「年齢を重ねるごとに視点が変わる作品を「名作」という」かぐや姫の物語 chochoさんの映画レビュー(感想・評価)
年齢を重ねるごとに視点が変わる作品を「名作」という
ステイホームの片付けで出てきたジブリ作品の見直し中で、2021年にして初めて観て、衝撃を受けました。多分、これからの人生で、何度も観ると思います。
自分の人生を見直したいと、強く思わされる作品。
「私は生きるために生まれてきたのに、自分の心を誤魔化して、私はいったい、この地で何をしていたのでしょう、帰りたい・・・!!!」
今わの際の人間の普遍的な叫びを竹取物語の中に読み込む手腕。
登場人物が一人ずつ自分の人生を、「リアリティ」をもって生きて、動いて、重層的に行き交う作品。
いまさらですが、ほんとうに、高畑監督は天才です。
■姫、翁、媼の個性について
人間としてのリアリティをもつということは、矛盾をもつということ。
かぐや姫は、父のためと、流されて生きてしまった。そのあっさりとした適応や、突発的な激情や従順や悟りは、成長期の人間のそれ。
帝のもとへ行けと言うのなら殺してくれ。
初めての明確な拒否。
逃げる性質の姫が、はっきりと言葉にした、コミュニケーションへの初参加。
このかぐや姫に、もっと生きていく時間があれば、初めての明確な前に進む意欲も、生きているうちに掴み取れたのかもしれない。
翁は、子供を幸せにすること=学歴、富裕層、玉の輿という固定観念の虜だった。
自分が、なんの固定観念の虜になっているか、はっきりと分かっている人間なんて、いない。
早合点して突き進み、進めば進むほど、自分の過ちは硬く殻になって自分を包み、見えなくなっていく。
翁の功名心、成金のいやらしさ、見栄虚栄、おべっかやブランド崇拝、出世欲のようなものはちらほら出て来るけれども、大本をただせば、「姫の幸せ=高貴な姫」が大前提であるとことが、翁の憎めないところ。
公達の求婚も断ったなら断ったで、しょんぼりと気落ちしているのがその良い証拠。
本当に、自分の名誉欲ありきの業突く張りの親ならば、虐待して恐怖心で洗脳してでも、かぐや姫に自分の言うことを聴かせることでしょう。
媼は、初登場から、仏様のような賢者ぶりがすごい。
赤ん坊を育てると直観するところも、成金暮らしにも微動だにしないところも、安定した人格の美徳を示す。
だが、単なる神がかった三文キャラクターを作らないところが、天才高畑。
媼もまた、リアルな人間としての、業を含んでいる。
賢者は観察してしまうのだ。
静観してしまう。物事を動かさない。
媼がかぐや姫を山に戻したのは、寿命を迎えたあとでした。
でも、リアルに巻き込まれて必死に生きているとき、事件の渦中で、娘を山に戻さなくてはと、最適のときに決断できる人間が、いったいどれだけいるのでしょうか。
■竹取物語の根幹
「私はきっとこうすれば、幸せになれた、いまそれが分かった」
振り返って、幸せを逃したことを知る。
自分の幸せが、何だったのかを知る。
竹取物語の核は、それぞれの人間が大切にしているもののすれ違い、
価値観のすれ違いだったのではないかと、高畑監督の解釈を見ていて、痛感しました。
大切なものは、人それぞれ、財宝、名声、美、不老不死、社会的成功、平穏、心の慰み・・・。
自分の寿命が分かったとき、姫は翁に言いました。
姫「お父様が願ってくださったその幸せが
私には辛かった
そして我知らぬまに
月に救けを請うてしまったのです
帝に抱きすくめられ
私の心が叫んでしまったのです
もうここにはいたくないと」
翁「それでは姫様自ら迎えを読んだと言うのですか?
そ、そんな・・・ひどいではありませんか
ああ何ということだ」
姫「でも私は帰りたくないのです
このままでは!」
そう。このままでは、終わりたくない。死にたくない。
そもそも、嫌悪する異性にいたずらをされて腹立ちまぎれに逆上して願うことが、本心のはずがない。
人間は、ずっと不義理をするわけではない、ずっと殺意を抱くわけではない、ずっとズルばかり考えているわけではない。
演技派の嘘つき、金の亡者、軽薄な遊び人、善人だけれど実は裏で悪人、ただの善人などなど。
四六時中、一種類でありつづけるようなステレオタイプの登場人物観が、揺さぶられる。
咄嗟の逆上。それによる、取り返しのつかない結末。
刻一刻と、人間は変わる。変わり続ける。
その点でも、人生のリアリティを色濃く反映している。
それでは、姫はなにが欲しかったのか?
映画の終わりに、姫は言います。
姫「私のせいでひどい目に遭った」
捨丸「何でもないさあんなこと」
姫「そうよ、なんでもないわ、生きている手ごたえがあれば・・・、きっと幸せになれた。」
姫が欲しかった大切なものは、生きている手ごたえ。
■女の一生
ジブリの女性へのエールは、もっともっと、日本に染み込んでいってほしい。
男児にも女児にも、日本語の分かる子供のすべてに、染み込んでいってほしいと思います。
次の人生があれば、きっとかぐや姫は、こう生きる。
「私は誰のものにもならない。私も走る。力いっぱい!」
■映画の根幹
帰りたい。あの山へ。生きたい。
帰りたくない。悟りの無へ。生きたい。
徹頭徹尾、生きたい、生きたかった。
でも、すれ違い、目を逸らして、生きてしまった。
「もう遅いのです何もかも!
ああ私はいったい
この地で何をしていたのでしょう」
「偽りの小さな野や山で
自分の心を誤魔化して
私がなぜ
何のためにこの地へ降り立ったのか
どうして見知らぬこの地の歌を
あの歌をずっと以前から知っていたのか
鳥虫けもの
ああそうなのです
私は生きるために生まれてきたのに
鳥やけもののように」
帰りたくないという悲痛な叫びは、
「死にたくない」と言う
今際の際の、人間の、普遍的な心の叫びになる。
人間は、死ぬ間際になって、悟る。
ああ、そうなのです。
私は生きるために生まれてきたのに、
自分の心を誤魔化して
私はいったい
この地で何をしていたのでしょう
死にたくない
死にたくない
生きたい
■わらべうたについて
鳥虫けもの
草木花
春夏秋冬連れてこい
まわれめぐれめぐれよ
遥かなときよ
めぐって心を呼び返せ
鳥虫けもの
草木花
人の情けをはぐくみて
まつとしきかば
今帰りこむ
媼「本当に私を待っていてくれるのなら
すぐにでもここに帰ってきます」
姫「ああ帰りたい今すぐに」
■竹山より都会、都会より竹山
帰りたい、生きている手ごたえのあった、私たちのあの山へ。
それが、高畑解釈のかぐや姫の願いでした。
天が生きたがった罰として下界に下ろした場所は竹取の翁の竹の中。
死のように静謐で澄み切った悟りの月世界では、
激情とともに生きることが罰になる。
よく生き切ることが最も、重い罰になる。
天が、最も重い罰を下せる場所に、最初から、かぐや姫を送り届けたのだとすれば。
かぐや姫の言う通り。
あなたとなら、ここでなら、よく生きることができたのかもしれない。
すべてが過ぎ去ってから、「いまなら分かる」と言わないで済むように。
自分の人生を注視したいと、思いました。