「<静かなる勇気の作品>」アメリカン・スナイパー ShujiMinato@7777さんの映画レビュー(感想・評価)
<静かなる勇気の作品>
一言でいうとするならば、これは「勇気」の映画だと思います。
劇場公開時から話題の名作(イーストウッド監督)で、DVD化されても、非常な話題を生んだ作品(日本以前に、すでに本国であるアメリカで、主人公であるカイル・クーパー氏(狙撃手)ご自身の人生も含め、非常な話題を呼んだ作品でした)。
その名作を、つい最近になって、ようやく自身、鑑賞することができました。
その感想を言うとするならば、当初、思い描いていたご作品とは、まったく異なる(違う)印象で、最後には、イーストウッド監督ご自身のメッセージだと思われる、(カイル・クーパー氏への称賛と黙祷とともに)、「静かなる勇気」を観る人々に伝えようとしている、そんな(静かな、しかし鍛え上げられた鋼のような、イーストウッド監督独特の)風格を、そして、確かに監督であるイーストウッド氏が、カイル・クーパー氏の人生を描くことで伝えようとした、その「静かなる勇気」を、この作品からは確かに頂くことができました。
この作品(名作)についての批評や話題は、日本公開時から、多く眼にすることができました。いわく、「イラク戦争の悲劇を描いた作品」「戦争の悲惨さ」、そして、「(その戦争に駆り出される)兵士たちの犠牲や悲劇」、などなどでした。当然、そういった批評やコピーを眼にする側としては、そういった映画(戦争の悲劇や帰還兵の悲惨さを伝えるもの)として認識し、しかも、それが、イーストウッド監督のものである以上、「かなり厳しい(覚悟で観なければいけない)作品なのだろうな」、と思っていた(ご縁のあるだろう作品で、必ず観させていただかなければならない名作なのだろうな)のですが、
実際に、全編を通して(しっかりと)鑑賞させていただく機会を持ったあとでは、(そういった戦争の悲劇や悲惨さのみを強調していた)諸批評とは、まったく異なる作品であり、印象がありました。
一言で言うとするならば、それが、全編に静かにみなぎっている、
「決意」であり、「行動」であり、ひとりの人物の「生の軌跡」であり、
「静かなる勇気」でした。(その勇気は、確かに受け取りました)。
主人公である(カイル)クーパー氏は、(映画で描かれているように)、敬虔なキリスト教(バプテストなどの、プロテスタントだと思います)の家庭に育ち、父の厳しい教えを受け、青年時の(農場労働などの)放浪を経たのち、あの9・11テロに衝撃を受け、そこで初めて、「国(祖国)とひとびとを守るため」、軍に入隊します。そこで、最初は厳しい(軍の)洗礼を受けるものの、幼少時より父に鍛えられた、天性の狙撃の才能を見出され、「狙撃手(スナイパー)」として、イラクにおける米軍になくてはならない「兵士」となり、敵からは、一千名以上を倒した、悪魔のような狙撃手として、賞金首にされるほどの存在となってゆきました。
映画はその過程を、丹念に、しかし淡々と描いていきます。
(この、たとえ戦場描写であれ、徹底的に「静かに、そして淡々と」というところに、イーストウッド監督の「静かなる決意」を感得できます。)
最初(冒頭)の場面(米軍を倒すため、対戦車手榴弾を手に襲ってくる女性と子供の狙撃(射殺))からして、すでに作品は、(戦争の悲惨さやテロ戦争の残酷さ、イラクの破壊などすべてを含みこんだ上での、静かなる勇気と行動とを)描きつつ、すべてをあらわして(暗喩)しています。
様々な批評や論で語られていた、「イラク戦争の悲惨さ」、そして、現在のイスラム国などの混乱にも通じていく、「反テロ戦争の犠牲と凄まじさ」、そして、そこ(戦場)に投入されていった兵士たちの犠牲と「傷」もまた、すでに冒頭にして、そこに(静かに観客の前に)置かれています。
