたりは、トリアーの『ニンフォマニアック』とも重なるが、トリアーが明晰に映画を組み立てているのに対し、この映画は、本当にグダグダしており、そこが楽しいなあと思う。