解放区
劇場公開日:2019年10月18日
解説
自ら命を絶った友人のミュージシャンを正面から描いたドキュメンタリー「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を監督し、俳優としても活躍する太田信吾の初となる長編劇映画。日本最大のドヤ街とも言われる大阪・西成区の飛田新地やあいりんセンター、三角公園などでロケを敢行し、そこに息づく人々の姿を描いた。ドキュメンタリー作家になることを夢見ながら小さな映像制作会社に所属するスヤマは、引きこもり青年の取材現場で憤りと正義感から先輩ディレクターに反抗したことで、職場での居場所を失ってしまう。かつて大阪西成区釜ヶ崎で出会った少年たちのその後を追う企画を立ち上げたスヤマは、まるで自分の新たな居場所を探すかのように単身釜ヶ崎の地を訪れる。しかし、釜ヶ崎で天性のクズぶりを露呈してしまったスヤマは、一夜をともにした女から所持金を奪われてしまう。唯一の理解者である彼女とも連絡が取れなくなってしまったスヤマは、釜ヶ崎という町が持つ深い闇へと足を踏み入れていく。2014年・第27回東京国際映画祭「日本映画スプラッシュ」部門上映作品。
2014年製作/111分/R18+/日本
配給:SPACE SHOWER FILMS
スタッフ・キャスト
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2021年7月19日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
人種差別反対やLGBT主義を自負している人、大日本帝国の復活を応援している人、いわゆる左と右の両方の陣営の人たちにこの映画を観せて、その感想を聞いてみたい。
リトマス試験紙のような映画だ。
この映画は、大阪市にいちゃもんをつけられたことにより、映画祭の出品を断念したらしい。大阪市はこの映画で描かれているような人々の生活が「西成のリアル」として世間に広まることを嫌がったのかな?この映画で描かれている西成は昔の西成であって、現在は違う、という事らしい。
残念だ。
この映画、誤解されているというか・・・「西成のリアル」という観点からこの映画を観てしまうと、確かに、微妙だと思う。「西成のリアルを描いた映画です」という宣伝に釣られてやってくるような人間って、どんな人間なんだろうか?この映画の主人公である須山が、まさに、そんな人間の一人なのであるが・・・この辺り、非常にアイロニカルで面白いのであるが、説明が難しい・・・
「西成の街」は、この映画の要素の一つでしかない。「リアリティ」は、どちらかというと、この映画の「メイン」ではなく「サブ」要素に過ぎない・・・と思うのだが。
かく言う私も、観る前は「西成の生活を体験する映画かな?」なんて思っていた。
全然違っていた。
意図された演出とシナリオがあった。
西成の人が出てると聞くと、最近公開された「ノマドランド」のような映画を想像してしまいがちであるが、そういうのを期待してはダメ。いわゆる「ドキュメンタリー映画」として観てはいけない。「ドキュメンタリーを撮っている須山というクズ人間の物語」という、完全なるフィクションとして観た方が良い・・・てゆーか、そういう作品でしょ。どこからどう観ても。しかも製作者のメッセージ性がわりと明確で強い。私の所感的には「万引き家族」にとても似ていると思う。「私は社会派で善良な人間です!」とか自分で言っちゃうような輩を徹底的に批判している。だが・・・そのような輩に対して「ハッ」とした気づきを与えることができなかったという点では、この映画はまだまだなのかもしれない。でも良い線いってると思う。
私は西成のリアリティについてはわからない。西成には行ったことがないからだ。
でも、この映画の監督である太田信吾さんが西成に魅力を感じた理由はなんとなくわかる気がする。西成で路上生活者の支援をしている人たちの証言を聞いたことがあるのだが、やはり、西成は東京とは何かが違うらしいことが伺える。
この映画を観て、東京と西成で違うなぁと思ったことは、汚いおっちゃんがカップ酒片手に路上や公園でたむろしてる、ということだ。この光景は、東京ではいまや珍しい。道路も公園も綺麗。汚いおっちゃんはいない(東京では「私は社会派で善良な人間です!」と自称する輩が行政に苦情を言い続けた結果、こうなったのだが・・・)
路上とは公共の場所=みんなの共有スペースではなかったのか?東京の人は、自分が生活に困窮する可能性を考えないのだろうか?とよく思う。彼らは路上や公園にすらいれないとしたらどこに行くのか。自殺するのか?まぁ自殺する勇気があればの話だが・・・。
要は、西成には開放的な雰囲気がある。これについては、この映画の中でよく描けていたと思う。
映画の中で、「私は社会派で善良な人間です!」と自称する須山(本作の主人公)は、西成でその本性を曝け出す。
人種差別反対やLGBT主義を自負している人、大日本帝国の復活を応援している人、五輪に賛成する人、五輪に反対する人、人の命を大事だと主張する人、戦争に行きたい人。神を信じる人。そうでない人。
人は口ではなんとでも言える。嘘かもしれない。
その主張に行動が伴っている人が、どれだけいるだろうか。
全ての言葉は無意味なのか?
