「監督もお迎えが近いのでは?輪廻転生をロマンチックに語った作品。」かぐや姫の物語 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
監督もお迎えが近いのでは?輪廻転生をロマンチックに語った作品。
高畑勲監督が竹取物語の映画化を思いついたのは、東映アニメ入社時に同作の脚本プロットの公募があったことがきっかけだったそうです。その時は応募しなかったものの以来、ずっとご自身の頭の中には、竹取物語はどう描くべきか、考えてきたそうです。
監督には、かぐや姫が犯した罪と、“昔の契り”~つまり月世界の約束事ということが、いつも引っかかっていて、地上に降ろされたのがその罰ならば、それがなぜ解けたのか。それをなぜ姫は喜ばないのか。そもそも清浄無垢な月世界でいかなる罪があり得るのかそもそもいったいかぐや姫は何のためにこの地上世界にこの地上にやってきたのか。すべてが謎のまま、答えが出せずにいたそうです。
半世紀を経て、その糸口を月での父王とかぐや姫とのやり取りに見いだした監督はいよいよ竹取物語をベースにした本作の製作にかかりました。
しかし映画化に着手した途端、肝心の父王とかぐや姫がやり取りするプロローグシーンをカットして、観客の想像に委ねることになったのです。
その結果、「かぐや姫が犯した罪と罰」は何なのか、テーマ曲で謳われる「今のすべては、過去のすべて」とはどういうことかイマイチ分かりにくくなってしまいました。レビューの後半に、独自の見解を披露したいと思います。
高畑監督が極力説明的な台詞をそぎ落として原作の範囲に留めたのは、主人公の心をとらえることにあったのでしょう。
カットした分、昔話の主人公にすぎなかったかぐや姫を、涙も笑いもある活き活きとしたキャラに仕立て、観客が感情移入し得る主人公として際立たせたのです。
子供の頃から、野の花や動物たちと親しんで育ったかぐや姫は、宮中の雅な世界に閉じ込められた自分をニセモノのといい、自然と一体となって自由に生きることこそホンモノの生き方と希有しました。ときにその渇望は爆発して、洛中の屋敷を抜けだし、野山を荒々しく駆けまわります。その怒りの表現が簡素で荒々しい線大衆だけで表現されるところが新鮮に映ります。
すべての原点となる、前半の山里の描写。まるで「動く水墨画」といっていいほど、話のタッチで花鳥風月を描きだしています。
またかぐや姫の赤ん坊のときの可愛らしさといったら、たまりません。娘の成長を見守る翁と媼の幸福感はさぞかしと共感してしまいました。少女になってからは山を駆けたり、年上の少年に好意を抱いたり、そこに息づいているのは、竹から生まれたという特別な存在ではなく、いたって普通の女の子の姿でした。
だからこそ後半、都に連れて行かれて、姫君になるための教育を受ける退屈な日々が続くシーンとの対比が引き立ちます。姫がなぜ地球での生活に嫌気がさして月に帰りたいと衝動的に思ったのか、納得できる展開でした。
この自然に囲まれた生活と都の生活の対比は単に子供から大人へ成長していくときの喪失感だけではないと思います。
姫のところに帝が忍んできて、姫を抱きしめようとしたとき、姫はそんなこの世の栄華などニセモノだと悟るのです。
これは極めて仏教的な悟りだと思います。月世界の実際が極楽浄土として、この世はあくまで仮の世界。汚れの世界。汚れの世界に住することは、真実の世界の住人からみれば、それ自体が罪なのです。そしてこの世で生きることはいろいろな苦しみを避けて通れないので罰でもあります。そう解釈すれば、姫が負った罪と罰とは何かが見えてくることでしょう。
本当の世界の価値感を知っている姫にとって、この世の快楽や栄華はニセモノで、そんなものに囚われのない清らかな心こそ本物だったのです。だから、この世の権威の象徴である帝からの誘惑は決定的でした。
自分も15歳の時に、生まれる前の世界が恋しくなり、自殺を図ったこともありました。その時は、かぐや姫とは逆にこの世に追い返されてしまいました。だから姫の気持ちもよく分かるのです。
でも、姫は醜い心の人間や、獣たちが暮らすこの世の意義も否定していません。興味深いのは、養父母の体面が必要なときは、豹変して礼儀作法やことの演奏をパーフェクトにこなす雅さを見せつけるのです。桜の花が一面に咲くなかで喜びを爆発させるのも、この世で経験する意義を姫はつかみ取っていたからなのでした。
人は帰天後に天国に赴くと、波動同通の法則に引き寄せれられて、同じ価値観の人達と毎日仲良く生きることになります。それは価値感がぶつかる地上で暮らすよりも楽ちんなことです。しかし、同じ価値観ばかりだといつか飽きが来てしまうでしょう。だから姫のように、地上に生まれ変わって、波乱に満ちた経験を過ごしたいと思うようになるわけです。
なので「今のすべては、過去のすべて」とは、輪廻転生のことを語りたかったのだろうと思います。となるとこの話は、この世に生きる意味を問うなんて生やさしいものではありません。きっと高畑監督の潜在意識には、もうすぐお迎えに来ますからねというサインが来ているのだろうと思います。ラストは高畑監督の潜在意識の願望が色濃く漂っているのではないでしょうか。
姫を迎えにやってくる、お釈迦様を先達としたお迎え集団。「姫神」のようなBGMにのってフワっとした癒される感覚でお迎えが来たらと、誰もが憧れるシーンだと思えませんか?きっと高畑監督自身も、あんな感じの安からな帰天を臨まれているのだろうと思います。
ときに彩度を落としてモノトーンぽくしたり、空中にファ~と舞い上がる質感は、ジブリならではのファンタスティクなシーンでした。そういえばラスト近くで幼なじみと空中を遊泳するシーンも良かったです。
そして多くの観客は、翁や媼との別れのシーンに、結末は分かっていても涙してしまうことでしょう。そこにインターバル取ったのは、高畑監督の憎い演出だと思います。