この国の空 : 映画評論・批評
2015年8月4日更新
2015年8月8日よりテアトル新宿ほかにてロードショー
「浮雲」の影響を色濃く感じさせる、荒井監督の新境地
ベテラン脚本家・荒井晴彦が「身も心も」以来18年ぶりにメガホンをとった新作は、敗戦間際の東京・杉並を舞台に、母(工藤夕貴)と伯母(富田靖子)とともに慎ましく暮らす少女里子(二階堂ふみ)がヒロインである。度重なる空襲におびえつつも、結核で父を亡くした里子は、隣家に住む中年の銀行員・市毛(長谷川博己)に惹かれていく。戦時という死が日常化した極限状況下での淡い想いは、やがて身を焦がす性愛の渇望へと変化していく。
二階堂ふみの拗ねつつ甘えるような独特のイントネーションには既視感があった。ふいに思い浮かべたのは「浮雲」の高峰秀子である。実際、本作は戦時下の仏印で燃え上がった男女の、戦後の出口のない腐れ縁を描いた名作「浮雲」の前日談といった趣がある。隣接する家屋の堅牢なセットの佇まい、狭い日本間でのつましい食事風景には明らかに成瀬巳喜男作品の影響が色濃く感じられるのだ。
しかし、掃除がてら市毛の部屋に侵入した二階堂ふみが、頭の皮脂で黒ずんだ枕に顔をうずめたり、ほてる身体をもてあますように、「そろそろ そろそろ」と意味不明の言葉をつぶやきながら、肢体をごろごろと反転させ身悶えるさまは、初期の相米慎二作品における少女たちの危うい官能性を想起させずにはおかない。
米と食糧を手に入れるために農家に着物を売りに行った母子が河原で食事するシーンがひと際印象に残る。灯火管制による暗い闇夜のシーンが多いこの映画の中で、陽光がきらめく牧歌的な光景が現われ、ふたりが唐突に「空の父 空の兄」を唱和するシーンでは、理不尽な戦争への無念さと怒りが一挙に噴出し、異様な感銘をもたらすのだ。
本作によって、私小説的感慨にふけるナルシシズムから解放され、荒井晴彦は真の意味での映画作家になったといえるのではないだろうか。
(高崎俊夫)