「狂った男が女を狂わす(1)」海を感じる時 Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
狂った男が女を狂わす(1)
『海を感じる時』(2014)
15歳未満閲覧禁止指定の映画であり、ポルノ作品を作っていた人が監督でもあり、アダルトビデオ的な性描写が初期から現れて来るが、最初は熊がみたいと動物園か、子供を肩車する男性と主役二人がすれ違って、性行為だけではなく家族というような対比を含ませている様子である。出会いの場面に遡るが、高校生の新聞部で二人きりの時に、男のほうが女に向かって、「好きではないがキスをしてみたいから」と言い、女が応じる。その後喫茶店で、女は男に、「前から好きだった」と告げる。女のほうはだから応じたのだろう。しかし男は「女の人に興味があって、君じゃなくても良かった」と言う。重ねて病的な面をもった関係性だと明らかになる。そこから女は男を思い続け、性欲処理のための「都合の良い女」として、離れないという話だろうと思う。女にとっては初めての男であり、純愛である。ところが男は最初から弄んでいる事を女に告げているのだ。次のシーンで、タバコを吸う女が中絶なのか、主役の都合の良い女に対して医師へ告げるための協力を要請するようなシーンがあるが、よくわからなかった。男と都合の良い女は同棲していた。現在の場面に
戻る。原作者の中沢けいは、21歳で結婚して2人を産んだが離婚して、シングルマザーで過ごしたという早熟かつ現代の問題を体現してしまったような人らしいが、法政大学の日本文学の先生をしているとの事である。教育者としてどう性やその他の事に関して講じているのだろうか。主役を演じる市川由衣みたさで、乳房や尻なども裸体で出て来るが、テレビドラマの『H2~君といた日々』という高校野球ドラマでリアルタイムに観たのが認識した最初だと思うが、そこにもキスシーンは演じて衝撃的に思えたが、それどころでは無い映画だ。しかし2005年のその映画より衝撃は無い。行為の度の強弱ではなくて、行為者の年齢や設定もあるだろう。テレビドラマではその後どうなったか知らないが、この映画では、高校生時代から何度も性行為を繰り返してきた事を予測させるような事態で、新聞部の部室で二人きりの時に男は暴力的に女を自ら脱ぐように命じて、女は従うが、演者はおそらく29歳で17歳かそこらにさせている所も倒錯的な所であろう。この映画は15歳以上は観ても可能にされているのがあるが、高校生は観ても可能にしているのはどういうことなのか。高校生なら性行為をしても良いと映画業界は判断していると言う事なのか。厳しい父母ががいなくなり、甘くいい加減になった日本社会の基準と映画業界は判断しているのだろうか。
愛してもいないとする最初に性行為してきた男をずっと追い続ける都合の良い女。このシチュエーションが、何を男女の純粋な関係として垣間見せようとするのか。だいたいそれが意図としてあったのだろうか。原作者は何を意図したのか。映画監督は何を意図したのか。内容があってもなくても行為は同じだが、内容が示されなければアダルトビデオやポルノと変わりは無い。俳優や女優は誇りを持って演じられただろうか。性の社会病理を考慮させるような隠された価値はこの映画にあっただろうか。女がタバコを吸おうとして、これは男の吸い殻のように見えたが、辞めるシーンがある。だがその後ブランコで平気で吸っているから常習だった。この前後の吸う吸わないの対比の意味はわからなかった。高校時代と何度も戻って行くが、女は身体だけでも良いならそれで良いと男に逆に頼んでしまうので、それまでは男は女を触ったり脱がせたりするところまでだったらしいが、長椅子を2つ並べて最初の性行為になる。これはなぜか性行為のシーンではなく、推測させる方法をとっている。ここら辺の見せ方の違いも何か考えてやっているのかどうか。現在の性規範の無くなってしまった同意があればなんでもありのような社会の中で、初めての男が愛してないのに性行為を許してずっと都合のいい女として添っていくというのは何を語ろうとしたのか。主人公の姉らしき女は、ハンドバックや洋服を買ってもらったし、売春みたいなもんよ。として何者かと関係しているらしい。妹は愛とは何かを姉らしき女に問いかけたようだが、姉もなんだか無機質的な事を言ったようだ。このセリフは解釈において大事だったかも知れないが、通り過ぎてしまった。二人は、高校時代に女が生理が止まっているのを男に告げる。女は産んでみたい。育ててみたいと男に言う。男は金は出すよと言う。女はあなたに似た男児が欲しいというが、男は拒絶する。