しかし、この作品が捉えたかった(伝えたかった)主題は、そこ(戦争の悲惨さや兵士の犠牲)ではありません。そこ(悲惨さのみの強調)には、決して、イーストウッド監督の(これまでの作品をも貫いてきたような)主題(勇気)は、ありません。(なかったと信じています)。
イラク(戦争)の破壊も、悲惨さも、そしてテロリストとの凄まじい手段を問わない(懸賞金や拷問、尋問をも伴った)倒し合い(殺戮)も、多くの批評が声を大をするまでもなく、すでに、(もはや)、わたしたちの現実の「世界」には、完全なる(すでに置かれている)「現実」(リアリティ)として、当然のように(今このときにも)、それはあります。
イーストウッド監督は、冒頭のその衝撃的なシーンから、決してそれ(反テロ戦争の悲惨さ)から眼を逸らすことなく、しかし、(静かなる決意と勇気をもって)、それ(戦争と戦場)を、(鋼鉄のような、しかし静かなる決意で)淡々と描いていきます。(この淡々と、という手法には、凄まじい意志が必要です)。
しかし、それ(戦争の現実と悲惨さ)は、それのみが、この作品の主題ではありません。
もはや、それ(9・11以降の凄まじく激化していくテロリズムと、対テロ戦争の犠牲と悲劇)を、この「世界」の当然の「前提」として、しかし、そこ(そうなってしまった世界と戦場、そしてそれぞれの人の立場において)で、
「何を決断し、どのように行動し、生きてゆくか」
を、イーストウッド監督は、カイル・クーパー氏という天性の狙撃手の生の軌跡を通じて、淡々と、しかし鋼のような静かなる決意で、問うています。
そして、そこで監督が提示しているものが、この映画(アメリカン・スナイパーという名作)の全編(と奥底)に静かにみなぎっている、
「静かなる勇気」(と行動)でした。
この作品では、戦闘シーンも、あるいは、対テロ戦争(対テロリスト)の「現実」も、一切、派手さや人を退き付ける激しさもありません。そこには、静かなる砂漠のごとく乾き切った冷徹さと、静けさがあるだけです。クーパー氏という、天性の狙撃手を描きながらも、彼を利用した、戦場や戦意の高揚、愛国心の(いたずらな)高揚や押しつけといったことに通ずる(と捉えられがちな)描写ですら、たんねんに取り除き、ただ、(全編にみなぎる静かなる勇気と決意を根底に置きながら)、「静けさ」のみが、そして、「現実」(と、そこに生きる人の行動)のみが、そこにはあります。
そして、その中心に、カイル氏という、(兵士という)信念に徹したひとりの人間の「生」が静かに置かれています。
本作では、伝説的な狙撃手と呼ばれたクーパー氏ですら、いわゆる映画的な、ヒーローのように敵を殺傷し続ける「見せ場」はほとんどありません。彼(カイル氏)は、密告の罪で、電動ドリルで殺害されようとしている協力者の小さい子供ですら、(敵の狙撃を受けているため)、結局は、助けられないまま終わってしまいます。(それ(ある種の無力と限界)が、戦争の現実です)。
しかし、そういった傷(仲間(兵士)の死や、イラク人のひとびとの犠牲、恐るべきテロリズムとの闘い)を確実に負いながらも、狙撃手として自身を位置づけているクーパー氏は、(映画の中で)、家族を抱えながらも、ひたすら戦地へと戻り、闘い続けようとします。そして、そこには、個々の戦場と、個々の作戦しかありません。そのなか(限界)で、クーパー氏(狙撃手)は、自己の使命(任務)を全うするため、全身全霊で、しかし、淡々と闘い続けます。
そこには、クーパー氏自身が負った「傷」(PTSDなど)が確実にありながらも、しかし、戦争依存症や、心身の病などではない、確かな、(苦しみながらも)、自身の「決意」があり、「信念」があり、そして何より、(イーストウッド監督自身が、監督として描き続けてこられたものに通じてゆく)、「静かなる勇気」があった、ある、と、作品は確かに(彼の生を通じて)描いています。
