「ほんたうに、ほんたうに美しいものだけを。」風立ちぬ 加藤プリンさんの映画レビュー(感想・評価)
ほんたうに、ほんたうに美しいものだけを。
宮崎駿、五年目の(最後の?)作品。
この映画を見たときに、僕は涙が止まらなかった。
それほどまでに、この映画を美しいと感じた。
いや、正しくは
(醜いほどのエゴで)
「美しさ」が表現されている映画だと感じたからだ。
この美しさとは、宮崎駿の美学のことである。
彼の思う美しい世界、美しい映画とはこのような姿をしていたのだ。
だから、この映画は極端に賛否両論になるであろうことは火を見るよりも明らかだ。
要するに、彼の美意識を美しいと思うか。美しくないと思うか。
コレばかりは、宮崎駿という人が(という人の創作する世界観が)好きかキライかだから
仕方がないと思う。
黒川の無念、菜穂子との恥ずかしいまでのラブシーン、煙草のニオイ、日本人の業。
ほんの50年ほど昔まで行われていた、無知で愚かな治療法。
菜穂子の気持ちを考えれば、張り裂けそうな想いが伝わってくる。
そしてあの、もっとも美しい嫁入りのシーンで、
宮崎駿は自分の絵を捨てた。
あのシーンの菜穂子の顔は、彼の筆ではない。
最近の流行りの、どちらかと言えば、貞本義行のようなラインなのだ。
それを宮崎駿がOKしたこと。
そして、それを「最も美しくないといけない」「自身の最後の作品の」あのシーンに採用したこと。
そのくせその様式、たとえば古い手作りガラスの表現などにはこだわる美意識。
二郎のガラス越しの世界には、美しいものしか映らない。
そして、彼が美しくないと感じたものは、この映画からどんどん消えてゆく。
母も、女中も、菜穂子も、魔の山の思ひ出も、美しいものを作り出さなくなった友人も、戦争も、
二郎の目には入らなくなってゆく。
忘れてしまうのだ。
つまり、戦争も、菜穂子も、美しくないものであるがえに、描かれない。消えてゆく。
そして彼が見た最後の夢は、「紅の豚」で皆が旅立っていった、
あの戦闘機乗りたちのあの世ではなかったか。
そこでは、なんと残酷なことか、美しかった頃の菜穂子が待っている。
しかしそれもまた、「彼の見たかった」美しい夢でしかない。
これほど美しく、残酷な映画はないだろう。
理解できるものを選ぶ映画である。
まさに、ワインを飲みながら、愉しむ映画であろう。
ワインの飲めないお子様、煙草の味のわからぬ無粋なものは、この映画に「描かれる」資格がないのだろう。
残念だが、アキラメたまえ。
(2017年追記)
宮崎駿はこの映画を、名探偵ホームズのような
犬のキャラクターを用いて製作することも可能だったと思う。
その方がこの映画の神髄を欺き、キャッチーでポップな映画として
動員数を伸ばすと共に、その表向きの表面とは裏腹の
残酷なテーマを表現するに都合が良かったような気がする。
ただ・・あざとすぎるその手法はさすがに
御大の脳裏をよぎったとしても、実現には至らなかったと思うが。
鈴木Pが、また高畑勲が、このプランを聞いたらどう思うだろうか。。
PS
某棒読みの声優に非難が集まっているようですが(笑
棒読みの声優によって、試されているのは
観客、貴方がたの想像力なのですよ?
棒読みだから棒読みにしか聞こえない、では、芸術を鑑賞する値打ちがない。
その棒読みをどう、頭のなかで変換し、素晴らしい作品を完成させるか・・それが芸術だと思いますが。
如何でしょうか。
賛否両論あると思いますが。その解答が無限にあること、、それこそが芸術だと思いますが。如何でしょうか。