中絶は日本ではわかっているだけで年間20万件程度あるのだと言う。毎年である。これもその一つのケースに過ぎないのか。
(男が女を狂わす6)
深く感じて、5000字で書ききれなかった。
女は昔のあなたと同じことよと言うようなことを言うのだ。これは複雑な心理描写だと思う。そして、
男は女の服を破って、背後から女を突き上げて暴力的な性行為をする。こういうのが15歳なら観ても良い事になっているのが日本の現実であるが、男女とも泣いている。男は無言で部屋を出る。女はうつ伏せに放心する。一人つぶやく「高野さん。前から好きだったんです」これはキスを求められた時に女が男に言ったセリフである。女が男への純愛ゆえに行きずりの男と性行為してしまうというのは病的である。女の純情を最初に踏みにじってしまったのは男だった。女は酒とタバコに耽る。女の母親はミシンをしている。涙目の女にありし日の父親がピアノを弾くのが浮かんでいる。
これは女の転落は男の無愛情からのトラウマから来るのかなと思わせる。2時間ばかりの間にやたら市川由衣のエロティックな下着から裸のシーンが羅列されるが、なぜか長い作品に感じた。タイトルのような、海辺へ下着で女は出る。なぜかこの映画は、新聞部の部室と言い、銭湯といい、誰も二人か一人しかいないのである。そして海に向かって女は立つのであるが、『泣くかも知れない』という、MOTEL(須藤もん&対馬照)の関連したような歌が流れて終える。映画と性描写などの課題もあるが、内容を教訓的に観るならば、男は女を道義的に優しくみてあげなければ、女は狂ってしまうのだという事なのだろう。多くの狂った男に出会ってしまった結果、狂ってしまう女たちのいかにこの国に多い事か。原作者の中沢けいさんの他の作品は知らないが、彼女がシングルマザーで過ごしたというのも、関連しているのだろうか。男女は相互に作用し合ってしまう。
(狂った男が女を狂わす5)
女性がみたらどうか知らないが、市川由衣が脱いでいると
エロティックだが、同じように男が脱いでも全然エロティックではない。そしておやじは変態で市川の両腕を縛る。女に目隠しをする。目隠しがずれてしまい、市川の目が開く。このエピソードと女の気持ちはわからない。男はただのやりたい動物として出てきたのだろう。行きずりである。シーンは変わり、女は酒場で女友達かなにかと飲み、また夜中の公園になる。みっともなく女が枯れ葉をまき散らし、二人で枯れ葉を投げ合ってはしゃいでいる。なんのストレスからなのか。わからない。
そして朝になる。女は何かを見つめる。なぜかシーンが変わり、女が一人銭湯にいる。一人しかいない。背後からのヌードで湯を浴びる。ずっと浮かない顔ばかりしている。またシーンが変わり、ようやく男と再会して二人で晩御飯を食べる。女が作ったのだろう。煮魚などが並ぶ。男は「かび臭くないよ。おいしい」と言う。男は食べ続け、女はうつむいていたが、なぜか両方の箸で食器を叩く。すると、男も同じ真似をする。少しにやけてまた食べる。女はまたうつむく。さっぱりわからないシーンが続く。女が「あたち、おなかいっぱいでちゅ。ごはんなんかたべたくないよ」というと、男はちゃんと食べなさいというが、女はやだよーといって、膝を抱えて部屋の隅に固まる。そして、「あたしが他の男の人と寝ているの知ってる」と男に言う。女は自分のご飯を食べずに片付けてしまう。
男は「嘘なんだろう」といいながら、女の髪をわしづかみ、倒して服をつかみ怒る。男女の思いが逆転したように、あなたがあたしにしたことを他の人にしただけよ。と男に言う。男は好きだから殴ってんだよと言う。「あたしが憎い。あたしと寝た相手が憎い」と言う。「憎いよ」と男は言うが、
(男が女を狂わす4)
「春売り」だろう、このハルウリと母親が全身で怒っても、娘は後ろを向きながら煎餅をかじるのである。これは中沢けいの実話ではないとしても、21歳で結婚して二人産んで、それが離婚しているという原作者の人生も思想的に関連しているのかも知れない。しかしそうした人が大学の先生なのである。教育とは何を基準とするのか。コンクリートに囲まれた海のほとりで、母親は娘を大切に育ててきたのに、娘がこんなになってしまった。と亡くなった父親に泣きながら叫び、娘は母親に寄り添って、私は誰に叫べばいいんだろう。私も女なのよ。とつぶやく。そして悪人の男に、私は家を出るわと言う。男は俺と会っているのがおかしいというが、女はおかしくないという。女は男を追い続ける。決して肉体だけ提供したいわけでは無かった。男は女を突き放そうとするばかりだ。