『勇気とは、保持することである』
という、古代ギリシアの哲学者の言葉(ソクラテス)があります。
その意味は、「勇気」とは、蛮勇や、大げさな行動(決意)をのみ言うのではなく、たとえ、状況を変えることができなくとも、また、どれだけ悲惨な(厳しい)現実であれ、自己(信念)を保ってゆくこと、保ち続けてゆくこと、そして、(その勇気に基づいて静かに)行動すること、それを説いています。
イーストウッド監督は、その言葉を、カイル氏という天性の狙撃手を通じて、そして、彼が、自身も恐怖や絶望に苦しみながらも、兵士としての使命と信念を全うし続けようとしたこと(行為)を通じて、わたしたちに(静かなる勇気について)、問いかけようとしています。
それこそが、監督の伝えようとした(静かなる)主題だったと、思えます。
映画の終わりにおいて、カイル氏は、(彼を心身障害で射殺した)同じ退役兵をサポートするため(助けるため)、一緒に車で出かけてゆき、それを妻が見送る場面で、静かに閉じられます。(その後の字幕で、その事実と、カイル氏の葬列(全米規模の追悼)が、スタッフロールに登場します)。
そこにも、仲間だったはずの同じ退役兵に射殺されるという、辛い(厳しい)現実(生の終わり)がありながらも、しかし、イーストウッド監督はそれを「帰還兵の悲惨さ」などといった型どおりの印象では終わらせず、むしろ、その事実すら、カイル氏という「静かなる勇気」を貫いた稀有な人物の「勇気」として、静かに描いています。(スタッフロールの、(実際の)カイル氏の葬列やメモリアルの写真や映像は、それに対するイーストウッド監督の、心からの同調であり、静かなる賛同のように感じます)。
そしてそこには、ただ、カイル氏という天性の狙撃手の信念を貫いた(最期の瞬間まで、だと思います)生の軌跡と、それを通じて描こうとした、この作品の全編に静かにみなぎっている、「静かなる勇気」だけが、観客の胸(心臓)には残されます。そして、それ(静かなる勇気)だけが、監督の伝えようとした信念なのだと感じます。
そして、その「勇気」は、個々の信念や、立場の違いには左右されないものです。日々の努力や、鍛錬、あるいは仕事であったり、あるいは夢であったり、あるいは家庭を保ったり(護ったり)、ひとを助ける、といったこと(行為)であれ、この作品でイーストウッド監督が提示し、問いかけている「静かなる勇気」は、必要なものであり、むしろ、それをみんなが共有してほしい、静かに保ち続けてほしい、と、イーストウッド監督は願っているようにも感じます。
その意味(観点)で、この映画(アメリカンスナイパー)は、(その主題からして)、普遍的な「生」の主題を扱っており、単なる「戦争映画」や、「戦争の悲惨さ」といった枠のみには収まりきらない、普遍的なもの(作品)です。
それは、反戦であったり、あるいはその逆であったりという、個々の「立場や信念の違い」には左右されないものです。どのような個々人であれ、立場であれ、信念であれ、日々、それを(静かに)つらぬいていって欲しい。それ(静かなる勇気)を、この作品からは確かに受け取りました。
そして、それ(本作の主題)は、イーストウッド監督ご自身の信念でもあり、生き方でもあり、そして、ある時期からの(監督)作品において、たんねんに、しかし静かに(執拗に)描かれてきた(伝えようとしてきた)こと(メッセージ)のようにも、確かに(強く)感じます。
これまで観てきた作品の中でも、非常な「勇気」と、「決意」とを貰うことができた稀有な名作だと、今は感じています。