無意味だ。当たり前のことだろうが。なぜそんな当たり前のことがわからないのか。
まぁ仕方のないことだ。いまの時代、言葉の力が強すぎる。
とまぁ色々と語りましたが、要は、昨今のSNSで蔓延する「私は善良な人間です!」主張合戦をしている輩に対して、「お前口だけじゃん」と言わんばかりに冷ややかに一石を投じる本作のような映画を、私は好きなんですねぇ・・・はい。
2021年2月20日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:VOD
ここ一年で大人の社会科見学と称して西成に2度ほど行ってみた。汗が滲みた酸っぱい匂いの漂う三角公園、昼間から道路の真ん中で寝ている酔っ払い、自販機の50円缶ジュース、スーパー玉出の激安っぷり、コインパに貼られた居酒屋でシャブ売るなの張り紙、飛田新地とそれに隣接した保育園。何もかもが衝撃的で刺激的だった。そんな世界をテーマにした映画に目を引かれて視聴したが、ヤバさが足りない。もっとディープなところまで突っ込んで欲しかった。
MAX音量をあげてもみんなボソボソ喋ってて何を言ってるのか聞こえづらい(そーゆーのがリアルっぽいって思う人が居ると思うけど映画なら観やすい様に聞こえやすい様にするのが一番大事じゃないかなって....伝えたいものも伝わないよ)
薬物をするシーンが一番リアルっぽくて良かった
自分の中で西成のイメージがどんどん悪くなるなあ コワイ〜〜
2020年4月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
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画質や空気にドキュメンタリー感が溢れていて、ついぞ、ノンフィクションなのではないかと思い込みそうになるが、早い段階で「そうでない」と気付く仕掛けを用意している(本山の部屋取材のカメラで)。おかげで、どれほど真に迫っても安心して観られる。・・・そうわかっていたのに、なんだよ、これ、どっかからは本物の映像撮ってんじゃないか?って気になってしょうがない。フィクションとノンフィクションの境のすれすれをみせつけられているようなのだ。
はじめ、理不尽なディレクターにこき使われるADであった須山も、次第に同じ理不尽にまみれていく。それは、仕事が彼をそう変えたのか?西成という土地がそうさせるのか?堕ちていく須山を演じる太田(監督兼業)の、はじめの頼りなさっぷりからの変貌は、素なんじゃないかと思えるほど堂に入っていた。おそらくこのままこの世界に引きずり落とされていくのだろうし、当初の目的の達成も中途半端だし、彼女ともなし崩しだし、本山との関係さえ崩壊しているし。だけど、そんなぐらぐらな須山の立ち位置こそが、目を離すことができないこの映画の魅力なんだと感じた。
西成の人々の生き様なんて知る由もない。真実は画面の中の一部だけだろう。「どん底の人間なんて救えねえよ、勝手に上から眺めていい気になってんじゃねえよ」その罵声が、傍観者である僕の耳にこびりつく。
ふと、須山はあのまま走ってどこか遠くに逃げきるんじゃなく、いつの間にか、どっぷりと西成の住民となり、あの闇夜の立ちんぼの一人になってしまうんじゃないか?そんな想像をしてしまう。ああ、キツイなあ。