この逆もあるだろう。悪い異性に関係してしまった場合、どうしていけば良いのか。別れればそれまでだ。悩みは消えるかも知れない。だが。これを付きまといだとかストーカーだとか単純な用語で片づけていいのか。女は結婚制度も守れないが、貞操を与えた相手に付きまとう。この話は男が責任を持てばそれで済むだけの話だったかも知れない。そこを踏まえても、フリーセックスで結婚制度も無視してしまった自由な性の社会の混乱とも思えたりする。とうとう、女は男に物を激しく投げ続ける。だが男は無表情で何も言わない。そして、「女はいいよな」と言う。そしてなぜか「一緒に暮らそう」と言う。巨大なツンデレである。この後どうなるのか。見つめ合っていると女は涙を流し、「好きよ」と言う。抱き合う。これでもまだ映画は終わらない。女は居酒屋でタバコをふかし酒を飲み、そこを出るとなぜか駆け出す。真夜中の公園で一人小石を投げ続ける。すると居酒屋にいたおやじサラリーマンがやってくる。なぜか女に石を差し出す。女は「夜なのに眩しくてあのイチョウの木眠れないから。」と伝統を破壊する。そしてなぜかおやじサラリーマンの部屋に入ってしまう。
わけがわからない。女の身体をさするおやじ。女は自ら服を脱ぎ始める。これが女のツンデレ男への仕返しなのか、なんだかわからない。
単純に男は悪人なのだが、女のほうの執着は一体何か。貞操なのか、純愛なのか。簡単ではないとしても結局別れてしまうほうが行きずりであり計算なのであろうか。実際の日本の男女は苦痛もなく別れて別の異性と快楽を共有しまた別れている。女は男の部屋に行く。男は絵を描くのが趣味だ。男は女が妊娠した時辛かったという。あんなこともう二度としたくないと冷たく言う。女は金だけ出すと言われた時にぞっとしたと男に告げる。セックスシーンの激しい映画だが、こうした心理描写はアダルトビデオとは違う面があり、難しい総体に仕立て上げられている。男は俺の生活を犯さないでくれと無感情に女に言う。女はあたしの生活の中に入ってきたのはあなたよと言う。どうして男はこんなにまでする女を突き放そうとしながら性行為だけするのか。男のほうの病理が強いとしか言えないが、女も貞操がないから、いや、貞操があって、この男から離れないのか。そして部屋で下着になり、あたしを描いてという。男は描かず、二人は性行為に及ぶ。ここはそう推測させる段階を少しみせて次のシーンに切り替わる。また母親とのシーンである。こうした出来事が生じてしまうのは、結婚という人類が考えた制度を揺らがしてしまったからだと思う。高校生で受験の時期に妊娠してしまっては、母親は怒るのが普通だとしなければ社会はさらに壊れていくだろう。娘は母親の厳格が、愛ではないと考え反抗する。この感覚の違い、そうした感覚を持つ娘が、社会を難しい事にしてしまったのだろう。その感覚を生み出してしまったのは一体歴史的に何だったのかが大事である。
続きをここに書いていいですか。
(男が女を狂わす2)
市川由衣はこの映画出演のすぐ後に結婚報道が出たと思う。一体彼女にとって2014年から2015年くらいのこの時期はなんだったのかとも思う。まだ3年未満くらい前ではあるが。しかも現実の夫とは違う俳優と性行為シーンをしながら、2016年に現実には役者と第一子を産んだとの事である。現実の女としての市川由衣と女優としての市川由衣が性に関しての重い出来事が交錯している。映画に戻るが、高校時代に母親がそれは怒るかも知れないが、中絶を怒るシーンがある。かなり厳格な母親で女の髪の毛をむしり掴んで問いただす。娘は「どうして愛している相手の子を妊娠してはいけないの」と母親に反抗すると、母親は娘の頬をひっぱたく。娘は肉体だけでも男が欲するなら娘自体の必要性があるのではないかという手紙を男に出していたが、母親はそれをどうした経緯か閲覧してしまったのだ。女は結婚しなくても嫁に行けなくなっても男に対してあなたに身体だけ捧げますと書いたのである。母親は頭がおかしくなりそうだ情けない。好いてもくれない男に身体を預けるなんて損でみだらだ。あんたのしたようなことなんかしたことなんかわからないと娘を泣きながら叩き続ける。娘は反抗して遊びじゃないんだと言う。母親は泣きわめいて出ていけと言う。この母親の気持ちのように感情移入しなければいけないはずだ。それが娘のかたを持ってしまう社会にしてしまったことが、現在の社会の性の混乱の
因果だろう。男は女を遊びに使っているのに、何度も性行為を重ねていく。しかし女は離れようとしない。これは女の純愛なのか。難しい。男を変えようとする純愛だったのか。