「本作への批判、堀辰雄との類似性に関して」風立ちぬ paulineさんの映画レビュー(感想・評価)
本作への批判、堀辰雄との類似性に関して
--本作への批判、堀辰雄との類似性に関して--
この映画を一緒に観た友人は、非常に怒っていた。彼女いわく
「軟弱な世界観。当時あったはずの悲惨さを全く描いていない。まるで夢物語だ」と。
私はその言葉を聞きながら、ある種の既視感を覚えていた。
この映画への批判は、堀辰雄が文学史の中で受けてきた批判と同質だったからである。
「素寒貧」「堀の小説にでてくるような生活はどこにもない」
三島由紀夫、大岡昇平らが堀を評しての言葉である。
本作への批判を、堀文学と比較しながら考えていきたい。
...
本作は、堀文学へのオマージュが散りばめられている。
二郎が軽井沢のホテルで菜穂子の部屋を仰ぎ見るシーンは『聖家族』からの、菜穂子がサナトリウムを抜け出して二郎のもとへ赴くエピソードや喫煙シーンなどは『菜穂子』からの引用であろう。(余談であるが『甘栗』における喫煙シーンは文学史上屈指の美しさであり、堀辰雄は煙草を大変上手に扱う作家でもあった。)
エピソードのみならず、本作と堀辰雄作品は、その表現方法も酷似している。
堀辰雄はアクテュアリティー…現実性を徹底して排除した作家であった。
「私は一度も私の経験したとほりに小説を書いたことはない。」と、自ら語っているように、
結核を患っていた己の療養生活をそのまま描くのではなく、美しい虚構に再構築して小説に仕立てた。
私小説として現実の悲惨さを描くのではなく、ラディゲのような純粋な虚構を書く事、「現実よりもつと現実なもの」を描く事が堀辰雄の目指すところだったのである。
それは、この映画における、戦争や死に触れながらも悲惨さを排除し、美しさ純粋さを際立たせた演出法でもある。
このような表現方法は熱狂的なファンも獲得するが、前述のような批判を生む。
堀辰雄に対して
大岡昇平は
「きれいなことだけ書く」
「堀の小説にでてくるような生活はどこにもない」
「変にセンチメンタルなことを書いてるのは、人の憧れをそそろうという策略」と断じ、
三島由紀夫は
「文体を犠牲にしてアクテュアリティーを追究するか、アクテュアリティーを犠牲にして文体を追究するかのどちらかに行くほかはない」という、表現者にとっては切実な問題を充分理解しつつも、
掘文学を「青年子女にとって詩の代用をなすもの」(大人向けではない)と評するのである。
小説の発表当時だけではなく、むしろ戦後あけすけな堀批判がなされたという事は、大戦を経た社会では、堀辰雄的表現の限界を感じていたのかもしれぬ。それとは別に、あまりにも自己完結された堀文学への羨望にも似た揶揄だったのかもしれぬ。
大岡らの評と、我が友人の本作への否定的な論は、非常によく似ている。
現実をあえて描かない事を、甘えとみるか、作品世界の完成度を上げるための手法と認めるかの、瀬戸際の論なのである。
本作への否定は、宮崎駿やジブリという特異性に対してのものと勘違いされがちだが、堀辰雄的な表現法への批判であり、それはもう何十年も前から行われてきたことなのである。なんら目新しいものではない。
当然、宮崎駿自身も「美しいものを描く」表現法が賛否を呼ぶ事は承知の上だったのであろう。
アクテュアリティーが無いという批判は、宮崎が目指したもの…堀辰雄的世界により近づいているという賞賛でもあるのだ。
堀辰雄を最大のエクスキューズにし、徹底的なアクテュアリティーの放棄をやってのけたとも言えるのである。
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--堀辰雄との相違性に関して--
では、本作と堀文学が全く一緒かというと、そういう訳ではない。それぞれの作家性が当然のごとくある。
その相違を考えていきたい。
...
宮崎駿は堀越二郎という一人の天才を描いたが、
堀辰雄も一人の天才をモデルに用いた。堀の師でもあった芥川龍之介である。芥川をモデルとした人物が『聖家族』『菜穂子』などには出てくる。
天才をモデルにし、作者本人との類似性を提示したという点では一緒なのだが、そのスタート地点が決定的に違う。
映画では、二郎の夢を追う道程を描いた後に、愛する人の死と敗戦という深い喪失が提示される。
堀の小説は逆である。
最初に芥川の死という喪失を提示するのである。
映画のラストから、堀の小説はスタートするのである。
芥川の自死。芥川を理想としていた堀にとっては、どれだけの絶望であったであろうか。その上で、
「(芥川の死は)僕を根こそぎにしました。で、その苛烈なるものをはつきりさせ、それに新しい価値を与へること、それが僕にとつて最も重大な事となります」とし、物語を紡ぎ始めるのである。
喪失そのものと対峙し新しい価値を与えることが小説の第一義なのだ。
であるがこその「いざ生きめやも」なのである。
宮崎駿は美しき夢を描き、堀辰雄は夢の果てた後の無惨さを美しく転化して描いたのである。
...
ここから先は個人的な所感である。
映画を見た際に、若干ひっかかりを覚えたシーンがあった。
軍部との会議のシーンと、特高警察の登場シーンである。
(これらのシーンに対して史実と違うという批判は無効だ。なぜなら本作がアクチュアリーの排除を前提とした作品だからである。)
他のシーンが圧倒的な美しさに溢れていたのに対し、あまりにも戯画化され過ぎていて、ありきたりな印象しか残さない手垢の付いたシーンであった。宮崎駿の観客をリードしようとするその方向性が、容易に見透かされるのである。
これらのシーンは、個人と全体の対立という非常に重いテーマをはらんでいるのだが、その表現法はあまりに安易だ。
観終わった後しばらく気になっていたのだが、宮崎駿本人がこう述べていた。
「(会議のシーンなどは描きたくないが)やむを得ない時はおもいきってマンガにして」カリカチュア化して描くと。
戯画化され過ぎているのも、宮崎の計算のうちだった訳である。
映画全体のバランスを考えれば、それが正解なのかもしれない。
そう判りつつ、堀辰雄だったらこれらの場面をどう描くのかを、考えてしまう。
堀辰雄だったら
作品全体のバランスが悪くなったとしても、判りやすいカリカチュア化ではない方法をとったのではないか。
もし描ききることが出来ないのであれば、その場面をカットしストーリーそのものを変えてしまったのではないか。
その堀辰雄の潔癖性こそが、純化された作品群を生み出す源であった。
三島由紀夫が「素寒貧」と酷しながらも、「小説を大切に書くこと」を堀から学んだと表する所以は、そこにある。
そして堀から表現に対する実直さをとったら何も残らないのである。
宮崎駿は、堀辰雄よりも遥かに老練な表現者なのかもしれぬ。その手管の豊富さは批判されるべきものではないのであるが、
堀辰雄への共感と同等のものは持ち得ない。
カリカチュアを良しとする老練さは、純化された作品には向かないからである。
宮崎駿がその老練さを捨てた時、真に純化された作品を作った時、
本当の傑作が生まれるのではないか。